叩く者と獣の子(10)
昨夜は降ったのか、外から雪をかく音が聞こえてくる。軽く肌を刺すような寒さで目が覚めた私は、私の手を握ったまま静かに寝ている彼へと声をかけた。
「アンブローズ、朝だぞ」
「んん……先生? あぁ、そっか。俺は寝てたのか……おはよう」
「おはよう……ベッドに入った途端だったぞ。やっぱり睡眠は必要なんじゃないか?」
「え……いや、そんなことないんだけど……」
眠そうに欠伸をする彼は、昨夜ベッドに入って私の手を握ったかと思うと、その数秒後には既に眠ってしまっていた。普段一体どんな生活を送っているのかは分からないが、やはり寝なくても大丈夫というだけであって睡眠は取った方が良いのではと思わせる勢いだった。
「ほら、離してくれ……シャワーを浴びて来たい」
「……行かないで、先生」
まだ少し寝惚けているのか、私ほどではないにしろ寝起きの悪いらしい彼は起き上がろうとする私を抱きしめようとしてくる。まだ若干眠い私はそのままベッドに引き戻されると、また眠ってしまいそうになっている彼の頭をゆっくり撫でた。
「……仕方ないな、お前は」
「先生……どこにも行かないで、ずっと傍に……」
そう呟いたかと思うと、再度小さく寝息を立て始める彼に私はつい笑ってしまう。力の抜けた彼の腕からゆっくりと抜け出して上体を起こすと、眠っている彼の頭をまた静かに撫でた。
「……なぁアンブローズ。私も人間じゃない者の匂いがすると聞いたんだが、本当か?」
「え、誰に言われたんだいそんなこと……そうだね、先生はこう……甘い匂いがするかな」
シャワーを済ませて、まだベッドに寝転がったままの彼の隣に座った私はふと思い出したそれを彼に問いかけた。目が覚めたらしい彼はベッドから起き上がって私の傍に近寄ってきたかと思うと、そのまま後ろから私に顔を近付けてくる。
「なんでもケニスたちと同じ匂いがするらしいんだ」
「え……あの探偵さんの事かい? 意識して確認した事がないから分からないな。でも、この匂いは少し怖いと思う。あまり良い表現ではないけど、こう、虫が寄ってきてしまうような……まるで蜜みたいな甘ったるい匂い……少し胸焼けしそうだよ」
そう言いながらも擦り寄ってくる彼に擽ったさを覚えつつ、私はそれでいいのかと思いながら私は言葉を続けた。
「匂いは種族特有のものらしいな。一応私は元人間のはずなんだが……というか、まさかお前がその虫になった訳じゃない、よな?」
「俺は普段は匂いが分からないように身体をいじってるから……というか、誰が言ってたんだい?」
「アクロイドだ、彼は随分と鼻が利くらしい」
「あぁ、エドワードか……ずっと傍にいるんだろう? 少し不安だな。その匂いを嗅ぎ続けるのは、あまり良いとは言えなさそうだ」
そういえば、彼の様子が少しおかしかったことを思い出して私はこの匂いが原因だったのだと気付く。けれど自分ではどうすることも出来ないそれに悩んでいると、アンブローズが少し考え込むようにして口を開く。
「そもそも彼から先生の護衛を名乗り出たんだろう? まさか先生、あの子にまで寄ってこられてるんじゃ……」
「え、いや、彼は……その、怒らないで欲しいんだが……私が以前ソフィーに連れ去られた彼を助けに行ったことがあっただろう?」
エドワードは私がその時に負った怪我を確認するためにこの仕事を受けたのだと説明した。傷一つ残っていない事や、何週間も前から私が唯の人間ではない事に気付かれてしまっていたのだということをおずおずと伝える。てっきり怒られるものだと思っていたが、彼は少し考え込むようにしてその口を開いた。
「そうか……そうなると今後他の種族に気付かれる可能性があるのか。探偵さん達と同じ匂いがするって言うのは、十中八九貴女に使われた魔術書のせいだろうけど。どうしたものかな」
「研究員達が一緒の時はいいが、人前で言われるのは少し避けたいな。それのせいで仕事を調整させてしまうのも躊躇われるし……」
「いや、それは俺が上手くやっておくよ。匂い自体を隠せる術がないかあの人にも聞いてみるか……でも、今思うとあの警備隊に護衛を依頼したのは殿下なんだよなぁ……あの人は貴女を治すつもりでいるから、あまり隠そうとしていないみたいだし」
彼はそう言いながら、軽く向き合った私の手を取ると小さく何かを呟いた。まだ彼にかけてもらった術は残っていたはずだが、さらに重ね掛けをしたらしい。
「……大丈夫だろうな?」
「今度は大丈夫だよ、貴女を傷付けようとする者にかかるようにしておいたから。出来れば発動しないのが一番なんだけどね」
「子供に寄ってこられるだけで発動したりしないよな……? 私は魔力が多いからと鉱採種達に寄ってこられるんだ」
私の言葉に、彼は少し呆気に取られた表情になった。そして可笑しそうに笑うと、少しだけ悲しそうにこちらを見て微笑んだ。
「なんだか可愛いな、それは。先生は子供が好きだったよね……ごめんね、先生」
「なんで謝るんだ……?」
「何でもないよ。あぁ、そういえば何かを拾ったんだよね。動物でも飼うのかい? 家族が増えるだなんて言ってたけど……俺の事ももう家族だって思ってくれてるのかな」
そういえば、角兎を飼うことになった事を彼には伝えていなかった。その代わり、家族が増えるだろうと言っていたことを私は思い出す。それは私にとって、比喩でも何でもなく、本心だったことを言葉にした。
「……もとから家族のようなものだと思っていたよ。お前もエルフィムも、私にとっては自分より大切な存在だからな」
「それは……俺としては本当の家族になりたいんだけどな」
彼はそう呟いたかと思うと、そのままベッドから下りて立ち上がった。そしてまだ座ったままだった私を振り返って額に口付けをしてくる。
「それじゃあそろそろ行くね、先生。あと三日、頑張ってくれ」
「え、っと。あぁ……またなアンブローズ」
そのまま部屋の扉ではなく、バスルームに続く扉へと彼は消えていった。私も立ち上がってその扉の中を確認するが、そこに彼の姿はなかった。
「……なんだか嵐のようだな。私も準備するか」
バッグに必要なものを詰めていく中で、彼が私に謝ってきたこと、そして本当の家族になりたいと言っていたその言葉を思い出しつつ、その意味をゆっくりと頭で考えた。
――私は大丈夫でも、彼はもう駄目なのだろうと。人間として生きることを諦めたことによって失った、その人間としての幸せを。私が子供が好きだと知っている彼は、少なからず後悔しているのだろう。
「……初めて会った時はお前も子供だったろうに。本当に大人になったんだな、あの子は」
彼の悲しそうな笑顔を思い出して、それでも彼の望みなら叶えてあげられるだろうかと私は考える。こんな歳になってまさかそんな可能性が出てくるとは思いもよらなかったが、それでも嫌ではないなと思う私がいた。
結局私は今の仕事を終わらせてから考えることにしようと、準備を終えて部屋を後にする。彼のおかげでもう危険なことは起きることはないだろうという確信を持って、私は仕事へと向かったのだった。




