第10話「 夏の帰省・ただいま、家族」前半②
私は眼鏡を外したまま、足の指で赤土をひとつ、握った。
握れない。
赤土はさらさらと、足の指のあいだからこぼれていった。
帝都では土を握ろうとしたことすら、なかった。
水路のそばへ歩いていくと、父様が少しだけ困ったように眉を下げた。
「……今年は、雨が少なくてな」
「……え」
「向こうの区画、水が足りてないんだ。母さんが心配している」
父様の指が、畑の西の端を指していた。麦の穂の色が、確かに少しだけ他より黄ばんでいる。
私は何も言わずに、水路のほうへ数歩進んだ。
父様は何も言わずに、その背を見ていた。
——『何も言わない』というのは父様のいちばん深い言葉なのだと、ずっと前から知っている。
指先を、水面のすぐ上にかざした。
(……潤いの手——お貸しします)
水が、応えた。
詠むほどのことでもない、母様譲りの小さな術式。
指先から、銀に近い透明な糸がふわりと立ち上がる。
水路の水面に、細かな文様が走る
。透明な水の筋が畝と畝の間を、音もなく分かれていった。自分の意志を持っているかのように。
西の区画のほうへ。
黄ばんだ麦の根元へ。
水の筋は音も立てずに土の隙間に滲んでいって、赤土が色を深めていく。銀に近い透明な糸が、七本、八本、九本——夏の光を受けて、畝の間に、虹のような筋をひと筋描いた。
(……ごめんね、遅くなって)
麦の根に、心の中で呟いた。
しばらくして、私は水路から手を引いた。
振り返ると——父様が、畝の向こうでこちらを見ていた。
鍬を肩にかついだまま、夏の光の中で、ただ笑っていた。
(……父様)
父様は私のほうへ歩いてくると、軽く首を傾げて笑った。
「……気持ちいいだろ、ここの水は」
「……え」
「帝都の水と、違うだろう」
それだけ言って、父様は私の頭にぽん、と手を置いた。
父様の手のひらは、土の匂いがした。
朝から鍬を握っていた手。
私はその匂いを、しばらく嗅いでいた。
「……父様、」
「ん」
「……あの、」
「言わなくていい」
父様の手が、ぽんぽん、と頭の上で弾んだ。
「言わなくていいよ、リアネ」
* * *
昼の仕事が一段落して、私は家の張り出しテラスに腰を下ろしていた。
石造りの古いテラスは、家の南側に低く、深い庇をのばしている。
夏の光が、赤茶色のタイルの上に斜めに落ちていた。
軒先に吊るされた小さな銀の鈴が、夏の風に揺れて、澄んだ音を一度立てる。
井戸で冷やしたハーブ茶を素焼きの杯に注いでもらって、両手で包みながら、膝の上でゆっくりと息を吐いた。
父様が、隣に腰を下ろした。
少しの間、どちらも何も言わなかった。
畑の向こうで、遠くの鳥の声が夏の空に吸い込まれていく。
「……リアネ」
父様がテラスの石の柱に軽く凭れかかりながら、ぽつりと言った。
「お前、母さんに似てきたな」
杯を持つ手が、止まった。
「……え」
「顔つきが、な」
父様は庭の向こうの、何もない空をゆっくりと見上げていた。
「最近、ふとした横顔が、昔の母さんにそっくりになる時があるんだ」
「……そう、ですか」
「うん」
それだけ言って、父様はまた黙った。
軒先の銀の鈴が、もう一度、小さく鳴った。
母様に似てきた、と父様が言う時、その声にはいつも少しだけ遠い温度が混じる。
(……父様は、母様のことを、ずっと見ている)
それが十二の今の私にも、やっと少しだけわかってきた気がする。
「……父様は」
私は杯に目を落としながら、小さく訊ねた。
「母様と、はじめて会った時のこと、覚えてますか」
父様がちらりとこちらを見て、それからゆっくりと笑った。
「……覚えてるよ」
「どんな、」
「雨の日だったな」
「雨」
「ああ。夏の夕方の、大きな雨だ」
父様は遠くの空を見たまま、続けた。
「この畑の向こうの林を抜けた先に、道端にうずくまってる人がいてな。ずぶ濡れで、泥だらけで、でも——銀に近い金の髪だけが、雨の中でもきれいに光ってた」
「……」
「連れて帰ったら、熱を出して、三日間寝込んでな」
「……」
「目を覚ました時、台所の窓から夕日が差してて、母さんはその光を見て、一度だけ声を出さずに泣いたんだ」
父様が、ふっと息だけで笑った。
「……あの人は、ぜんぶ、俺に話してくれたよ」
「……え」
「熱が下がって、ようやくお粥が食べられるようになった頃に、な。自分がどこから来たのか、何から逃げてきたのか、どうしてここで、ぜんぶ捨てて生きようとしているのか」
父様の指が、石のテラスの縁をゆっくりと辿っていた。
「俺はな、リアネ。聞き終わったあと、一度だけ、ちゃんと考えたんだ」
「……」
「俺なんかに、この人を隣に置く資格があるのかってな」
夏の風が、ほんの少し、父様の亜麻色の前髪を揺らした。
「それで俺は——聞いて、それでも、隣にいるって決めた」
胸の内側で、何かが小さくふるえた。
魔力は、ひと粒も持っていない。
剣も、杖も持てない。ただ畑を耕して、作物の声を聞いて、麦の色を見る——それだけの、ひとりの農夫。
その農夫が、ぜんぶ聞いた。
ぜんぶ受け止めた。
そして、隣にいると、自分で決めた。
銀の鈴が、またちりんと小さく鳴る。
父様が、私のほうを向いて、穏やかに笑った。
「お前も、似てきたな」
「……」
「母さんに、どんどん似てきてる」
その言葉の奥に、ずっと先を見ているような遠さが混じった気がした。それが何なのか、私にはまだわからなかった。
素焼きの杯のハーブ茶は、もう冷めきっていた。
そんなに長い時間、私は父様の話を聞いていたのだ。
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