其之弐 お主も悪よのう
夕暮れも過ぎ、すっかり夜の帳が下りた頃。
黒沢一之進は、黒金屋の屋敷にある座敷へ通されていた。
「いやぁ、先生。本当にありがとうございました」
向かいに座る黒金屋喜兵衛が、深々と頭を下げる。
小太りで恰幅の良い身体。
人好きのする愛想の良い笑顔。
いかにも人当たりの良さそうな商人である。
――ただし。
笑っている目の奥だけは、まるで別物だった。
相手の懐具合でも値踏みしているような、抜け目のない光が宿っている。
「何度も言いますが、たまたま通り掛かっただけです」
「それでもです」
喜兵衛は顔を上げ、にこにこと笑った。
「先生がおられなければ、わたしも、うちの者も、どうなっていたことか」
「……まあ、それは」
「黒金屋は、受けた恩を忘れるような商売はしておりません」
その言葉には、不思議なほど真剣味があった。
あくどい商売をしていそうな顔をしている。
実際、そういう噂も多いらしい。
だが、少なくとも恩には厚い男なのだろう。
そんなことを考えていると――
「そこで先生」
喜兵衛が、ぱん、と手を叩いた。
「こちらを」
「……?」
控えていた者が、木箱を一つ運んでくる。
ことり、と一之進の前へ置かれた。
「これは?」
「なぁに、大したものではございません」
喜兵衛が箱を開ける。
中から出てきたのは、細長い包み。
そして、その包み紙は――
山吹色。
「…………」
一之進は固まった。
「先生?」
「……いや」
なんだろう。
この包み。
この色。
そして、この妙に意味ありげな笑顔。
「ほんの心ばかりのお礼でございます」
「…………」
「どうぞ、お納めください」
「…………」
どこかで聞いたことがある。
悪代官と悪徳商人。
誰がどう考えても良からぬ取引をしている二人が、妙に親しげな顔で山吹色の包みを差し出す。
そんな噂話を、以前どこかで聞いた覚えがある。
――いや待て。
まさか、これ。
そういうノリなのか?
俺はいま、そういう場面にいるのか?
目の前の喜兵衛を見る。
愛想の良い笑顔。
山吹色の包み。
そして、
「どうぞどうぞ」
と、さらに箱を押してくる。
――完璧だ。――
何が完璧なのかは分からないが、とにかく完璧である。
――いや、落ち着け俺。
ここは現実だ。
俺の知っている芝居そのものではない。
これは単なる贈り物。
そう。
単なる贈り物だ。
「……開けても?」
「もちろん」
一之進が包みを開く。
中から現れたのは――
「……羊羹」
「ええ」
「普通に菓子ですね」
「はい」
喜兵衛は嬉しそうに頷いた。
「黒金屋自慢の品でございます」
「……」
なんだろう。
すごく安心した。
小判とか出てこなくて本当によかった。
危うく俺まで、よく分からない悪巧みに加担した気分になるところだった。
「先生」
「はい」
「今後とも黒金屋をご贔屓に」
喜兵衛が、にっこり笑う。
「もちろん、先生にはこちらも誠心誠意、尽くさせていただきますので」
――その言い方だよ。
一之進は心の中で突っ込んだ。
そういう言い方をするから、余計に悪徳商人っぽくなるんだよ。
しかも笑顔が妙に板についている。
この人、絶対こういうの好きだろ。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
喜兵衛は満足げに頷いた。
「では、せっかくですから夕餉もご一緒に」
「いや、そこまで――」
「先生……お願いします!」
「そこまで頭を下げなくても!」
先ほどまで商人然としていた喜兵衛が、今度は本気で頭を下げてくる。
一之進は思わず苦笑した。
「……分かりました。ご相伴に預かります」
「おお、それはよかった!」
喜兵衛の顔がぱっと明るくなる。
どうやら、これは本気で嬉しいらしい。
――食事に誘うことまで商売のうちなのか、それとも本当に恩人をもてなしたいだけなのか。
一之進には、まだ判断がつかなかった。
◆
「失礼いたします!」
しばらくして、襖の向こうから明るい声がした。
「お入りなさい」
喜兵衛が答える。
襖が開く。
「お待たせしました!」
そこから入ってきたのは、一人の女中だった。
紫色の髪を三つ編みにした、小柄な娘。
灰色の瞳が印象的で、愛嬌のある顔立ちをしている。
両手には膳。
「こちら、お夕食でございます!」
明るく声を弾ませながら、一之進の前へ膳を置く。
「お待たせしました」
「ありがとう」
「いえいえ!」
にこっと笑う。
いかにも愛想の良い、仕事のできる女中だった。
「私は紫乃と申します!」
「しの?」
「はい! 皆さんには、おしの、と呼ばれております!」
「そうか。俺は黒沢一之進だ。今日は世話になる」
「一之進様ですね!」
「……ああ」
「覚えました!」
しのは元気よく答えた。
――随分と人懐っこい娘だな。
一之進はそう思った。
だが。
「…………」
しのがじっと自分を見る。
「……?」
目が合う。
笑顔。
そのまま、じーっと。
「…………」
顔を見る。
髪を見る。
肩を見る。
腕を見る。
手を見る。
そして――
腰に差した刀を見る。
「…………」
再び顔を見る。
「……何か?」
「いえ!」
しのはにこっと笑った。
「何でもありません!」
「そうか?」
「はい!」
だが。
また見る。
じーっ。
「…………」
今度は一之進の手元。
箸を持つ指。
手首。
袖口。
そして、何故か足元。
「…………」
――めっちゃ見てくるんですけど! この娘。
何だ?
俺の顔に何か付いてるのか?
いや、違う。
これは完全に観察されている。
それも、かなり細かく。
まるで商品を店先で品定めするような――
……いや。
待て。
――もしかしてだけど?
…………。
しのはまだ見ている。
刀。
手。
顔。
そして、また刀。
「…………」
――もしかしてだけど…!
「…………」
――この娘は、拙者に惚れちゃったんじゃないの!?――
いやいやいや!
何を言っているんだ俺は。
会ったばかりだぞ。
落ち着け。
「おしの」
喜兵衛が声を掛ける。
「はい!」
「もうよい。下がっておいで」
「はい!」
しのは元気よく返事をした。
そして、一之進へ向き直る。
「それでは、一之進様。ごゆっくりどうぞ!」
「ああ」
「…………」
しのは襖へ向かう。
だが、最後にもう一度だけ振り返った。
見る。
じっと。
そして何事もなかったように笑う。
「失礼いたします!」
襖が閉じた。
「…………」
一之進はしばらく閉じた襖を眺めていた。
「先生?」
「……いや」
「何か気になることでも?」
「いえ」
一之進は首を振る。
「……妙に見られていた気がしたなぁ…と」
喜兵衛は一瞬だけ目を細めた。
だが、すぐにいつもの愛想の良い笑顔へ戻る。
「はっはっは。あの子は人を見るのが好きなのですよ」
「……そういうものですかね」
「ええ」
喜兵衛は笑った。
「さあ先生。料理が冷める前にどうぞ」
「それもそうですね」
一之進は箸を取る。
そして、ふと襖を見る。
――まあ、いいか。
気にしても仕方がない。
そう思って飯を口に運ぶ。
「……うまい」
その頃。
閉じられた襖の向こうでは――
「…………」
しのが立ち止まっていた。
先ほどまでの明るい笑顔は消えている。
灰色の瞳だけが、静かに座敷の方を向いていた。
だが。
何を考えているのかは、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――
黒沢一之進という男が、彼女にとって随分と興味深い存在になった。
それだけだった。




