其之参 一宿一飯の重み
夕餉の膳を囲みながら、黒金屋喜兵衛は上機嫌だった。
「先生、今夜のお宿はもうお決まりですか?」
喜兵衛に尋ねられ、一之進は箸を置いた。
「いえ、まだ決めておりません」
「それでしたら、今夜はうちに泊まっていってください」
「……こちらに、ですか?」
「ええ」
喜兵衛は満面の笑みで頷いた。
「黒金屋は商いだけでなく、宿も営んでおりますからな。部屋ならいくらでも空いております」
「なるほど……宿も」
一之進は頷きながら、黒金屋の屋敷を見回した。
確かに大きな商家だ。
この辺りでは知らぬ者のない店らしい。
宿場町へ入る前にも、黒金屋の名は耳にしていた。
表向きは、米や酒、反物に日用品まで扱う大商家。
旅籠も営み、多くの旅人や商人が出入りしている。
だが、それだけではない。
黒金屋は、表には出せないような商いにも手を出している――そんな噂もあった。
もちろん、噂は噂だ。
どこまで本当なのかは分からない。
ただ、今日いきなり襲撃を受けていたことを考えると、まるっきり根も葉もない話とも思えなかった。
……まあ、今のところは。
喜兵衛が悪人に見えるわけでもない。
「先生?」
「あ、いえ」
一之進は顔を上げた。
「せっかくのお申し出ですし、お言葉に甘えさせていただきます」
「おお! そうですか!」
喜兵衛は嬉しそうに手を叩いた。
「では、しの。先生をお部屋へ案内しておくれ」
「はーい」
返事とともに、紫がかった髪を三つ編みにした少女がやって来た。
さっきジロジロ見てきた娘だ。
「先生、お部屋まで案内しますね」
「…わざわざ、ありがとうございます」
「そんなに畏まらなくてもいいですよ」
しのは、にこにこと笑っている。
その笑顔が妙に近い。
そして、
目だ。
また見ている。
顔。
肩。
腕。
手。
そして腰の刀。
何かにつけて、こちらをじっと観察してくる。
若い娘さんに、こうまでジロジロ見られるのは、さすがに慣れない。
――なに?最近の若い娘は。
――こんな感じで見てくるのが普通なの?!
――しかも、メッチャ笑顔…。正直可愛い。
――って、いやいや!
「先生?」
「はっはい!?」
「どうしました?」
「いえ、何でもありません…」
危ない。
余計なことを考えている場合ではない。
「では、こちらへどうぞ」
「はい」
一之進は何食わぬ顔で、しのの後について歩き出した。
◇
「こちらがお部屋です」
襖を開ける。
「おお……」
中には布団まできちんと用意されていた。
畳も綺麗に掃除されている。
「随分と立派な部屋ですね」
「先生なら、もっといいお部屋でもよかったんですけど」
「いやいや、これで十分ですよ」
「遠慮しちゃって」
「本当に十分なんですって」
「そうですか?」
しのは部屋の中へ入り、布団の具合を確かめるように手を添えた。
「今日は疲れたでしょう?」
「まあ、それなりには」
「刀も振るいましたしね」
「……」
一之進はしのを見る。
「よく見ていましたね」
「見てましたから…」
あの騒ぎの最中、この娘は妙に落ち着いていた。
怯えている様子もほとんどなかった。
それどころか、こちらが刀を振るう様子をじっと見ていた。
……普通の女中じゃないのか?
そんな疑問が一瞬よぎる。
「先生?」
「……いえ、何でもありません」
考えすぎか。
黒金屋にいるからといって、皆が皆、裏の事情を知っているわけでもないだろう。
たぶん。
「それにしても」
しのが一之進の顔を覗き込んだ。
「先生って、思ったより普通ですね」
「……はい?」
「もっと怖い方なのかと思ってました」
「私がですか?」
「はい。あんなに強かったから」
「ああ……」
一之進は苦笑した。
「腕が立つからといって、怖い人間とは限りませんよ」
「そうですね……、今のところは」
「今のところ?」
――おい。
何だ、その含みのある言い方。
「ふふっ」
しのは楽しそうに笑う。
こっちは真面目に話しているというのに。
……というか。
この娘、やたら俺との距離が近くないか?
しのが更に近くに寄ってくる。
「先生…」
ドキッ
「…はい?」
「黒金屋のこと、何か聞いてます?」
…ドキッとして損した。
「あー……噂程度なら」
しのの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
「…どんな噂です?」
「手広く商売をしている、大きな商家だとか」
「それだけ?」
「それと……」
一之進は少し言葉を選んだ。
「表向きの商売だけではなく、裏でもいろいろやっている、と」
「あら」
しのは目を丸くした。
「結構聞いてるんですね」
「まあ、旅をしていれば耳に入ることもあります」
「信じてます?」
「噂をですか?」
「はい」
しのが首を傾げる。
一之進は少し考えた。
「半分くらいですかね」
「半分?」
「本当かもしれませんし、嘘かもしれません」
一之進は肩をすくめた。
「実際に見てみないことには、何とも言えませんから」
「へえ……」
しのが楽しそうに笑った。
「先生って、案外慎重なんですね」
「案外は余計ですよ」
「だって、今日だっていきなり飛び込んできたじゃないですか」
「それは……」
一之進は苦笑した。
「通りすがりとはいえ、あれだけ助けを求められていて、我関せずというわけにもいかないでしょう」
「ふふっ」
「笑わないでください」
「ごめんなさい」
そう言いながら、全然悪びれていない。
むしろ楽しそうだ。
「でも」
しのが少しだけ真面目な顔になった。
「先生が噂だけで人を決めつける人じゃなくて、よかったです」
「……そうですか?」
「はい」
そして、また笑う。
「だから、もう少しここにいてもいいと思いますよ」
そう言いながら、上目遣いで見てくる。
「…先生と話してると楽しいですから」
「……」
一之進は固まった。
――チョットぉぉぉ!
先生!真に受けちゃいますけどぉ!
おしのちゃん!ホントっ距離感がおかしくないかい!?――
ていうか!今のはどういう意味だ!?
単純に話し相手として楽しいという意味か?
それとも――。
――いやいやいや。
――考えるな。
――考えたら負けだ。
「それでは、私はこれで」
あっさりと引き下がる、しの。
「あ……はっはいっ! ありがとうございますっ!」
思わずどもってしまう
しのが襖へ向かいながら、ふと振り返り
「先生」
「何でしょう?」
「明日からも、よろしくおねがいしますねっ!
おやすみなさいっ」
しのは満面の笑みを浮かべて襖を閉めた。
静かになった部屋で、一之進はしばらく座ったまま固まっていた。
「…………」
そして。
――いや、だから何なんだ、あの娘。
――距離感!
――あれは普通なのか!?
――俺がおかしいのか!?
答えは出ない。
ただ一つ分かるのは、妙に調子を狂わされているということだけだった。
……しかし、まあ。
飯は旨い。
布団もある。
宿代も浮く。
少なくとも今夜の寝床には困らない。
「……ありがたい話ではあるんだよな」
そう呟いて、一之進は部屋を見回す。
黒金屋の噂が気になるのも事実だ。
だが、今すぐ何かを疑う理由もない。
人の噂だけで人を決めつけるつもりもないし…
「まあ……明日のことは明日考えるか」
今夜はありがたく世話になる、
一之進は布団へ横になった。
目を閉じる。
すると、またしのの顔が浮かんだ。
――先生と話してると楽しい――か。
…………。
――いやいやいや!
――だから真に受けるな、俺!
――チョロすぎるだろ!俺!
頭の中で自分に突っ込みを入れながら、一之進は布団を頭までかぶった。
こうして、一之進の黒金屋での最初の夜は静かに更けていった。




