1年半ちょっと
コルスル家の奥の離れのお部屋で私が暮らす事になった理由は、表向きは私への英才教育という事になっている。
パンはいつものように黒パンだ。美味しい。これがわざわざ栄養価値と保存日数を削ぎ落として白く発酵するのを急ぐ必要性は低いんじゃないかしら。
衣服も着慣れてきたけど、女性のドレスが内側から膨らむルネサンスまではあと200年かかるのでこっちの発酵時間も長いわね。
そろそろかかとの高い靴くらいは履きたい気持ちがあるのに、靴のかかとの伸長にも300年かかる感じかな。
今でも毎日、家庭教師のミレーヌ先生からはこの王都の最高水準の算術を叩きこまれている。そのために私は、九九と筆算を忘れてしまうんじゃないかと心配になるくらいだ。
私は習う機会はなかったけど、縦に珠が動くソロバンってあるわよね。あれに似ていて、珠が10個ずつ並んでいる形式なのが、この時代にあるビーズ算盤、一般的な呼ばれ方はアバカスかな。横方向にビーズを動かして目視しながら数字を合わせていく。
これ、年少組が喜びそう。
私は物覚えが悪そうにしていたけど……何のプライドだろう、間違える事はしないように心掛けた。あっそうか算数テストの心掛けだ……。
それにしても大変なのはラテン語かな。
王都ヴァルモンドの臣民なら、それぞれのお仕事に必要な範囲のオルダニア語くらいはみんな読み書きできるけど。証文や法律に触れる文書になるとラテン語が混ざってくる。
ラテン語が難しいというよりも、ラテン語が使われる仕事になると意味の難しい言葉が並ぶので、オルダニア語のほうに対訳語が無いっていう難易度になる。
ロイエル夫人の使用人である仕女長マルグリットさんが用事のようだ。でもこの子供部屋に入ってくることはない。
そのため扉まで来て他の仕女を呼び、アニェスがミレーヌ先生に何かを伝達している。
「それでは今日もご苦労さまでした。奥様がお時間があるみたいですから、これからお話して書記官室に戻りますね。」
「ありがとうございましたミレーヌ先生。」
「夕食前だけど私から奥様にお伝えしておくことは、エレナさんからは何か無い?」
「いいえ、特に何もございません。」
奥様の名前を聞いたためか、イスベルが先に廊下に出て、箒と雑巾を持って階段のあたりまで掃除に向かう。
「イスベル、あの子のお見張りは大丈夫よね?」
「ええ、アニェスが一緒にお片付けをしてますわマルグリットさん。」
「マルグリットさん、私の髪、崩れていたら直していただけます?」
「はい、ちょっとここを……これでお綺麗ですわミレーヌさま。」
階段の途中で先生と仕女長は身嗜みを確かめて1階に一緒に降りていく。
その様子を、閉じていないままの扉からこっそり見ていた私に、イスベルが気付く。小声、というか口パクで。
( エレナさま、気になりますか? )
( うんうん。 )
( では、こちらへ。 )と、スカートをひらひら。
( えっいいの。やったぁ。 )
これも日頃から、古典ゴシックではありえない手製の特別なペチコートでスカートを膨らませてもらっている成果だ。
淡々と廊下掃除をするイスベルのスカートの後ろにぴったりと隠れながら、ミレーヌ先生とロイエル夫人が立ち話する場所の1つ前の死角で、私とイスベルは耳を澄ます。
「ええ、書類の扱いもご丁寧ですし。このところは収支台帳も、契約証書や許可状もご理解なさってる風ですわ奥様。」
「ときどき物覚えが悪そうにするから心配だったけど、覚えていけるようね。」
「はい。頑張ってらっしゃって、まだ余裕がおありなのは私が保証いたします。」
「それなら正式にお話を進めてよさそうだわ。推薦状を主人に書いてもらいましょう。」
「室長もなぜだかお急ぎのようですね、あ、いえ失礼いたしました奥様。」
「いいのよ、そうなのよ~急がされちゃってて。まあそこの話は無しね。……ほらイスベル! 何を遠慮してるの、こっちまで掃き掃除するのよ。」
「っ今すぐ。お話をお邪魔しませんようにお待ちしていました。よいしょ、よいしょ。」
イスベルのスカートバリヤーから離脱した私は忍者のように子供部屋に帰還した。アニェスと一緒にアリバイ作りをするけど、幽閉されているので疑われない。
それからも、ミレーヌ先生からは特に何も変わらずいつものお勉強の授業が続いた。ロイエル夫人とのお食事もそれまでのいつも通りだった。
お庭に出たい時には2人のうちの1人にお願いして、スカートバリヤーの陰でお外の空気も吸えていた。
でもそんなある日、お勉強が始まるはずの時間に仕女長マルグリットさんが私を迎えに来た。
「エレナさま、応接室までご一緒しましょう。」
「?……はい。」
ちなみに、マルグリットさんのスリムなチュニックが膨らんだ事はない。
私が応接室に入るのはずいぶんと久しぶりだ。
室内にはミレーヌ先生とロイエル夫人がとてもご機嫌が良さそうに私を待っていた。
「あら、今日はお二人で私のお茶菓子の作法のご指導ですかしら。」
「お好きに召し上がって結構よ。でもお祝いの晩餐が待ってるから空腹のままのほうが良いかもしれないわ。」
「……お祝い、です? 何かございましたか。」
ロイエル夫人は大きな封蝋がされていた開封済みの封筒から、ご主人ロイエルさま宛てのお手紙と、そして承認証というものを開いて私に見せてくれる。
隣のミレーヌ先生は何かを期待するような笑顔でいるだけだ。
「ヴァルモンド城の中に、色々な文官さまたちがいらっしゃるのはご存知?」
「あ~。ええ、たぶんそうでしょう。」
「このコルスル家がいつもご用があるのは、王宮書記官室の方々なの。今、エレナさん、あなたのような見習いの子を探していらっしゃるらしくてね。」
「お忙しそうなお話です……。」
「いかが? これからきちんと宮廷のお仕事をなさってみる気持ちはお有り?」
私は、盗み聞きで知ってはいたけど、本当にその時が来てみるとやっぱり、驚くというよりも到達感を伴う無心の境地を覚える。
ミレーヌ先生に目を移すと、大きく頷いてくれている。
私は実感した。今夜はお祝いの晩餐との事なので、お腹も満たされたらもっと実感するだろう。
「コルスル家さまからのご推薦を受ける身。 王宮のお務めにふさわしい働きができますよう、励んでまいります。」
……で、いいですか、ミレーヌ先生。
「エレナさん。初めの頃と違って、すっかり笑顔が素敵よ。」
あらそんなつもりはなかったけど、でもそうかもしれない。
王宮には私の攻略対象が何人かいるのだから表情も塗り固めておきませんとね。うほふふふ。




