第12話「運動会・はじめての選択」後半②
風が、また、初秋の朝の温度に戻っていた。
中央の石畳の上で、私はまだ立っていた。
足元の石畳が、靴の底に冷たい。アルフォンス様の隣の、ちょうど一歩ぶんの位置。一歩ぶん、と決めたのはたぶん私で、これ以上は近づけなかった。
——けれど。
その距離より深いところで、二メートルの黒い火球が消えた余熱が、私の頬の高さに残っていた。
熱くはない。
ただ空気の密度が、重い。
その重さを、私は靴の底で受け止めていた。
しばらくして——
観覧席の方から、ざわめきが、戻ってきた。最初は、低く。
それからいくつもの方向の波になって、観覧席の前列から後ろの方まで広がっていった。
「——フェルドラク侯爵令息が」
「——あの平民の特待生を、ご自分の方へ」
「——どういう、ご意向で」
声は、遠かった。
けれど、その「どういう、ご意向で」だけが、私の耳にはっきりと届いた。
(……)
私は自分の手のひらを、握り直した。
握り直した、その指の節の白さは、もう見ない。
光の旗の下から、白い式典装束のカトリーヌ様の方を——私は、振り返らなかった。
ただ空気の温度が、そちらだけ別の質感で、こちらまで届いた。
朝の光を真正面から弾いていた白百合の意匠の銀のブローチ。
それが今は、こちらを向いて止まっていた。
止まったまま、動かない。
カトリーヌ様の歩幅が、止まったあの音のまま。
まだ、続いている。
薄水色の旗の下のテオ様は——
本を、開いていなかった。
少し前——テオ様の番が終わった時に、テオ様の指は、閉じた本の表紙の上に乗っていた。
その指は今、表紙の上から動いていなかった。
ただ、テオ様の本越しではない直接の視線が、まっすぐ私の方に置かれていた。
——本越しの「測る」目ではなくて。
裸の目で、私を、見ている。
(……?)
私は、そのことにようやく気づいた。
気づいた、と気づいた瞬間にテオ様は本のページに視線を戻した。
その指の動きが、いつもより一拍また遅かった。
さっきの、テオ様の番が終わった時と同じ、一拍。
けれど今は、その意味が別のものに変わっていた。
アルフォンス様の声が低く、私の耳の位置に置かれた。
「戻れ」
それだけだった。
「あいつらに、礼を返してから」
——あいつら、というのは、観覧席の貴族の方々のことだった。
私は観覧席の方へ、ぎこちなく頭を下げた。
下げたその動作の途中で、観覧席の前列の貴族の方々の身じろぎが、こちらに視線を流したのが目の端に映った。
ひとりの貴婦人が、白いレースの扇をゆるく口元へ運んだ。
扇の影で、その貴婦人の唇が隣の方に何かを呟いた。
呟きの中身は、聞こえなかった。
ただ扇の動きが、ひと粒止まる前に、こちらに視線を流した。
その視線は——アルフォンス様の方ではなくて、私の方だった。
頭を上げた時、アルフォンス様はもう深紅の旗の下の方へ歩き出していた。
私は青の旗の下の末席に、戻った。
戻り際、隣の特待生の男子が何も言わずに、肘を半歩引いてくれた。
私の場所だけ、わずかに空けてくれていた。
私は、その場所に、座った。
座った、と言うより靴の底に、自分の重さを戻した。
両手を膝の上に組み合わせる。
組み合わせた指の節の白さを、私はもう数えていなかった。
その代わりに——
中央の石畳の上に、まだ消えていないひとつの輪郭があった。
二メートルの深紅の優しい朱だけになった、最後の球体。
それが空気の中で輪郭をなくしていた。
——けれど、私の中ではまだ消えていなかった。
朝の光のなかで、その朱がまだひとつ息をしている。
その息の音が私の靴の底まで、低く、低く、届いていた。
模擬戦は、まだ、続いていた。
火属性の番が終わったあと、最後の地属性の番が中央の石畳で進んでいる。けれどもう、誰も、その術式に集中していなかった。
観衆の視線は、二つの方向に、流れ続けていた。
ひとつは——深紅の旗の下の、アルフォンス様の方。
もうひとつは——青の旗の下の末席の、私の方。
私は両手を膝の上に組み合わせたまま、自分の足元の石畳だけを見ていた。
「——フェルドラク侯爵令息の、見事な仕上がりですわね」
「——お父上のエルハルト侯爵も、お喜びでしょう」
観覧席の前列のあたりから、低く穏やかな声が、ひと粒、ふた粒こちらまで届いた。
褒め言葉だった。
けれど、その褒め言葉の輪郭の奥に、別の質感の空気が混ざっていた。
「——それで、あの、特待生の」
「——フェルドラク家のお考えは、どちらに」
声は、そこで、止まった。
止まったまま、続きは口の中だけで何かを置いた。
私は靴の底に、自分の重さを戻した。
光の旗の下の方から、ひとつ、足音がした。
カトリーヌ様が、観覧席の方へ、歩き出していた。
——けれど、そちらは観覧席の中央でも、フェルドラク家の方の席でもなかった。
カトリーヌ様の歩幅は、観覧席の中ほどのひとつの席の方へまっすぐ向かっていた。
その席に、白い軍装の襟元の、年配の貴族の方が座っていた。
胸元の銀の徽章は、観覧席の他のどの徽章より大きく、深く、重い意匠をしていた。
(……)
私は、息を、吐いた。
吐いた、その息の細さで、自分の体の中がまた強張っているのに気づいた。
——あの方が、カトリーヌ様のお父上、ルミエール公爵閣下。
カトリーヌ様が、そのお父上の隣に寄り添うように立った。
カトリーヌ様の指が、お父上の腕の上に、軽く置かれた。
そのままルミエール公爵閣下の視線が、観覧席の高さからこちらの方へ流れた。
その視線は——アルフォンス様の方ではなくて、私の方だった。
長くはなかった。
けれど、視線の重さの質感は観覧席の他のどの貴族の方とも、別のものだった。
「リアネ」
すぐ隣で、低い、平らな声がした。
私は、肩を、跳ねさせた。
末席の私の隣に、いつの間にか深紅の旗の下から戻ってきていたセドリック様が、立っていた。
「アルが、呼んでる」
セドリック様の声は、いつもの「アル!」のように高くは、なかった。
低く、平らで、まっすぐで——アルフォンス様の声に、似ていた。
「——わたし、ですか」
「お前以外に、誰がいる」
セドリック様の口の端が、少しだけ、上がった。
「立てるか」
「……はい」
「行ってこい」
末席の隣の特待生の男子が、また肘を半歩引いてくれた。
私は、立った。
立った時、青の旗の下の他の生徒たちの視線が揃って私の背中に集まったのが、肩越しにわかった。
*
深紅の旗の下までの距離は、さっきの中央の石畳までの距離より、短かった。
——けれど、その短さは別の意味で長かった。
観覧席の上級貴族の方々の視線が、私の歩幅と一緒に移動していた。
ルミエール公爵閣下の視線も、まだこちらに残っていた。
——そして。
深紅の旗の下に立つアルフォンス様の方は、もう、こちらを見ていなかった。
ただまっすぐに、観覧席の方を見ていた。
その横顔は、いつもの感情をどこにも乗せない低く平らな質感だった。
けれど、私が、深紅の旗の下のアルフォンス様の隣に着いた時——
アルフォンス様の声が低く、私の耳の位置にだけ置かれた。
「お前の手を、出せ」
「……?」
「閉会の合図のあと、観覧席の方々に礼を返す。お前の手を、握って、行く」
私は、息を、忘れた。
「——なぜ」
「説明は、あとだ」
アルフォンス様の声は、低く、迷いがなかった。
「それまで、こっちに、いろ」
私は深紅の旗の下に、立ったまま動けなかった。
動けないまま——青の旗の下の末席の方を、肩越しに、振り返ることもできなかった。
ただ自分の手のひらの中の温度を、私は靴の底まで降ろしていた。
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