第16話『揺らす存在』
朝――教室。
ざわざわとした空気は、まだ完全には消えていなかった。
「……ひな、おはよ」
「……おはよう」
いつもの挨拶。
でも、どこか視線を感じる。
(まだ……見られてる)
昨日の出来事は、完全に広まっていた。
「ねぇねぇ」
「……え?」
「彼氏さん、今日来てるの?」
「……っ」
いきなりの質問。
「……たぶん……」
「見てみたいな〜」
「イケメンなんでしょ?」
「やめてよ……」
苦笑いするしかない。
(慣れなきゃ……)
そう思った時――
ガラッ。
教室の扉が開く。
「……失礼」
低くて落ち着いた声。
「……え?」
クラス中の視線が、一斉に向く。
そこに立っていたのは――
見慣れない女子。
長い黒髪、整った顔立ち。
どこか冷たい雰囲気。
「……誰?」
「他クラスの人?」
ざわつく教室。
その女子は、まっすぐ陽菜の方を見る。
「……あなたが、陽菜?」
「……え?」
心臓が跳ねる。
「……はい、ですけど……」
「……少し、いい?」
逃げ場のない視線。
「……なに、あの人」
「怖くない?」
周りの声が遠くなる。
「……わかりました」
立ち上がる。
(なんだろう……この感じ……)
嫌な予感が、胸をかすめる。
廊下。
「……それで……」
陽菜が口を開こうとした瞬間――
「さくやと、付き合ってるの?」
直球だった。
「……っ」
言葉が詰まる。
「……はい」
しっかりと答える。
その瞬間、女子の目が細くなる。
「……そう」
短い一言。
でも、その中に感情が滲む。
「……あなた」
一歩、近づく。
「本気で付き合ってるの?」
「……え?」
「遊びじゃなくて?」
胸が、ざわつく。
「……違います」
「……ふーん」
冷たい反応。
「……じゃあ、どこまで知ってるの?」
「……何を、ですか」
「さくやのこと」
その問いに、言葉が止まる。
「……全部知ってる?」
「……全部は……」
正直に答える。
「……だよね」
小さく笑う。
でも、その笑いは優しくなかった。
「……私は知ってるよ」
「……え?」
「さくやのこと、全部」
空気が、変わる。
「……誰、ですか」
喉が少し乾く。
「……元カノ」
その一言で――
世界が、ぐらっと揺れた。
「……っ」
「……驚いた?」
「……」
言葉が出ない。
「……まだ引きずってるよ、あいつ」
「……そんなこと……」
「ないって言える?」
言い切れない。
その沈黙が、答えみたいだった。
「……ほらね」
勝ち誇ったような微笑み。
「……だから言ったでしょ」
一歩、さらに近づく。
「遊びじゃないって、本気で思ってるの?」
「……っ」
胸が締め付けられる。
「……やめてください」
やっと出た言葉。
「……そういうの……」
「図星?」
「違います」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」
何も言えない。
「……あいつ、優しいでしょ」
「……」
「誰にでも優しいの」
その言葉が、刺さる。
「……特別だと思ってる?」
「……」
「みんなそう思うよ」
心が、ぐらぐらと揺れる。
「……やめて……ください」
声が、震える。
「……壊れるよ?」
「……」
「その関係」
その時――
「……何してんの」
低い声。
振り向く。
「……さくやさん」
そこに立っていた。
少しだけ怒った表情。
「……久しぶり」
元カノが、軽く手を振る。
「……なんでここにいる」
「会いに来たの」
「……帰れ」
即答。
「冷たいなぁ」
「……ひなに何言った」
空気が張り詰める。
「別に?」
「……嘘つくな」
一歩、近づく。
完全に守る位置。
「……ねぇ」
元カノが、ふっと笑う。
「そんなに大事?」
「当たり前だろ」
迷いのない答え。
「……へぇ」
その視線が、陽菜に向く。
「……いいの?」
「……何が」
「そんな簡単に信じて」
「……」
「また同じことになるかもよ?」
「ならない」
被せるように言う。
「……言い切れるんだ」
「言い切れる」
その声は、強かった。
「……俺はもう間違えない」
その言葉に、元カノの表情が一瞬だけ揺れる。
「……ふーん」
でもすぐに笑う。
「……ま、いいや」
くるっと背を向ける。
「……楽しんでね」
意味深な一言を残して、去っていく。
――静寂。
「……ひな」
「……」
声が出ない。
「……何言われた?」
優しい声。
でも――
「……さくやさん」
「……うん」
「……本当に……」
顔を上げる。
涙がにじむ。
「……もう、過去じゃ……ないんですか……?」
その問いに、さくやは一瞬だけ黙る。
「……ひな」
「……怖いです」
素直な言葉。
「……また、あの人みたいに……」
「ならない」
すぐに言う。
「……絶対に」
手を、強く握る。
「……でも……」
「ひな」
名前を呼ばれる。
「俺が好きなのは、今のひなだ」
まっすぐな目。
「過去じゃない」
「……」
「ちゃんと、今を見てる」
その言葉に、涙が溢れる。
「……ほんとに……?」
「ほんとに」
「……嘘じゃないですか……?」
「嘘つかない」
一歩、近づく。
「信じて」
その一言。
揺れていた心が、少しだけ戻る。
「……」
「……ひな」
「……はい」
「離す?」
試すような問い。
でも――
「……離しません」
即答。
「……絶対に?」
「……絶対に」
涙を拭いながら、強く言う。
さくやが、少しだけ笑う。
「……よかった」
その一言に、また涙が出そうになる。
「……怖かったな」
「……はい」
「でも、ちゃんと言えた」
頭を軽く撫でられる。
「……えらい」
「……子供じゃないです……」
少しだけむくれる。
「それでも」
優しく笑う。
「ちゃんと向き合った」
その言葉に、胸が温かくなる。
「……さくやさん」
「ん?」
「……負けません」
小さな声。
でも、強い意思。
「……誰にも」
「……うん」
「……この気持ち」
手をぎゅっと握る。
「……離しません」
さくやが、静かに頷く。
「……俺も」
廊下の窓から差し込む光。
少しだけ強くなった絆。
でも――
消えない不安も、確かにそこにある。
それでも。
二人は、手を離さなかった。




