第10話「夏の帰省・ただいま、家族」 前半③
馬車の車輪が、帝都の石畳から街道の敷石に変わり、さらに赤土の混じった乾いた道に変わっていく。
その感触の変化を、アルフォンスは座席の背越しにずっと聞いていた。
フェルドラク侯爵家の紋章を外した、地味な旅用の馬車。
革張りの座席に浅く腰を下ろし、窓の外をただ眺める。
アルフォンスにとって、帝都の南門を出るのも、街道を半日以上下るのも、生まれて初めての経験だった。
——景色が、違う。
帝都の整然とした並木も石造りの街並みも、とっくに遠くなっている。
車窓を流れていくのは、傾きかけた西日に染まる麦畑と、低く連なる果樹の枝。
日に焼けた顔の農夫が遠く畑の縁で一度こちらを見て、また鍬を振り下ろしていく。
書物で読んでいた「帝国直轄領の南端・フェルンハイム」。
『遠い里』の古い響きを名に持つ、麦と果樹の町。
その単語が今、アルフォンスの目の前で、ちゃんと匂いと音を持って展開されている。
土の匂い。草の匂い。熟れかけた果樹の、ほのかに甘い香り。
書斎の北向きの窓の向こうでは、一度も嗅いだことのない空気だった。
「——アル様」
向かいに腰を下ろしていたハンスが、声をかけてきた。
「間もなく、町の境にございます」
「……ああ」
短く答えて、アルフォンスは座席の中で身を起こした。
旅装の詰襟を、指先で軽く整える。
感情が揺れると指先に熱が寄る癖は、帝都を離れて半日ほどの馬車の中でも相変わらずだった。
——けれど今日は、それが書架や絨毯を焦がす心配だけが理由ではないと、自分でもぼんやり気づいていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
今回の道程は、民情視察だ。
父から課された任務。
いずれ「盾」を継ぐ者として、帝国直轄領の民の暮らしを自分の目で見ておく——それが、表向きの理由。
(……でも)
でも、全部ではない。
あの書斎で父と視線を交わしたあの瞬間から、自分のなかで一本だけ別の糸が張っている。
その糸の先に何があるのか、アルフォンスはまだ自分で言葉にしていない。
言葉にしていない、というより——する必要がないと、どこかで決めていた。
糸の先の風景は、たぶん、亜麻色だ。
*
馬車が、ゆっくりと速度を落としていく。
車窓の向こうに、古い石の標が二つ、見えてきた。
背の高い、くすんだ灰色の石柱が街道の両脇に対になって立っている。
長い年月に削られた表面に、もう読めなくなりかけた古い文字がわずかに残っていた。
守り神の石像と呼ぶには素朴すぎる、けれど、ただの目印というには大きすぎる——街道に古くから立ち続けてきた、土地の境の標だった。
西日が、その石柱の片側だけを橙色に染め上げている。長い影が、赤土の道にまっすぐ伸びていた。
その向こうから、赤土の道に細い石畳が混じり始めていた。
御者が、ゆっくりと馬を止めた。
「——着きました。フェルンハイム、北の境にございます」
ハンスが座席から音もなく身を起こす。アルフォンスも、扉の取っ手に手を伸ばした。
指先に、少しだけ熱が寄る。
——無視する。
扉が、軽い音を立てて開いた。
斜めに傾いた西日が、馬車の中をふわりと染めていく。
アルフォンスは、革靴の先から地面の上へ降り立った。靴裏が踏んだ赤土と石畳の混じった地面は、帝都のそれよりも少しだけ白っぽく乾いていて、まだ温かかった。
周囲を、ゆっくりと見渡す。
境の標の向こうに広がっていたのは、書物のどの図版よりも豊かな風景だった。
道の両脇に、商家と思しき建物が並んでいる。
白い漆喰の壁に、素焼きの赤茶色の瓦屋根。
中心部に向かうにつれ小さな広場が見え、泉を囲んで市場の露店がいくつも並んでいた。
夕暮れ前の市場は店じまいの支度を始めかけていて、夏の果実、籠に積まれた麦、布を掛けた野菜の上に、橙色の光が斜めに落ちていた。
籠を抱えた女たちが、笑い合いながら夕方の値切りを楽しんでいる。
音が、帝都とは違う。
帝都では常に何かが響いていた——馬車の音、鍛冶の槌、遠くの鐘。
ここではそのどれもが遠くて、代わりに、人の笑い声と、乾いた草の中で鳴く夏の虫の声と、どこかの家の軒先で鳴る風の音だけが、耳の近くに届いていた。
アルフォンスは、ほんの一拍、立ち止まった。
(……ここか)
そう、思った。
言葉は、それだけだった。
書物の頁の外に、ちゃんと世界がある——そのことを、十二歳の自分は今日、生まれて初めて、肌で知ったのだった。
「——アル様」
ハンスが、一歩斜め後ろから静かに声をかけてきた。
「町役場は、広場の向こう側にございます。ご挨拶の前に、少々町の様子をご覧になりますか」
「……ああ」
「では、あちらの小道から外縁を回るのが、よろしいかと」
ハンスが示したのは、広場の手前から西へ逸れて町の外縁に沿って歩く小道だった。石畳が途中で赤土の道に変わり、商家の並びが終わると、民家と畑が交互に見え始める——町の外側を緩やかに辿る道筋。
アルフォンスは、頷いた。
そして、ハンスの示した方向に歩き出した。
*
石畳の道を外れ、西の小道に入る。
赤土の道の両脇には、石垣に囲まれた民家がゆったりとした間隔で並んでいた。
どの家も、帝都の貴族邸とは比べるべくもなく素朴だが、ひとつひとつの敷地は広く、庭には夏の花と、家族の気配と、手入れされた小さな菜園がある。
どこかで、鶏が短く鳴いた。
夕餉の支度を始めたのか、低い屋根のひとつから、薄い煙がゆっくりと立ちのぼっていた。
(……穏やかだな)
そう、思った。
帝都の貴族街の「静けさ」とは、まるで違う種類の静けさだった。
守られているのではなく、もともと争うものがあまりないのだ。
魔力の強さで階級が決まる、あの帝国の縦軸とは少しだけ外れた場所に、この町の人たちの暮らしは根を張っている。
書物では、そうは読み取れなかった。
——どう書かれていても、匂いまでは本に閉じ込められない。
アルフォンスは、石垣の内側の低い屋根をひとつひとつ目で追いながら歩いた。ハンスは相変わらず、主君の一歩斜め後ろに、正確な歩幅で付き従っている。
小道がゆるく西へ逸れて、赤土の畝が視界に入ってきた、その時——
(……)
ふっ、と。
肌の表面を、かすかな何かが撫でた。
アルフォンスの足が、わずかに緩む。
夏の風ではなかった。
風なら、とっくに何度も頬を撫でている。
そうではなくて——もっと内側に近い場所に、水の気配がごく薄く届いた。
(……凪いでいる)
春の学院であの子の隣に立った時と、同じ種類の凪だった。
自分の「火」が理由もなく穏やかになる、あの感覚。
瓶底の眼鏡の奥に隠された深海が、外に向かってほんのわずかに滲み出ている時に、肌が覚える温度。
アルフォンスは、自分の足が知らぬ間に止まっていることに気づいた。
風の来る方向に、視線を動かす。
西。
赤土の小道がもうひとつ細い道に分かれていて、その先に——
麦畑に隣接した、一軒の家があった。
石垣の低い、素朴な農家。
庭には夏の果樹が一本、大きく枝を広げている。
軒先には、小さな銀の鈴のようなものが吊るされているのが、遠目にも見えた。
家の背後には、夕陽に染まる麦畑がずっと遠くまで、燃えるように広がっている。
家の前には、古い木戸がひとつ。
敷地の端に、小さな井戸がひとつ。
——胸の奥が、ひとつ、引き絞られる。
なぜ、と自分で問う前に、アルフォンスの足はもうそちらに向きを変えていた。
ハンスが、わずかに目を上げた。
主君の足が、自分の示した外縁道ではなく、別の細い道へ逸れたことに気づいている。気づいているが、何も言わない。ただ一歩、歩幅を合わせ直しただけだった。
——その時、ほんの一ミリだけ。
ハンスの口の端が、緩んだ。
咎めるでも、からかうでもない。
ただこの男が、物心ついた頃からずっと見守ってきた主君の今日のこの一瞬だけを、こっそりその目の奥に焼きつけているような——そんな小さな綻びだった。
主君の背中からは、見えない位置で。
綻びは、即座に、完璧に元の無表情に戻った。
*
アルフォンスは、赤土の細道をゆっくりと歩いていった。
夏の風が、西から吹く。麦畑のほうから、夕陽に染まる金色の穂の擦れる音と——誰かの低く穏やかな笑い声がふっと、ひとつ届いた気がした。
男性の声だった。
年配ではない。かといって若くもない。土と太陽に馴染んだ、深い温かい響き。
(……父親、か)
そう思った瞬間、アルフォンスは胸の奥でもう一度、ぎゅっと何かを踏みしめた。
家の前の、古い木戸のすぐ手前。
——そこで。
アルフォンスの足は、止まった。
木戸は、半分ほど開いていた。
その向こうに、井戸と、夏の果樹と、洗い終えた布の揺れる庭先が、見えている。
家の中からか庭からか、もう一度、低い笑い声が聞こえた。
今度は、はっきりと。
アルフォンスは、短く息を整えた。
指先の熱を、きちんと奥へ押し戻す。
そして、木戸の手前で、きちんと立ち直した。
——盾を継ぐ者として、恥じぬように。
父の言葉が、耳の奥で遠く響いた。
* * *
(……ここか)
もう一度、そう、思った。
今度の「ここか」は、さっき北の境で思ったものとは、まるで違う温度をしていた。
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