第56話 極楽浄土の死闘後編
電脳の海を真っ逆さまに滑り落ち、現実の肉体に張り付いたラバースーツのセンサーが、アリーナ内の死の熱気をわたしの全身へと容赦なく伝達してくる。ゲートを潜り抜け、アリーナの中央へと強制ログインしたその瞬間――わたしの鼓膜を、耳をつんざくような大気の破裂音が貫いた。
「がああああぁぁぁぁ!!!!」
「え……っ」
目の前、わずか数メートルの距離。狂犬のように理性を失い四つん這いになった明楽さんの姿が、網膜にドアップで焼き付いた。黄金色の瞳は血走り、わたしという獲物を認識した瞬間、結晶の尻尾を激しく波打たせて一直線に突進してくる。一撃。それを受ければわたしの肉体なんて簡単に破壊されるだろう。そして、ここでの肉体の死は、現実にも死が訪れる。あまりの恐怖に、わたしの足はアリーナの床に縫い付けられたように動かなかった。
「きゃうっ!?」
風が、わたしの体をさらっていった。激しい衝撃波とともに、わたしの体が宙に浮き上がる。気づいた時には、冷たくもこの上なく安心できるミントの香りにしっかりと抱きかかえられていた。
「優奈……っ! 無事で、無事で本当によかった……!」
「れ、玲香さん……!」
アリーナの地面を滑るようにして、明楽さんの神速の突撃を紙一重で回避した玲香さん。お姫様抱っこでわたしを抱きしめる彼女の腕は、かつてないほど激しく小刻みに震えていた。その瞳には、愛しい者を二度と失いたくないという、痛々しいほどの焦燥と狂おしい愛が宿っている。玲香さんはわたしを地面にそっと降ろしながら、肩を掴んで深刻に問いかけてきた。
「問い詰めたいことは、それこそ星の数ほどある。どうして優奈がこんな修羅の戦場へ来たのか。……だけど、私の愛した賢い君のことだ。何か、勝機があって来てくれたんだね」
玲香さんの真っ直ぐな瞳。わたしは胸に手を当て、深く呼吸をしてから覚悟を口にした。
「はい。信じてくれて、ありがとうございます。玲香さん……明楽さんの動きを、どうか五秒だけ、止めてもらえませんか?」
「五秒、だな。――聞いたか、二人とも!」
玲香さんが叫び、剣を正眼に構え直す。その声に応えるように、アリーナのクレーターの影から、二人の戦友が同時に躍り出てきた。
「ふふ……。優奈さんの頼みなら、たとえ神様を呪うことになっても、お安い御用よ」
望愛さんが鎖を激しく鳴らしながら、そのコバルトブルーの瞳に狂信的な光を宿して微笑む。
「ちょっと望愛! そんな安請け合いしないでよね! まぁ、骨は折れるどころか、ウチらの魂が何回折れるか分かんないけど――やってやろうじゃないの!!」
加恋さんがストレートの金髪をかき上げてから、ショットガンを明楽さんへと力強く構えた。頼もしい。この人達がいてくれるなら、どんな理不尽なシステムだって、きっと乗り越えられる。
「優奈、私達が隙を作る。……あとは、君の奇跡の力を、信じているよ」
「はい! よろしくお願いします、皆さん!」
わたしが叫ぶと同時に、天井から中谷の薄気味悪い嘲笑が降る。
「ひひひ……。桜優奈。何やら面白い小細工を企んでいるようだが……無駄だよ。狂犬と化した彼女に触れる前に、君のその薄い肉体は、ただの肉片となってアリーナに散るだけさ」
中谷の宣告を、わたしは冷たい目で一瞥する。
「ほら、こっちに来なよ。惨めな子犬ちゃん。お前の大好きな、強いシーカーがここにいるよ」
玲香さんが一歩前に出て、あからさまな挑発の声を明楽さんへと投げかけると、身体がビクリと彼女が跳ねる。
「がああああぁぁぁぁ!!!!」
理性を失っているはずなのに、バカにされたことだけは本能で理解したんかもしれない。明楽さんは血相を変えて、その四肢の結晶を爆発的な魔力で明滅させ、玲香さんへと真っ直ぐに飛びかかってきた。 灰色の突風。
「単純なやつめ!」
玲香さんは避けない。剣の腹に左手を添え、正面から明楽さんの漆黒の拳を受け止めた。
ギギギ、ギギギギギッッ!!!
金属同士が激しく擦れ合うような、耳障りな金属音がアリーナを支配する。明楽さんの凄まじい怪力に玲香さんの足元が沈み込むが、彼女は奥歯を噛み締めて一歩も退かない。
「望愛!!」
玲香さんの影、その暗闇の底から音もなく伸びてきた深い藍色の鎖が、明楽さんの両腕、両足、そして結晶の尻尾までを瞬時にがんじがらめに縛り上げた。グッ、と一瞬だけ明楽さんの動きが強固にロックされる。
「加恋さん、お願い!」
「ウチの番ね! 守護天使押し潰しちゃって!!」
加恋さんの叫びとともに、明楽さんの頭上の空間が白銀の光となって弾けた。全長三メートルを超える、質量そのものの化身である巨大な鎧騎士が出現。その巨大な両腕の盾を合わせるようにして、明楽さんの背中の棘の上から全体重を乗せてのしかかった。
「ガ、ア、アァァ……ッ!!」
凄まじい重量。明楽さんの腰が曲がり、上半身が地面へと押し潰されかける。でも、それでも彼女の四肢は、アリーナの床をメリメリと踏み砕きながら、驚異的な足腰の強さで耐え続けていた。
「仕上げだ。……絶対零度の揺り籠!!」
玲香さんが剣を地面に突き刺した瞬間、明楽さんの足元から氷の霜が噴き上がった。明楽さんの結晶化した両足、太もも、そして下半身全体を、極厚の強固な白銀の氷が瞬時に飲み込み、床と同化するように凍結させる。
全身を縛り上げる望愛さんの鎖。背中の上にのしかかる、数十トンのクロムウェルの超質量。そして、下半身を完全に物理固定した玲香さんの氷結。完璧な、これ以上ない三重の檻。 明楽さんの動きが、ピタリと止まった。
「優奈、今だ!! 行け!!」
「はいっ!!」
わたしは地を蹴った。 一、二――頭の中で秒数をカウントする。
「ガ、ガ、ガアアアアアアアアッッ!!!!」
信じられないことが起きた。拘束された明楽さんの全身から、赤黒い魔力の衝撃波が爆発的に噴き出したのだ。
「なっ……!?」
望愛さんの鎖が粉々に弾け飛び、のしかかっていたクロムウェルの巨体が虚空へと吹き飛ばされる。さらに、彼女の下半身を固定していた極厚の氷が、ガラス細工のように一瞬で粉砕された。あの怪物の蛮力は、最高峰のSランクとAランクの連携拘束すら、たった三秒で、力ずくでこじ開けてみせたのだ。自由になった明楽さんの黄金色の瞳が、一直線に走るわたしを捉えた。
「優奈!!」
「優奈さんっ!!」
「ダメ!! 逃げてええぇぇ!!」
三人の悲鳴のような絶叫が響く。だけど、わたしの速度では、明楽さんの間合いから逃れることなど不可能だ。視界に、明楽さんが右拳を深く引き、真っ直ぐに突き出してくるモーションが、極限のスローモーションとなって映し出された。
――避けるな。わたしの心が、恐怖を塗り潰すように、冷徹な覚悟を告げた。避ければ、わたしの手は彼女に届かない。そして、玲香さん達が作ってくれたこのチャンスを逃がしては絶対ダメ!
――ドスッ。
お腹の奥に、言葉では言い表せないほど巨大な衝撃が走った。 一瞬の、無感覚。 次の瞬間、脳のシナプスがすべて焼き焦げるかのような、文字通り死を理解させる生々しく凄惨な激痛が、わたしの全身を狂ったように駆け巡った。
「あぐっ……、は、あぁ……っ」
視線を下に落とす。白のブラウスが赤く染められている。明楽さんの、結晶で硬化された右腕が、わたしのお腹の真ん中を正確に貫通していたのだ。むせ返るようのどの違和感。口から生々しい鮮血がどろりと流れ落ちる。痛覚百パーセントのデスゲーム。現実世界のわたしの脳が、肉体的な死を感知して激しく警報を鳴らしているのが分かった。視界が急速に色を失い、白く染まっていく。でも、不思議と笑みがこぼれる。お腹を貫いたままの変わり果てた腕に、自分の震える両手をそっと、優しく重ね合わせた。
「えへへ……。……捕まえ、た……」
目の前の黄金の瞳が見開かれら。私の中にある力を濾過器として稼働させ、極限のスキルを発動した。
「魔力浄化――ッッ!!!!」
わたしと明楽さんを中心にアリーナ全体を、そして何百万もの観客の目を潰さんばかりの、まばゆい桜色の光がほとばしった。それは温かく、優しく、そしてこの世のすべての悪意と澱みを分子レベルで濾過していく救済の輝き。明楽さんの身体を侵食していた赤黒い結晶が、桜色の光に触れた瞬間、朝露のようにさらさらと蒸発していく。背中の棘が消え去り、蛇腹の尻尾が光の粒子となって霧散していく。
「あ……、あ……」
光の奔流が収まったそのアリーナのただ中に。黄金色の瞳に人間の知性を取り戻した明楽さんが、呆然と立ち尽くしていた。お腹から、彼女の腕が抜ける。
「僕は……。一体……」
「……よかった……。元に、戻って……」
わたしは掠れた声でそれだけを言うと、糸が切れた人形のように、その場にへたり込んだ。あまりの激痛と、精神的な過負荷。お腹に開いた大きな風穴を見つめながら、わたしは冷たくなっていく感覚のなかで、静かに意識を失いかけていた。
「優奈!! 優奈!! しっかりしろ、優奈!!」
玲香さんが、わたしの体を強く抱きしめる。その顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「優奈さん! 嫌だ、死なないで! 私を置いていかないで!!」
望愛さんがわたしの手を握りしめ、ボロボロと大粒の涙を私の頬へと落とす。
「まずは止血! 傷口を押さえて! 早く!!」
加恋さんが必死に指示を飛ばし、アリーナ内は阿鼻叫喚のパニックに包まれていた。数メートル先にいる明楽さんが自分の綺麗な手を見つめていた。そして、わたしの視線に気づいたのか呆然としている彼女と視線があった。その時。 アリーナの頭上から、興を削がれたような、心底つまらなそうな中谷の声が響いた。
「全く、興醒めだねぇ……。まさか、本当にあの結晶化の暴走を、一瞬で完全浄化して見せるとはね。ひひひ……。イレギュラーとは言え、桜優奈のデータが取れたのは行幸。今回はこれくらいにして、帰還するとしよう」
中谷がログアウトシーケンスを起動しようとする。 しかし――カチリ、と、エラーを告げる乾いた音が響いた。
「……ん? ログアウトが、できない……?」
不審そうに眉をひそめる中谷。 アリーナのスピーカーから、猛烈な速度でキーボードを叩き終えた寧琉ちゃんの、ドヤ顔が透けて見えるような不敵な声が響き渡った。
『ひひひ、って笑ってる場合じゃないよ、中谷。君の権限はすべて剥奪した。……今の君はね、ただのログインアバターだよ。ログアウトは、させない!』
「何だと……!? 脆弱な貴様が、私のコードを……」
「――おい」
中谷が驚愕に顔を歪めたその瞬間。地を這うような、極限の怒りを孕んだ女性の声が、彼の背後から響いた。跳躍。明楽さんの身体が、物理法則を置き去りにした超速度で、中谷の頭上へと肉迫していた。その黄金色の瞳には、自らを化け物に変えた男に対する、本物の修羅の怒りが燃え盛っていた。
「散々僕のことをコケにして、変な玩具扱いしてくれたらしいね。ボコボコにしてあげるから、覚悟しなよ!!」
「ま、待ちたま――」
「砕けろおおぉぉぉぉっっ!!!!」
明楽さんの強烈な、大気を爆発させるかのような右の廻し蹴りが、中谷の顔面へ正確にクリーンヒットした。
ズドォォォォンッッ!!!!
「がはぁぁぁぁっ!!!!」
凄まじい衝撃音とともに、中谷の身体がアリーナの床へと叩きつけられ、何度もバウンドしながら瓦礫の山へと激突した。頭からアバターの生々しい血を流し、顔を歪めてよろよろと立ち上がる中谷。だけど、明楽さんの攻撃は止まらない。
「にひひ……。お楽しみはこれからだよ! はああぁぁぁぁ!!」
神速の、残像すら置き去りにした怒涛のラッシュ。左右のストレート、アッパー、膝蹴り、回し蹴り。一撃一撃が地割れを起こすほどの破壊力を持った修羅の拳が、中谷の身体を容赦なく破壊し、彼のアバターは体力ゲージの概念を無視して、文字通り粉々に粉砕された。そして、アリーナの壁へと叩きつけられ、ボロ雑巾のようにズルリと地面に崩れ落ちるのであった。
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