王宮へ
ミレーヌ先生からは、これまで習ったお勉強の復習が繰り返される日々になった。
算術については計算方法というより色々な規格表の使い方の熟知のほうが大事。そして書類上でよく使われるラテン語のおさらいが続く。
「エレナさんは算術士の見習いというお勤めになります。書記業務のほうを今は知らなくても教わっていけばいいのだけど、分かる範囲で慣れておきましょ。」
ロイエル夫人からは私の子供部屋でのお相手時間が増えて、応接室での面談練習も何度かあった。
内定済みとは言え、最初の挨拶や定型試験時の礼儀作法と商人流の気づかい、宮廷内やご貴族相手の禁止事項の再確認、などなど。
「お洋服は3着くらい持っていってちょうだい。エレナさんもあと少しで大人向けの支給服が着られるでしょうからそれまで用ね。」
「ご家族に会いたいでしょう? でも王宮生活に慣れたら休日には王都に外出ができるでしょうから、あと少しの辛抱よ。」
そうは言われたけど、ママやパパに会っておきたくない訳がない。
アニェスとイスベルと私は、迫るお別れを前に庶民感情の絆が深まり、[ どうにかして半日だけでも街を走って両親と涙で抱き合う計画を練る同盟 ]となった。
覆面をして仕女3人お散歩のふりをして出かけるのはどうかしら。いやそもそも覆面が目立つのでダメよね。
街の灯りもない深夜に抜け出すのはどうかな。それだと夜間警備兵に見つかる本物の不審者が私になっちゃう。
アニェスの膨らんだ古典ゴシックアレンジのスカートの中に私が隠れれば裏玄関から出られる、……そこまで言ったところで私たちは吹き出し合った。
庶民女子の宮廷入りが決まった事、それがどんなに奇跡なのかを、一番分かってくれているのはアニェスとイスベルだものね。
初めての馬車。
この時代は調教馬がとにかく高級資産だから、酪農家からの借り馬が荷馬車を引く事くらいはあっても庶民は荷馬車の荷台に乗れないし、乗る習慣がない。馬車という乗物は貴族のためのものなのね。
だけど平民でも商家となると、馬小屋に馬丁を雇って飼育環境を維持して、自家用の荷馬を何頭か所有できてしまう。商取引をするという事は、多くは荷物を運ぶ事が仕事だからだ。さらにコルスル家の場合はそういう4台の荷馬車だけではなくて、ご主人一家や取引相手のために客車仕様の馬車が2台もある。
この時代にはいないはずの黒ワンピースにフリルエプロンとカチューシャスタイルの仕女2人に伴われて、私はコルスル家からお庭に出た。
そうすると馬車の前に、ここしばらく全く顔を合わせていなかったロイエルさまがご自身の傍使いさんを従えて待っている。
えっと? 私は使用人ではないし、養子でもない。どれかというと刑期を終えた出所者ってこんな感覚なのかしら、もう二度とこんな所に来るんじゃないぞっていうあれ。そこまでは正しい礼儀を習ってない。
「おはようございます、ロイエルさま。」
「……ふむ。」
「ではエレナさん、ご主人さまとご一緒にお城に向かいましょう。奥のほうにお乗りください。」
「ここを持ちますから、エレナさまは足下にお気を付けて。」
私の今日のリクルート・ドレスを最後まで気に掛けるイスベルが、私の乗車に手を貸してくれる。
馬車の中は4人掛け。隣でもなく向かい合わせでもなく斜め関係にロイエルさまが次にご乗車したところで扉が閉まる。馬丁さんが車輪止めを外して、傍使いさんがロイエルさまと出発の合図を交わして、席も揺れて動き出した。
こういう時には立ち並ぶのが仕女の役目だけど、ここには2人だけだ。アニェスは2、3歩前に出て、私と小さくガッツポーズを交わした。
「エレナ君が我が家に来て1年と7か月になるのか。生活に不自由はなかったかね?」
「ええ奥様からもミレーヌさんからも大変良くしていただきましてございました。」
幽閉される以上の「不自由」がどこにあるのですか? と言いたかったけど。ロイエルさまの今の言葉は[ 幽閉みたいな事はなかった事の言質取り ]みたいなものだ。
「そうであろう。平民の君をこうまで世話してあげたが、養子にしたわけでもない。あの生活のまま病にでも倒れてもらえたら、誰もコルスル家が悪いという噂にはならずに済んだ、それだけのはずだったのだ。……ホローブン殿がああまでも算術士の有能な卵を探されてさえおらなければな。」
「大いなるご寛容を感謝と共に心得ております、ロイエルさま。」
平民間の上下にまで仄かに尖る身分差別と、この時代の男尊女卑観と、お仕着せがましさ。
そう、大商家のご主人さまと王宮書記官殿の間にどんな不正があろうと、庶民女子が内部告発などしたくても誰も耳は貸さないし、例え証拠が何かあった所で勧善懲悪にもなるわけがない。
私はそれでいい。
だってここは『悪役令嬢は庶民ヒロインに嫉妬しない』の物語が、まだ始まる前の世界なのだから。
攻略対象たちはあの宮殿の中にいる。
それにしても身体が痛くなる。この時代って路面は石畳だし、車輪は木製に鉄のタイヤで緩衝構造がない馬車って、人類史上でも最悪な乗り心地じゃないかしら。
ヴァルモンド城はすぐ近くになり、すごく厳しそうな門衛に書状を確認してもらう。
先に馬車から降りたロイエルさまから手を取られながら、私は大きな石段を上り始めた。




