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第9話 初めて、笑った 前編



友達になってから、数日が経った。


朝から空気が重くて、廊下を歩くだけで肌がじりじりする。

昼休みになっても、教室に残った熱気がなかなか引かない。


もうすぐ夏休みだった。学院に入って、初めての夏休み。

 

学院中がそわそわしていた。貴族の生徒たちは帰省の話をしていて、令嬢たちは夏の社交シーズンの話をしている。

私には関係のない話だったけれど、廊下を歩くたびにそういう声が聞こえてきた。


私も、帰省する。

農村の父様と母様のことを思った。夏の畑のことを。

麦の穂が風に揺れる音のことを。


学院に来てから、あの空気を吸っていない。

でも、その前に、初めての学期末試験がある。

入学してからずっと頭の片隅にあったことだ。成績が基準を下回れば、特待生の資格が剥奪される。

奨学金も、寮の部屋も、全部消える。目立ってはいけない。でも、成績は落とせない。この二つを同時に守り続けることが、ここで生きていくということだった。


(……ギリギリ、乗り越えないと)


眼鏡を押し上げながら、旧図書室の扉を開けた。 石造りの壁が外の熱を遮って、ひんやりとした空気が流れ込んできた。古い紙と埃の匂い。窓から差し込む夏の光。テオ様が梯子の上で古文書を広げている。


(……ここだけ、涼しい)

ライ麦パンを抱えて、いつもの窓際の床に腰を下ろした。


扉が、そっと開いた。 顔を上げると、アルフォンス様が入ってきた。


「お邪魔します」とも言わずに、当たり前のように室内に入ってきて、当たり前のように私の隣に腰を下ろした。


(……また来た) 心臓がうるさくなるのも、今日で何度目だろう。慣れるかと思っていたのに、全然慣れない。


梯子の上で、テオ様が古文書のページをめくった。何も言わない。

出ていかない。ただ、そこにいる。 最初は気まずかった。

アルフォンス様が来たらテオ様が出ていくのかと思っていた。

でもテオ様は出ていかなかった。アルフォンス様も何も言わなかった。二人とも、ただ、それぞれの時間を過ごしている。


今は、それが「いつものこと」になりつつある。


(……不思議な場所だな) 平民の特待生と、入学式で代表挨拶をした侯爵令息と、首席入学のアクアニア貴族の子息。


三人が同じ石畳の床と梯子の上に、何も言わずに存在している。

しばらく本を読んでいると、アルフォンス様が静かに口を開いた。


「……もうすぐ試験だ」


「……はい」


「……お前の成績は」


思わず、本から顔を上げた。アルフォンス様は前を向いたまま、窓の外を見ている。


「……ギリギリ、です」

答えてから、少しだけ後悔した。でも、嘘をつく気にもなれなかった。


「……そうか」

アルフォンス様が、何か言いかけた。口が少しだけ開いて、でも、閉じた。 梯子の上で、テオ様がページをめくる音がした。


(……なんで聞いてきたんだろう)

わからなかった。でも、聞いてくれた人がいた、ということが、なぜか少しだけ胸に染みた。


アルフォンス様は何も言わない。ただ窓の外を見ている。

無造作に見えて整った黒髪が、夏の光を受けてわずかに揺れている。


(……アルフォンス様も、もうすぐ帰省する)

そう思ったら、ページをめくる手が、ふと止まった。


(……なんで、そんなことを思うんだろう)

わからなかった。ライ麦パンをかじりながら、本のページをめくった。 ページをめくる音と、古文書をめくる音だけが、涼しい旧図書室に響いていた。



翌日の昼休みが終わる少し前、テオ様が梯子を降りてきた。


「……そろそろ出る」


古文書を脇に抱えて、扉の方へ歩いていく。アルフォンス様を一瞥して、私を一瞥して、それだけだった。何も言わない。ただ、出ていく。


扉が、静かに閉まった。


「……」


「……」


二人きりになった。


(……また、この感じ)

心臓がうるさくなる。アルフォンス様の「熱」が、いつもより少しだけ近い。でも穏やかだ。焦げるような感覚がない。ただ、温かい。


窓の外では、蝉がうるさいくらいに鳴いていた。旧図書室の石の壁がその声を少し遠ざけてくれるけれど、夏の光だけは遮れなくて、石畳の床に白い四角形を作っている。


アルフォンス様は窓際に立ったまま、外を見ていた。


何もしていない。本を開くわけでも、古文書に手を伸ばすわけでもない。ただ、窓枠に腕をかけて、夏の光の中に立っている。整った横顔が、光を受けてわずかに輝いていた。


(……何を、見ているんだろう)

聞けなかった。ただ、本のページをめくった。


しばらくして、アルフォンス様が立ち上がった。扉の方へ歩いていく。


少し遅れて、立ち上がった。


廊下に出ると、昼休みが終わりかけていた。生徒たちが教室に戻っていく足音が、廊下に響いている。


歩き始めると、隣に気配があった。


(……え)

横を見ると、アルフォンス様が並んで歩いていた。


「……え、同じ方向ですか」


「……ああ」

同じクラスだから、同じ方向だ。それはわかっている。でも、なぜ隣を歩いているのかは、わからなかった。いつもはセドリック様やハンス様と歩いているはずなのに。


廊下を行き交う生徒たちが、二人を見ている気配がした。


(……目立つ)

平民の特待生と、フェルドラク家の侯爵令息が並んで廊下を歩いている。どう見られているか、考えたくなかった。でもアルフォンス様は気にしていない。ただ、前を向いて歩いている。


ぎこちない沈黙が続いた。


廊下は、旧図書室とはまるで別世界だった。夏の熱気が石畳に染み込んでいて、窓から差し込む光が目に刺さるほど白い。外では蝉が鳴いていた。旧図書室の涼しさが、遠い場所のことのように思えた。


口が動いていた。


「……アルフォンス様は、なぜ毎日旧図書室に来るんですか」

言ってから、しまったと思った。踏み込みすぎた。答えてくれないかもしれない。


アルフォンス様が、少しだけ間を置いた。


「……うるさくないから」

それだけだった。


(……うるさくないから)

足が、止まりそうになった。褒められたわけじゃない。特別なことを言われたわけでもない。


でも、その一言が、じわりと胸に染みた。


うるさくないから、来る。それだけの理由で、毎日あの重い扉を開けて来る。

(……もうすぐ、夏休みだ)


そう思ったら、また胸の奥がざわりとした。夏休みになったら、この時間がなくなる。アルフォンス様は実家に帰る。テオ様もいなくなる。旧図書室には、誰も来なくなる。


「……アルフォンス様も、夏休みは帰省されるんですか」

気づいたら、口が動いていた。


「……ああ」


「……そうですか」


また沈黙が落ちた。


「……お前は」


「……え?」


「……帰るのか。故郷に」


「……はい。農村です。父様と母様が待っているので」

少しの間、アルフォンス様が黙った。


一秒か、二秒か。外から蝉の声だけが、その間に流れ込んできた。


「……そうか」

それだけだった。でも、聞いてくれた。故郷のことを。農村のことを。それだけで、なぜか少しだけ胸が温かくなった。


前を向いたまま、廊下を歩き続けた。


頬が、少し熱かった。


夏の廊下だから、暑いせいだと思うことにした。



※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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