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第10話「夏の帰省・ただいま、家族」前半①

 

 

フェルドラク侯爵家の書斎は、夏の朝の光が届かない。


北向きに作られたその部屋は、一年を通してひんやりと静まり返っている。重い絨毯が足音を吸い、壁一面を埋める書架は、祖父の代から積まれてきた軍略書と歴代の民情録で埋まっていた。

窓の外では、蝉の声が遠い。


アルフォンスはその部屋の中央で、父の前に立っていた。


「——今年の夏は、民情視察をしてこい」

机の向こうから、低い声が落ちてくる。


フェルドラク侯爵エルハルトは、書面から目を上げないまま言葉を継いだ。

「守るべき対象を知らぬ者に、盾は張れない」


盾。

フェルドラク侯爵家が、帝国に対して持つ役割の名前。剣ではなく、盾。それを十二の夏になった息子に、改めて教え直すための言葉だった。

アルフォンスは短く息を整える。


(……来たか)

予感はあった。


——ほんの数日前、学期末試験が終わった日の帰り道。廊下を並んで歩きながら、自分が口の中で噛み殺した言葉がある。


『帝都から、農村までどのくらいだ』

聞いたところで、どうするつもりもなかった。ただ、距離が知りたかった。知ってどうする、と自分に問い直して、いい、と打ち切った——そのはずだった。


なのに。


父の言葉が、ちょうどその問いを迎えにきた形になっている。


「……父上」

アルフォンスは、静かに口を開いた。


「自分で、視察先を選ばせていただけますか」

書面をめくる音が、止まる。


エルハルト侯爵が、ようやく顔を上げた。

金の瞳がひとつ、息子と同じ色でこちらを見ている。アルフォンスはその視線を、真正面から受けた。


短い沈黙。


「……理由を聞こう」


「視察であれば、自分の足で選ぶべきかと」


嘘ではなかった。


——でも、全部でもなかった。

喉の奥で、そのことだけはきちんと自覚していた。自分が今、父に差し出している正論の後ろに、正論ではない何かが一本、糸のように通っている。その糸の先が、亜麻色の髪と、深海の色をした瞳にまっすぐ繋がっていることも。


言葉にはしない。

する必要もない。


「——どこだ」

父の問いは、短い。


アルフォンスは一拍、迷った。

迷った、という事実を父に見せないために、呼吸をひとつ落ち着ける。感情が揺れると、指先に熱が寄る。この書斎で、書架を焦がすわけにはいかない。


「……では、フェルンハイムに」

空気が、ほんのわずかに動いた気がした。

父の片方の眉が、上がる。目が、細められる。


「……フェルンハイムか」


「はい」

帝国直轄領の南端。帝都から馬車で六時間から八時間。特産は麦と果樹。領主は置かれておらず、直轄地を通じて皇室の台所を支えている、素朴で穏やかな土地——と、書物にはそう書かれている。


『遠い里』という、古い言葉の響きを名に持つ村だった。


父の瞳の奥で、何かが一瞬、測るように揺れた。

アルフォンスは気づかないふりをした。父の視線は、十二年分、慣れている。見透かされている、と思った瞬間に負けるのは、もう知っていた。

長い、沈黙。


蝉の声が、窓の向こうで一度、高くなる。

やがて、父は視線を書面に戻した。羽根ペンをインク壺に浸し、何事もなかったように署名の続きを書き始める。その指先の動きを見ながら、アルフォンスは、自分の耳の奥で鼓動が鳴っているのを聞いていた。


「……行ってこい」

書面に目を落としたままの、短い一言。


「供はハンスを連れていけ。——侯爵家の人間として、恥じぬように」


「はい」

一礼する。

踵を返す。絨毯が足音を吸い、重い扉が、ゆっくりと背中で閉まった。

扉を閉めた瞬間、アルフォンスは短く息を吐いた。

廊下の石畳は、ひんやりしている。頭上の高い窓からだけ、夏の光が落ちていて、白く、遠い。

背後に、控えていた足音がひとつ、近づいてきた。


「——アル様」

黒髪を整然と撫でつけた長身の青年が、一歩引いた位置から静かに並ぶ。ハンス・エーデル。フェルドラク家代々の侍従の家系に生まれ、アルフォンスが物心つく前から、その傍に置かれてきた男だった。

切れ長の瞳は、いつも通り、何の色も映していない。

ただ、アルフォンスの歩幅には、正確に合わせてくる。


「……着実に、でございますな」

と、だけ言った。


咎めるでも、からかうでもない。ただ、この屋敷で誰よりも長くアルフォンスの背中を見てきた男が、その歩幅をひそかに数えているだけの声だった。

アルフォンスは、視線を動かさずに、


「……うるさい」

と、低く返した。

耳の先が、少しだけ、熱かった。

ハンスは、表情をひとつも動かさなかった。


 * * *


学院の正門前。


夏の昼下がりの光が、馬車寄せの石畳に白く反射している。長期休暇の初日とあって、正門から連なる通りには、迎えの馬車が何台も列を作って並んでいた。侯爵家の紋章つきの豪奢な車両、伯爵家の彫刻入りの車体——そのいちばん端。


地味な乗合馬車のそばに、ゼノはひとり立っていた。


身分を感じさせない旅装。くすんだ金茶の髪。眼鏡もかけず抑えてもいない水の魔力が、周囲の空気にかすかにさざめいている。通りすがりの令嬢がちらりと視線を向けて、慌てて目を逸らした——のを、ゼノは横目で見て小さく肩を竦めた。


ヴェンタリアで情報屋に徹している時のほうが、よほど息がしやすい。母様譲りの深い水色の瞳は、黙っていても目立ちすぎるのだと、帝都に来てから何度も思い知らされている。


正門から、亜麻色の髪をひとつに束ねた少女が、大きな鞄を抱えて歩いてくる。


不格好な黒縁眼鏡、猫背気味の歩き方。ほかの令嬢たちが従者を引き連れて豪奢な馬車に乗り込んでいく横で、誰の目にも留まらないように——そう振る舞う癖が、しっかりと身についている妹の姿だった。


(……相変わらず、その眼鏡は似合わねえなあ)


ゼノは、片方の口の端だけを小さく上げた。


「——兄様!?」

妹の声が、驚いたように駆け寄ってくる。


「よう、リアネ」


「な、なんで、兄様がここに……」


「通りかかっただけだ」


「……南端行きの、直通便の馬車に?」


「おう、偶然な」


「兄様の『通りかかった』は、嘘だって、もう十二年生きて知ってます」


「生意気言うようになったな」

にやりと笑って、ゼノは片手を伸ばした。亜麻色の髪の頭に、わし、と乱暴に手を置く。


「……兄様、乱暴です」


「うるせえ。十二の小娘が、兄貴に口答えするんじゃねえよ」

そう言いながら、ゼノは妹の鞄をひょいと持ち上げた。


「……軽っ。お前、ちゃんと飯食ってるか?」


「……ぎ、ぎりぎり、食べてます」


「『ぎりぎり』って、そういう使い方する言葉じゃねえんだわ」

ぶつぶつ言いながら、ゼノは鞄を御者台の後ろの荷台に放り上げて、先に馬車に乗り込んだ。向かいの席にどさりと腰を下ろす。リアネもおずおずと乗り込んでくる。


二列向かい合わせの座席。ほかに相席の客はいなかった。帝国直轄領の南端まで、直通便の馬車を一台まるごと押さえていること自体、本来なら平民の女学生には不可能な手配である。


そのことについて、リアネは何も言わない。言わないように、育ててきた。


「……兄様、ありがとうございます」


「——通りかかっただけだ」


リアネが、くすっと笑った。




馬車が動き出してから、しばらくして。


帝都の城壁を抜けると、風景が一気に開けた。麦畑、丘、低い牧柵。夏の匂いが、車窓から流れ込んでくる。ゼノは腕を組んだまま、ぼんやりとその景色を眺めていた。向かいの席のリアネは、はじめのうちこそ窓の外を見ていた。けれど四時間ほど経った頃には、背もたれに頭を預けて、静かに眠り始めていた。


   *   *   *


馬車の揺れが、緩やかに落ち着いてきた。


向かいの席で、リアネは眠っている。黒縁の眼鏡は、まだ外していない。亜麻色の前髪が馬車のリズムに合わせて、ほんの少しずつ揺れている。


ゼノは腕を組んだまま、窓の外に目を移した。ソル・グラニア帝国の南に向かう街道。麦畑がひらけ、遠くに丘がいくつか低くうねっていた。季節は夏の入り口で、空は乾いた青をしている。


(……少し、痩せたな)

春に送り出した時より、リアネの頬はほんのわずかに削げている。学期末試験の手紙に『ぎりぎりでしたが、越えられました』と、ほとんど言い訳のように綴られていた。


こいつは、父さん似だ。


魔力こそ母様の才能を濃く受け継ぎすぎたくらいに受け継いだが、性格は完全に父さん似。お人好しで、真面目で、ギリギリまで自分で抱え込む。だから『ぎりぎり』なんて手紙が来た時点で、ゼノの中では結論は出ていた。


——様子を、見に行く。


ヴェンタリア自由連邦にもアクアニア魔導公国にも、自分の足で繋いできた情報の糸がある。帝都から南端までの直通便をわざわざ押さえるくらい、ついででもなんでもない。


ゼノは、指先を軽く持ち上げた。


掌のあたりに、薄い水の膜が極うすく展開される。空気に溶けるほど薄い、感知の術式。

向かいで眠るリアネの魔力を、ごく控えめに読みに行く。


(……ブレスレットも眼鏡も、ちゃんと効いてるな)

それから、ゼノはもうひとつ別のことを確かめた。


ここ数週間——正確には学期末試験が終わってから——リアネの魔力の「凪」の中に、ごく微かに別種の魔力の名残が水のように溶けている。


火。


並の火じゃない。構築系の、おそらく先祖返り。周囲の魔力ごと巻き込んで燃え広がる、制御しきれていない質のもの——それがリアネの水の中で、まるで手のひらで受け止められたみたいに静かに凪いでいた。


(……あのフェルドラクの坊ちゃん。アルフォンス・カシウス・フォン・フェルドラク)


(名門の跡取りで、別名、黒炎の獅子)


(感情で周囲を焼くような「災害」が、俺の妹の横で、凪いでやがる)

ゼノは、ごく短く息を吐いた。


面白がっているのか、舌打ちしているのか、自分でもまだ分けていなかった。

(——もう、片思いとかそういう次元の話じゃ、ねえな)


水の膜を、ゆっくりと引き戻す。


向かいで眠るリアネの横顔を、ゼノはそっと見やった。


十二の子どもの横顔に、母様の輪郭がふ、と重なる瞬間がある。

そのたびに、胸の底で何かをぐっと踏ん張り直す。


(……母様の、娘だからな)


目立たないように、誰にも気づかれないように、と願って育ててきた。

そのために眼鏡を作り、ブレスレットを作り、特待生のフリをして卒業しろとこの口で何度も言い聞かせてきた。


——なのに、あの「災害」に、先に見つかっちまった。


まあ、いい。俺がいる。こいつが水を滲ませた時は、すぐに動ける——それだけのことだ。


(……シスコンじゃねえ。念のため、だ)


母様に頼まれた義務の、そのはずだったのだが——自分の中でそう言い訳を並べているうちに、なんだか途中から馬鹿らしくなってきた。


ゼノは、音もなく短く笑った。


馬車が、また大きく一度、揺れた。


車輪が、石畳から赤土の道に乗り換えたのだ。遠くに、低い屋根と古い水車のある風景が見えてくる。


——ああ、帰ってきたな。


「——リアネ」

ゼノは向かいの妹の膝を、人差し指の背でちょん、と軽く叩いた。


「起きろ。着くぞ」


 * * *


兄様の声に、私は目を開けた。


車窓の外が、もう赤土の色に変わっている。麦畑の間を、古い水路がまっすぐ伸びていて、夏の光がその水面で細かく躍っていた。


空気の匂いが、帝都とはまるで違う。土と、草と、熟れかけた果樹のほのかに甘い香り。身体の芯に、見えない手をそっと当てられたように、何かが静かにほどけていく。


——帰ってきた。


そう思った瞬間、眼鏡の奥で目の奥がほんの少しだけ熱くなった。


「……もう、着くんですか?」


「ああ」


兄様の返事はいつも通り素っ気ない。ただ手記を鞄にしまう仕草だけが、少しだけいつもより丁寧に見えた。


馬車が、ゆっくりと速度を落とす。古い木戸の前で、蹄の音が止まった。


御者が扉を開けてくれる前に、私は自分で把手に手をかけていた。兄様が何も言わずに、先に降りた。


夏の日差しが、ぱっと顔にあたる。


瞼を細めた、その先に——


(……母様)


母様が、門の前に立っていた。


銀に近い金の髪が、夏の風にほんの少しだけなびいている。深い海の底のような蒼の瞳が私を見つけて、ふ、と柔らかく撓んだ。白い、簡素な夏服。その立ち姿は畑と木戸と夏の空を背にして、まるで一枚の絵のように、静かに美しかった。


アクアニアで「深海の魔女」と呼ばれていたことも、この国を捨てて父様についてきたことも、十二の私はまだ全部は知らない。知らないままで、ただその立ち姿を見るたびに、胸のどこかが正しい方向にきゅっと引き絞られる。


「……おかえりなさい、リアネ」


静かで、低くて、深い水の底のような声だった。


私は、一歩、歩き出した。二歩目で、走っていた。


「——ただいま!!」


母様に抱きついた瞬間、耳元で、ふっと笑う気配がした。背中に回された腕が思ったよりも強くて、私は胸の奥が熱くなるのを慌てて押し込める。


その後ろから、父様の声がした。


「おお、帰ったか、リアネ」


母様の肩越しに、顔を上げる。


父様は、井戸のそばに立っていた。亜麻色の髪——私とおんなじ色——に、夏の光がよく馴染んでいる。日に焼けた顔のなかで、温かみのある茶色の目が、ゆっくりと笑っていた。片手に鍬を持ったまま、もう片方の手でゆるく振ってくれる。


「……ただいま、父様」


「うん」


それだけ、父様は頷いた。


母様の腕が、ゆっくりとほどける。


母様は何も言わずに、指先をそっと私の顔に伸ばしてきた。黒縁の眼鏡の縁を、指の腹でごく軽く撫でる。


——ここでは、外していい。


目と目で、それだけが伝わってきた。


両手で、眼鏡をそっと外す。


視界が一瞬、霧に包まれたように柔らかくぼやけて——それから、ゆっくりと本当の色で戻ってくる。


夏の空が、びっくりするほど青い。母様の瞳と、同じ色をしていた。


「……リアネ」


父様が、井戸の方からこちらへゆっくりと歩いてくる。鍬を木の樋に立てかけ、手の甲で額の汗を拭って、笑った。


「お前が来ると、畑が喜ぶな」


「……もう、父様」


「ほんとうだ。水路の水が、お前が来る日は、機嫌がいい」


全部、知っている笑い方だった。私の魔力が眼鏡を外した瞬間に土と水にそっと染み込んでいることも、帝都の学院でその魔力を必死に抑えて暮らしていることも。


父様は、魔力をひと粒も持っていない。でも、全部、知っている。


「……成績、ギリギリだったんです。でも、越えました」


私は、少しだけ俯いて言った。


父様は軽く眉を上げて、それからとても穏やかに笑った。


「——ちゃんと、越えたんだな」


「……はい」


「うん」


父様が、私の頭に手を置いた。日に焼けた、大きな、あたたかい手だった。


兄様は、馬車の横でいつの間にか荷物を降ろし終えている。その横顔はこちらをちらりとも見ず、御者に何かを短く礼を述べていた。


夏の光が、家族の上に、等しく落ちていた。


——ただいま。


心の中で、もう一度そう言った。




※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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