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第9話 初めて、笑った 後編



しばらく並んで歩いていると、アルフォンス様がぽつりと言った。


「……セドが、また廊下で転んだ」


「……え?」


「タルトを持ったまま。今週三回目だ」


「……三回も?」


「……ああ。毎回、ハンスが片付ける」

あまりにも淡々としていた。感情が込められていないまま、まるで天気の話でもするように、ただ事実だけを言っている——のに、内容が内容だった。


思わず、笑ってしまった。

口を押さえた。でも、もう遅かった。


「……っ、す、すみません、つい」

アルフォンス様が、固まっていた。


「……今、笑ったか」

金の瞳が、こちらをまっすぐに見ている。責めているわけじゃなく、ただ、驚いているような顔だった。


「……す、すみません」


「……謝るな」

低い、静かな声だった。


「……でも」


「謝るな」


また、「謝るな」だった。でも今度は、笑顔に対しての「謝るな」だった。

横目でそっと見ると、アルフォンス様の耳の先が、わずかに赤かった。


(……耳が、赤い)

眼鏡を押し上げて、こみ上げそうになる笑みを、奥歯で噛み殺す。


「……セドリック様は、毎回何をしているんですか」


「……タルトを持って走っている」


「……なんで走っているんですか」


「……俺を追いかけているらしい」


「……アルフォンス様が逃げているんですか」


「……歩いているだけだ」


また、笑ってしまった。今度はもう、堪えきれなかった。


アルフォンス様は、前を向いたまま、こちらを見ない。それでも耳の先は、さっきよりもう少し赤くなっている。


廊下の先に、教室の扉が見えてきた。


「……試験は」


「……ギリギリと言っていただろう。どこがわからない」


「あ、あの、術式の構築式が少し」


「……放課後、旧図書室に来い」


「え、」


「……教えてやる」


「……で、でも、フェルドラク様のお時間を取らせてしまいますし」


アルフォンス様が、足を止めた。

こちらを見ないまま、低く言う。


「……アルフォンスだ」


「——」


「……フェルドラク様、ではない」


少しの間、沈黙が落ちた。


廊下の先——本校舎の中央、北廊下沿いに並ぶ扉のひとつが、私たちの教室の扉だった。重たい木の扉のアーチ型の採光窓から、夏の光が斜めに落ちていて、扉の向こうから、同級生たちのざわめきが、ほんの少しだけ漏れ聞こえている。


「……ア、」

喉が、一度つかえた。それから、言い直した。


「……アルフォンス様の、お時間を取らせてしまいますし」


「……うるさい」


「……」


「……来い」

それだけ言って、アルフォンス様は教室の扉に手をかけた。


金の瞳はこちらを見ないまま、けれど耳の先だけが、赤い。


ひとりで扉を押し開け、高い天井の石造りの教室の中へ、漆黒の背中が吸い込まれていく。中から、誰かが「おかえり、アル」と声をかけるのが聞こえたけれど、アルフォンス様は、たぶん返事をしていなかった。


私は、廊下に残された。


扉のすぐ前に、立ったままでいた。


——二人で同時に入ったら、きっと、誰かが気づく。

たぶんアルフォンス様も、同じことを考えたのだと思う。だから、先に入ってくれたのだ。


廊下の真ん中で、立ち止まってしまった私は、口を押さえても、もれそうになる笑みを隠せないままでいた。


(……いつから、こんなふうに笑えるように、なったんだろう)


眼鏡の奥で、目が細くなる。胸の内側で、水の魔力が、ゆっくりと揺れた。崩れるんじゃない。ただ、揺れただけ——それが、困るくらい、温かかった。





夕暮れの、貴族寮最上階の専用サロン。

広い窓の外では、夏の夕日が、石造りの中庭をゆっくりと朱に染めていて、アルフォンスは窓際に立ったまま、その色を黙って眺めていた。


「……アル、今日なんか顔が違うぞ」

セドリックが、タルトを手に持ちながら言った。


「……なんでもない」


「嘘つけ!! なんか、いつもより人間みたいな顔してるぞ!!」


「……うるさい」


「うるさくないだろ!! てか、俺が廊下で転んだの知ってるのか!? あの子に話したのか!? 笑われたのか!? 俺のこと笑われたのか!?」


セドリックの絶叫が、サロンに響き渡った。

ハンスが音もなく紅茶を注いでいる。

アルフォンスはそれに答えないまま、窓の外を見ながら、心の中で何度も同じ場面を繰り返していた。


(……笑った)

廊下で、あの子は、笑っていた。


無造作に束ねた亜麻色の髪が、その拍子に少しだけ揺れて、黒縁眼鏡の奥の瞳が、こちらをちらりと見たのだ。いつも肩を落として存在感を消すように歩く子が、あの瞬間だけ——少し、違っていた気がする。


(……眼鏡がなければ、どんな顔をするんだろう)

眼鏡を外した、あの日の顔が、頭から離れない。

こちらを見上げたまま動けなくなっていた、あの顔が。

あの顔で笑ったら——どうなるんだろう。


(……また、見たい)

指先の熱が、いつもより静かだった。


「……ハンス」


「……はい、アル様」


「あの子の故郷は、農村だと言っていた」


「……はい」


「……帝都から、どのくらいだ」


ハンスが少しだけ間を置いてから、低く応じた。


「……お調べしましょうか」


「……いや、いい」

それだけ言って、アルフォンスはまた夕暮れの中庭へ、視線を戻した。


セドリックが、タルトを持ったまま固まっている。


「……アル、お前、まさか」


「……なんでもない」


「なんでもないわけあるか!!」

ハンスが、口元をわずかに緩めながら、静かに紅茶を注いだ。


「……着実に、でございますな」

セドリックが、タルトを床に落とした。




※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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