すれ違う時間(4)
「どうした、入らないのか?」
「えっ、あぁ……うん、お邪魔します」
何故か家へと入るのを躊躇っていた彼は、私がそう声をかけてようやく玄関から移動した。私がお茶を入れると言ったら、一緒に準備すると言って戸棚からカップを取り出し始める。
「……先生」
「なんだ?」
水を汲んだポットを火にかけた私は、その隣にカップと紅茶の缶を置いて話しかけてくるアンブローズの顔を見上げる。まだ不安そうな表情の彼は、少し首を傾げて口を開いた。
「……聞かないといけないことって、どんな事だったんだい?」
「それは……」
お茶を淹れてから話すよと言いかけた言葉が、コンコン、という扉を叩く音に中断された。この時間、エルフィムは私が出かけていることを知っているため来るはずがない。思い浮かぶのはケニスか、それとも他の誰かだろうか。
「俺が出てくるよ、先生は待ってて」
「あ、あぁ……分かった」
彼の背中を見送ってから、私は紅茶の缶を開けようとする。だがそれもまた、その声で中断されてしまった。彼のその、叫び声で。
「先生ッ! 逃げ、て……っ」
そのまま床にどさりと倒れ込む音がして、私は急いで玄関へと向かった。そこには、先程まで確かに元気だったはずの彼が床へと倒れ込んでいる。その胸元は、きっと彼のものだろう真っ赤な血に塗れていた。
「アンブローズ……っ!?」
彼の元へ駆け寄って、その傷を確認する。かなり心臓に近い位置に、まるで抉られたような穴が空いていた。どう見ても致命傷だった。だが彼は私の腕を掴んで何とか口を開く。
「駄目だ、先生……早く、このままじゃ……」
そう言って力尽きたように気を失った彼の足元に私は目を向ける。そこには、ソフィーと呼ばれていたあの女性が立っていた。
「お前は……何故ここにいる、何故彼を……っ」
「……間違えてしまったけれど。貴女がいるならそれでいい」
私の問に答えるよりも前に彼女はそう呟くと、その瞬間私へと距離を詰めてくる。そしてそのまま、彼と同じように私の胴をその腕で一突きしてきた。一体その身体の何処にそんな力があるのだろうか。だが私の胴体から抜かれたその腕に、血に塗れた青く光る魔術式が見えた気がした。
そういえばクラウディアが、術式自体を体に彫る事があると言っていたことを私は思い出した。ケニスと同様、彼女もそれを使っているのだろう。だが、そんな考えが思い浮かんだその一瞬のうちに、私の意識は遠のいた。
最後の記憶は、私の足元で倒れている彼の姿だった。せっかく、想いを伝えられたというのに。ようやく、自分の感情に向き合えたというのに。その血に塗れた彼の姿が、私の脳裏に焼き付いていた。それでも私に逃げるようにと言った彼は、一体どうなってしまったんだろう。そんなぼんやりとした思考の中、私の意識はゆっくりと覚醒した。
「……もう起きたのね」
気付けば私は、いつかの研究室のように椅子へと身体を固定されていた。だが以前と違うのは、まるで手術台のようなそこに、縄ではなく拘束具で両手両足を縛られている事だった。その傍に立っているソフィーを見上げ、私は声を絞り出す。
「アンブローズ……っ、彼は」
「……貴女を殺してから直ぐにここに来たから分からないけれど、あの傷ならもう死んでいるでしょう」
無表情のままの彼女のその言葉に、私は絶句した。彼が、死んだだなんて。どうして、こんな事になったのか。息が詰まって、自然と出そうになる涙を私は飲み込んだ。とにかく、今の状況を把握しなくては。だが彼の最後の姿が頭を過って、冷静になどなれなかった。貫かれた身体も、その言葉も。倒れこんだその姿に、昔の研究員達の姿が重なって。私はどうしようもない吐き気に襲われる。
「っ……どうして……いや、違う。お前は、何をしようとしているんだ。どうして今更私を攫った……彼を、あんな」
「……貴女を使えば、きっとあの人を助けられる。その身体の仕組みも、彼が出てくるよりも前に準備しておけば。私が、私が一人でやらなくちゃ。きっと、あの人の弟は、この交換条件を呑むはず……だから、大人しくしてて」
彼女の言葉に、私はなんとか思考を巡らせた。つまり、私の身体を調べ直してその術を再度完成させ、そして私を取引材料にグレイを監獄から出そうと考えているのだろう。だが、死ぬ事の無い私を材料になど出来るはずがない。リアンも、そんな条件を呑むことは無いだろう。
「私の……この呪いが分かったとしても。私と彼を交換するなど不可能だ。そんな条件を……あの人が呑むはずがない」
「……あの人の弟は、貴女のその血を欲している。だから、きっと受けるはず。受けなければ……貴女のその脳を壊すと、そう伝えるから」
「私の血……だと、それはどういう……」
ただでさえ混乱している頭をなんとか働かせている私に、彼女は余計に分からない言葉を口にした。私の傍に置かれた機械を操作しながら、それでも彼女は私の質問に答え始める。
「あの人が捕まって……王位継承権を引き継いだ彼は、必然的に相手を探す必要があった。そこに丁度、貴女がいた。そしてその血の祝福は、貴女を選んだ……だから、貴女を壊されるよりも、条件を受け入れることを選ぶはず」
「だが……それは、そもそも私は普通の人間じゃないんだ。血なんて、残せるかも分からない……」
「残せるわ。構造自体は、人間のものだから。そうじゃなければ、貴女を自分のものだと言うはずがない」
彼女は、一体どこまで知っているのだろうか。まるで常に見張っていたかのようなその口ぶりに、私は恐怖を覚えた。きっと、エドワードを攫って暗示をかけた後からなのだろう。監獄を襲うようにという計画が失敗した以上、別の方法を取らなくてはならない。だからこそ、血を求められていたという私を彼女は攫ったのだ。
「足りない……やっぱり、貴女のその術は複雑すぎる。もっと簡単な作りだったら、あの人も今頃……」
そう呟く彼女の様子は明らかにおかしかった。まるで何も見えていないかのように、まともな精神性を感じさせないその瞳も。そして平然と人を殺してしまうその思考も。
「……アンブローズ」
ここにはいない彼の名前を私は小さく呟いた。私のせいで、彼は死んでしまったのだろうか。どう考えてもあれは確かに致命傷だった。だが、どうしてもその最後を見ていない私は、彼が生きていることへの希望に縋りたくなってしまう。あの時私が玄関に行けば、そもそも彼を家に呼ばなければ。――どうして、こうなってしまったんだろう。
「……やっぱり、あの人が居ないと。仕方ない、もう」
私の思考はそんな声で遮られる。先程まで機械を弄っていた彼女は、ふらふらとその場から離れて私の見えない方向へと向かっていった。だが、少し離れた所で扉を開ける音と同時に、彼女の悲鳴のような声が響いてきた。
「っなんで……ッ」
そんな声と共に、誰かが床へと倒れ込む音がする。そして焦ったような彼女の叫び声と共に。その聞きなれた声が耳に届いた。
「どうして、嫌だ、来ないで……っ」
「……はぁ。本当は女性にこんなことしたくないんだけど、仕方ない。先生を壊されたら……きっと俺は貴女を殺してしまうだろうから」
普段なら、きっとそんな物騒な言葉は使わないだろう。怒気を孕んだその静かな声の主は、何かを小さく呟いたかと思うとこちらへ向かって歩いてくる。そして私の側まで来ると、彼は困ったように私に微笑んだ。
「……先生、今外すから。少しだけ待っていてくれ」
「……アンブローズ。まさか、本当に」
まるで初めから何も無かったかのように、彼のその体には、抉られていたはずの傷も、血の跡すら残っていなかった。そんな私の大切な彼の姿に、私は自分の予想が当たっていたことを知った。拘束の外れた私を彼は軽々と抱えると、そのまま出口へ向かって歩き始める。
「……彼女は」
「あぁ、少し気絶してもらっているだけだよ。念の為、その身体の術式も消しておいたから。もう、貴女を襲うことも出来ないはずだ……いずれここにも警備隊が来る。その前に帰ろう」
出口の手前で倒れているソフィーの傍を通り過ぎて、彼はその廊下で立ち止まった。ここはきっと、グレイが秘密裏に使っていた施設のひとつなのだろう。辺りを見回している私を見て、彼は口を開いた。
「先生、少しだけ目を閉じていてくれるかな」
「え? あぁ、分かった」
言われるままに私が目を閉じると、少しだけ彼の体が揺れた気がした。そしてもう目を開けていいと言われた私の視界には、何故か我が家のリビングが映っていた。
「これは……」
「……凄いだろう? この身体は随分と便利でね、これも古い魔術の一つらしい。色々と制限はあるんだけど、歩いて移動するのが馬鹿らしくなってしまうよ」
そう言って相変わらず困ったように笑う彼は、そのまま私を床へと下ろしてくれる。私が彼を見上げると、また少しだけ悲しそうに彼は微笑んだ。そんな彼を見て、確かにここに居るのは私の好きな人なのだと、そう確信した。




