第8話「友達から、始めたい」前半
昼休みが終わる少し前、旧図書室を出た。
廊下を歩きながら、今日の昼休みのことを考えていた。テオ様がまたページを次々めくっていたこと、氷晶草の砂糖菓子を一粒もらったこと——それだけの、いつも通りの時間だった。
(……明日も、来よう)
廊下の端を、いつもの速さで歩く。曲がり角を曲がった、その時。
中庭の方から、低い声が聞こえた。
「……カトリーヌ・ド・ルミエール」
足が止まった。
中庭を覗くと、フェルドラク様が立っていた。漆黒の制服に、金の瞳。同い年の生徒より頭ひとつ高い背が、夏の光の中に真っ直ぐ立っていて、その周囲の空気が、じりりと揺れている。
(……魔力が)
共鳴系だからわかる。フェルドラク様の「熱」が、いつもより大きく揺れていて、感情がそのまま魔力になって溢れ出している。近くの石畳の端が、わずかに焦げた気がした。
中庭の隅には、カトリーヌ様が令嬢たちと話していたところだったのだろう。プラチナブロンドの髪が、夏の光を受けてきらきらと輝いている。その完璧な笑顔のまま、振り返った。
「……まあ、フェルドラク様」
その声の温度が、少しだけ変わった気がした。笑顔はいつも通りで、声も穏やかで、でも——フェルドラク様に向けた時だけ、カトリーヌ様の声は、わずかに違う色を帯びる。それに気づいたのは、いつからだっただろう。
「……昨日のことだ」
フェルドラク様は感情を込めなかった。ただ、事実だけを置くような声で、続けた。
「……二度目はない」
中庭が、しんと張りつめた。
カトリーヌ様の笑顔が、一瞬だけ止まる。令嬢たちが息を呑む気配がした。
フェルドラク様はそれだけ言って、踵を返した。夏の光の中を、ただ真っ直ぐに歩いていく。その背中が遠ざかるにつれて、中庭の熱が少しずつ引いていって、石畳の焦げた匂いが、夏の風にゆっくりと溶けていった。
カトリーヌ様の視線が、その背中を追っていた。
笑顔のまま、動かないまま。でも——その藤色の瞳が、フェルドラク様の背中から、一拍遅れて、私の方へ流れてきた。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
(……)
息を潜めた。何も言わなかった。カトリーヌ様も何も言わなかった。ただ、その視線の温度だけが、皮膚にじわりと触れた気がした。
共鳴系だからかもしれない。他の人には見えないものが、見えてしまう。感じたくないものが、感じられてしまう。
(……いけない)
眼鏡を押し上げながら、廊下の端に目を落とした。
胸の内側で、水の魔力がじわりと揺れた。崩れるんじゃない。ただ、揺れただけ。
目立たず、ひっそりと。それだけでいい。
翌日の昼休み。
今日も旧図書室へ向かった。無造作に束ねた亜麻色の髪が頬にかかるのを耳にかけながら、黒縁眼鏡を押し上げて、廊下の端をいつもの速さで歩く。
旧図書室の扉を開けると、古い紙と埃の匂いが流れ込んできた。テオ様はいつもの梯子の上で、古文書を広げている。
「……お邪魔します」
「……ああ」
いつもの窓際の床に腰を下ろして、ライ麦パンをかじりながら本を開いた。ページをめくる音だけが、しんと張りつめた図書室に響いていた。
どのくらい時間が経っただろう。
旧図書室の扉が、音もなく開いた。
顔を上げた瞬間、固まった。
漆黒の制服に、金の瞳。扉の前に立っているのは、テオ様ではなかった。
フェルドラク様だった。
「……」
「……」
どちらも、何も言わなかった。
心臓が、止まりそうだった。なんで。なんでここに。頭の中が真っ白になって、ライ麦パンを持ったまま動けなくなった。
フェルドラク様が室内をゆっくりと見回すと、梯子の上のテオ様が、古文書をそっと閉じた。
「……邪魔をするなら、出ていく」
テオ様はそれだけ言って、梯子をゆっくりと降りてくる。
(……え、ちょっと待って)
心の中で叫んだ。出ていかないで。今出ていったら、二人きりになる。フェルドラク様と、二人きりに——。
テオ様は私の視線になど気づいていないのか、気づいていて無視しているのか、どちらにしても淡々と扉の方へ歩いていく。すれ違いざまに、古文書を脇に抱え直した。
扉が、ゆっくりと閉じた。
旧図書室に、二人だけが残された。
(……二人きり)
静寂が、ずっしりと重くなった気がした。
フェルドラク様は少しの間、扉の前に立っていた。それから当たり前のように室内に入ってきて——私の隣の床に、腰を下ろした。
(……隣に)
心臓が、やけにうるさかった。
その瞬間、気づいた。
フェルドラク様の「熱」が、すぐそこにあるのに、今日はいつもとまったく違った。教室で感じるあの焦げるような熱さが、ない。皮膚の奥まで焼かれるような感覚が、ない。ただ、温かい。
(……なんで、今日だけ)
共鳴系だからわかる。いつもあの「熱」は、距離を置いていても私の内側に入り込んでくるのに、それが今日に限って、穏やかな温度で、そこにあるだけだった。
まるで——凪いでいるみたいに。
(……心地いい)
そう思ってしまってから、慌てて打ち消した。心地いいなんて、思ってはいけない。フェルドラク様の隣が心地いいなんて、思ってはいけない。
でも、本当のことだった。
しばらくの間、どちらも何も言わなかった。ライ麦パンを持ったまま、視線を床に落としていた。
「……あの」
口を開いていた。
「……授業中のこと、ご迷惑をおかけしました」
「……謝るな」
低い、静かな声。
「……でも」
「謝るな」
繰り返された。それだけだった。
(……なんで)
わからなかった。でも、その一言が、じわりと胸に染みていく。謝らなくていい、とただそれだけ言ってくれる人が、今まで、いなかった気がした。
また沈黙が落ちた。窓から差し込む夏の光が、石畳の床を斜めに照らしている。
フェルドラク様の「熱」が、ゆっくりと凪いでいくのが共鳴系の私には手に取るようにわかって、その穏やかさが、なぜか内側に滲んでいった。
怖いのとは、違う。落ち着かないのとも、違う。
(……これが)
(……なんなのか、わからない)
長い、長い沈黙の後。
フェルドラク様が、絞り出すように言った。前を向いたまま、視線を動かさないまま。
「……友達に、なれるか」
旧図書室が、静まり返った。
(……友達)
フェルドラク様はこちらを見ないままで、金の瞳が窓の外の光を受けている。耳の先が、わずかに赤い。
(……耳が、赤い)
(……なんで、こんな時に、そんなことが気になるんだろう)
「……なれます」
声が、少し掠れた。
「……そうか」
それだけだった。
でも、旧図書室の空気が、少しだけ変わった気がした。
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