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第8話「友達から、始めたい」後半




しばらくの間、また静かな時間が流れた。


今度の沈黙は、重くなかった。息が詰まらず、ただ、穏やかな時間が、そこにあった。


「……友達なら」

フェルドラク様が、低く言った。前を向いたまま、視線を動かさないまま。


「……名前で、呼べ」


「……え」

思わず顔を上げると、フェルドラク様はこちらを見ないままで、金の瞳が、窓の外の光を受けて静かに輝いていた。


「フェルドラク様、ではなく。名前で」


「……あ、あの、でも、私は平民で」


「……関係ない」


「……で、でも」


「関係ない」

繰り返された。責めているわけじゃなくて、ただ、そういうことだと言っている。


水の魔力が、内側でざわついた。眼鏡があるのに、魔力が揺れる。感情が動くと、こうなる。落ち着け、落ち着かないと。


「……アルフォンス、様」

絞り出すように、言った。


少しの間、沈黙が落ちた。


「……様は、いらない」


「……でも、私には、様なしは」

また沈黙。


フェルドラク様が、小さく息を吐いた。


「……わかった」

その声が、なぜか少しだけ温かかった。


「……アルフォンス様」

もう一度、呼んでみる。


その瞬間、内側で何かが、崩れるんじゃなくて、ふるえた。感情が大きく動いて、水の魔力が、眼鏡があっても、わずかに滲み出してしまう。旧図書室の空気が、ほんのりと湿った気がした。


「……っ」

手首のブレスレットを、思わず握った。それでも、魔力はまだおさまらない。眼鏡を押し上げようとして、指先が止まった。


(……もう、いい)

そう思った瞬間、自分でも驚いた。


眼鏡を、そっと外した。


次の瞬間、魔力が溢れた。


堰を切ったように、抑えていた全部が、一気に外へ出ようとする。旧図書室の空気がざわめいて、石畳がほんのりと湿り、窓際の燭台の炎が、ゆらりと形を変えた。ブレスレットが冷たく光った気がした。


(……止まれ)

奥歯を噛みしめると、魔力は、少しずつ落ち着いていった。全部は隠せていないけれど、崩れてはいない。


フェルドラク様が、固まっている。金の瞳が、わずかに動いた気がした。


「……」


「……」

しばらくの間、どちらも何も言わなかった。


フェルドラク様の金の瞳が、ただこちらを見ている。何かを、確かめるように。


(……見られている)

頬が、熱くなった。素顔が、見られている。母様に似た顔が、今この人に、まともに見られている。


でも、逃げなかった。


眼鏡を握ったまま、前を向いていた。


「……」

フェルドラク様が、低く言った。


「……同じ顔だな」


(……同じ顔)

(……そういうことか)

廊下で、眼鏡が落ちたあの時のことを思い出した。


「……知ってた」

フェルドラク様が、続ける。


「眼鏡のこと。以前、廊下で落ちた時から。ただの眼鏡じゃないと」


「……」


「誰にも、言っていない」


「……」


「言うつもりも、ない」

少しだけ間があった。


「……俺だけが、知っていればいい」


その言葉が、じわりと内側に広がっていった。


(……俺だけが、知っていればいい)


手が、震えそうになった。


「……眼鏡は、魔力を抑えるための魔道具です」

気づいたら、口が動いていた。


「……母様から受け継いだもので。外れると、魔力が滲み出てしまうから、外せなくて」


「……そうか」


「ブレスレットも……兄様から渡されたもので、魔力の底を隠すための術式が刻まれていて」


「……わかった」

追及もしないし、根掘り葉掘り聞きもしない。「わかった」の一言で、全部を受け取ってくれた。


しばらくの間、どちらも何も言わなかった。窓から差し込む夏の光が、石畳の床を金色に染めている。


「……俺だけが、知っていればいい」

もう一度だけ、繰り返された。


そっと、眼鏡をかけ直した。


旧図書室の景色が、また鮮明になっていく。魔力が、ゆっくりと鎮まっていくのと同時に、フェルドラク様が目の前に立っていることに気づいた。整った顔立ちに、いつもの無表情。でも今日は——その耳の先が、わずかに赤かった。


「……ありがとうございます」

小さく、答えた。


(……見なければよかった、耳なんか)

そう思いながら、それでも見てしまっていた。


フェルドラク様は答えないまま、また前を向いて、窓の外を眺めている。その耳の先は、まだ、少しだけ赤かった。




昼休みが終わる少し前、フェルドラク様が立ち上がった。


「……行く」


「……はい」


扉の方へ歩いていく漆黒の制服の背中が、旧図書室の薄暗い空気の中を真っ直ぐに進んでいく。


扉に手をかけて、少しだけ足を止めた。


振り返らないまま。


「……また来る」

それだけ言って、扉が静かに閉まった。

旧図書室に、一人残された。


しばらく、動けなかった。


お弁当の包みを抱えたまま、膝の上に視線を落としたまま、石畳の床の上に、ただ座っていた。


(……また来る)

その言葉が、頭の中でゆっくりと繰り返されていく。


昨日までのこの場所は、テオ様と私だけの、ささやかな場所だった。それが今日から、少しだけ変わってしまった。


(……友達)

平民の特待生の私が、フェルドラク家の侯爵令息と、友達。口に出したら誰かに笑われるかもしれないし、カトリーヌ様に知られたら、また何かが起きるかもしれない。兄様に言ったら、きっと眉間に皺を寄せるだろう。


でも。

手首のブレスレットに、そっと触れた。


(……あれ)

いつもひんやりとしているブレスレットが、今日だけは、少し温かかった。


兄様から渡された時「眼鏡と合わせりゃ二重防御だ」と言っていた。魔力の底を隠すための魔道具——ずっと、そういうものだとばかり思っていた。


でも今日は、何かが違う気がする。

冷たくない。温かい。まるで、誰かの手のひらみたいに。


(……大丈夫だ)

眼鏡を押し上げながら、ゆっくりと立ち上がった。


窓の外では、夏の光が石畳の中庭を金色に染めている。遠くで、昼休みの終わりを告げる鐘の音が聞こえた。


また午後の授業が始まって、またカトリーヌ様と同じ教室に座って、あの笑顔と同じ空気を吸うのだ。最後列の窓際から、じりりと「熱」が届くかもしれない。


でも今日は——その「熱」だけが、怖くなかった。


お弁当の包みを抱えて、旧図書室の扉を開ける。


廊下の向こうで、夏の光が眩しかった。




※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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