Wolf-3 大人の足音 1
「人間の大人が……!?」
驚きで大きく開いたレミの口に鋭い牙が覗く。三角形の耳もベアトリクスの言葉を聞き逃すまいと動いた。
集落跡を出発して五日。近場から攻めていくと後が大変なので、ベアトリクス達は近い場所と遠い場所をランダムに選んで目的地にしている。今回は遠出の予定である。一応の目安としている場所まではまだまだかかる。
月明かりが木々の間から零れ落ちている夜。周辺の探索に向かった狼達の帰りを今夜の寝床で待つ間、ベアトリクスの傍に就いているレミは人狼の姿になっていた。狼そのものの頭が、服を纏って二足歩行をする体に付いている。ふわふわの帽子を持つ手は鋭い爪と茶色い毛に覆われていた。
僅かな明かりの元で愛銃の手入れをしながら、ベアトリクスは口を開く。
「姿は見ていない。形跡だけ。……みんなにはまだ言ってない。不安を煽るだけだから。これを知っているのはレミだけだよ」
「見付かったら大変……だよね。……引っ越すの?」
「それはまだ判断できない。ただ近くを通り過ぎただけかもしれないし」
ポケットから取り出したボタンをレミに見せる。これといった装飾は特にない、くすんだ金色のボタンである。尤も、装飾があったところで子供達に持ち主の所属を知ることはできない。
「これが落ちてたの」
「オリヴィエさんだったら分かるのかな。普通の服とか、どこかの制服とか」
「どうだろう」
ボタンをポケットにしまい、レミと並んで狼達の帰りを待つ。
ベアトリクスが「引っ越す」と言えば子供達はそれに従い、各々荷造りを始めるだろう。「このまま様子見」と言っても子供達はそれに従い、緊張状態で生活を続けるだろう。集落跡の秘密基地に集う子供達は皆ベアトリクスを信頼し、全てを任せ、そして、半ば依存していた。ベアトリクスの一挙手一投足が子供達の運命を左右する。軽率な行動や判断は避けなければならなかった。
レミとロザリーはお兄さんお姉さんぶっていつも頑張ってくれているが、二人共まだ十歳だ。相談はしているが、その内容は限られる。同じくらいの年頃のマルガレーテは徐々に馴染んできているが、一応部外者である。自分のことも忘れている彼女に助言をもらうことは難しそうだ。結局、ベアトリクスは一人で悩んでいることの方が多い。
「なんとか考えるよ。これからのことは」
アタシがしっかりしないと。アタシがみんなを守らないと。ベアトリクスの顔に険しい表情が浮かび、強く握られた銃が手元で音を立てた。
そんな姉を隣で見守りつつ、レミは三角形の耳をそばだてる。耳に入って来るのは木々が枝葉を揺らす音と鳥や虫の鳴き声だけであった。狼達が戻ってくる気配はまだない。
レミは幼く、ベアトリクスの考えていることや言っていることを全て理解しているわけではない。しかし、何か困っていそうだなということだけは分かった。
「姉ちゃん、大丈夫?」
「どうかな。マルガレーテのこともあるし、色々決めなきゃ」
「あの……。あのね、姉ちゃん。ぼく、もっと姉ちゃんの力になりたいよ」
「レミは十分力になってくれてるよ」
そう言って、ベアトリクスはレミの頭を撫でた。ふさふさの尻尾が大きく振られる。
「あっ! あぁもう、また。もうっ、ちびっこ扱いしないでよ」
頬を膨らませて不満そうにするレミのことをもう一度撫でた。ベアトリクスはおねだりをする幼子のような顔を小さな弟に向ける。
「レミ、アタシよりも小さなうちは子ども扱いさせて。レミはもう嫌かもしれないけれど、アタシはまだレミを子供として見ていたい。大人になってしまったら、世の中なんてレミが思っているよりも怖くて危ないことばかりだよ。アタシよりも小さなうちは、まだアタシに守らせて」
でも、という声に反してレミの尻尾が大きく振られる。本能には抗えなかった。子犬のようだった頃よりは少し控えめに、それでも、確かな甘えを帯びて、レミは静かにベアトリクスに擦り寄った。
二人だけの時間。その時だけ、レミは年相応にベアトリクスの弟であった。
風に吹かれた雲が月を覆い隠す。暗闇の中、姉弟の間には静かで温かな時間が流れていた。両親に守られ、平和な群れが憩いの場であった頃のように。
「レミ、寝てていいよ。みんなの帰りはアタシが待つから」
「ううん。ぼくが起きてるよ。ぼくの方が夜目が利くし、音も匂いも分かるから。姉ちゃんには昼間しっかりしててほしいもん。休んでて」
「……分かった。何かあったらすぐに声掛けてね」
ベアトリクスはもう一度レミの頭を撫でてから、くたびれて擦り切れている毛布にくるまった。そしてすぐに寝息を立て始める。
「……姉ちゃん疲れてるんだな。ぼくがもっと大きかったら……」
大きかったら、戦いに駆り出されていたかもしれない。そのことに気が付き、茶色い毛に覆われた顔が青ざめる。
今、こうしてベアトリクスと共にいられるのは幼いからだ。
大きければ力になれるかもしれないが、小さくないと一緒にはいられないのだ。レミは困ったように、悩むように、小さく頭を振った。
「今のぼくに、できること……。できること、しよう……」
ずれてしまった毛布をベアトリクスに掛け直し、レミは立ち上がる。
「木の実でも取って来よう。姉ちゃんから離れすぎないところで」
明日の朝食になるかもしれないし、非常食になるかもしれない。食料はあればあるほど良いものだ。
人よりも優れた耳と鼻を駆使して、周囲の状況を確認しながらレミは暗闇の中を歩く。月を覆ってしまった分厚い雲はまだその場に留まったままである。




