第41話 修羅の影
「ふぅ……。やっぱり、この空間のフィードバック、生々しすぎます……」
真っ白な塩湖のようなトレーニング空間のただ中で、わたしは自分の胸元を両手で押さえながら、小さく吐息を漏らした。アバターの衣服はいつも通りの、白とピンクを基調にしたひらひらとしたサポーター用の衣装だ。でも、現実の肉体が漆黒のピッチリしたラバースーツに包まれ、何本もの有線ケーブルで神経連結されているせいだろうか。衣装の上からでも、肌が直に密着しているかのような生々しい触感が、脳に直接送られてくるのだ。
「……そうかしら。私は、このダイレクトに繋がっている感覚、すごく気に入っているけれど。優奈さんの心臓の音が、私の体にまで響いてくるみたいで……すごく、愛おしいわ」
望愛さんが、はだけた首筋を白指でなぞりながら、熱っぽい瞳で見つめてくる。その視線が、わたしの首筋にぽつりと残っているはずの秘め事の痕をなぞるように動いた気がして、心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。
「な、何言ってるんですか、望愛さん! そうだ、作戦会議しましょうよ! 玲香さん、どう思います?」
わたしは強引に話題を変え、玲香さんへと視線を向けた。玲香さんは、腰の氷剣のバランスを確かめるように軽く素振りを繰り返し、腰にある鞘に納刀する。
「そうだね。……対人戦のトーナメントとなれば、相手が誰なのかを把握し、それに応じた対策と戦略を練らなければ、勝利は掴めない」
玲香さんは凛とした声で頷くと、空中へ向かって呼びかけた。
「寧琉。聞こえているかい? 現状、今回のトーナメントに誰が出場するのか、情報は入っているか?」
すると、真っ白な虚空から、寧琉ちゃんの気だるげな声がスピーカー越しのように響いてきた。
『やぁ、玲香。やる気満々だねぇ。……結論から言うと、現状はまだ「誰が出場するか確定していない」というのが正確なところさ。なにせ、スノーメビウスと管理局が共同で招待状を送ったのは、つい先日の話だからね』
「招待状……? 誰にでも出られるわけじゃないんだね」
わたしが尋ねると、寧琉ちゃんの楽しげな笑い声が返ってきた。
『そうだよ、優奈君。この極楽浄土は管理局も力を入れまくっていて、いわば世界に日本の技術力を見せつける祭典でもあるのさ。そんな超重要イベントの華であるトーナメントに参加資格が与えられているのは、この国の上澄み――すべてのSランクシーカーと、実力を認められた一部のAランクギルドのみ。開催は二週間後。招待された連中が全員、この機会を逃すとは思えない。なぜなら……』
「……優勝者には、優奈との専属パーティー権が付与されるから、だな」
玲香さんが、苦々しげに言葉を遮る。その表情には、自分の宝物を勝手に競売にかけられたような、激しい憤りがにじみ出ていた。
『そういうこと。優奈君の完全浄化と即時魔力全快の力は、深層を目指す怪物達にとって、喉から手が出るほど欲しい無限のスタミナそのものだからね。……おそらく、招待されたSランクは、ほぼ確実に出場してくるだろうさ』
通信が切れる。真っ白な空間に、再び静寂が戻る。玲香さんは腕を組み、顎に手を当てて思考を巡らせ始めた。
「……よし。ならば、出場が予想されるSランクの分析と対策を始めよう。まずは出てこない、かつ対策を立てる必要がないと思われるSランクから除外していく」
「え? Sランクなのに、出ないかもしれない人なんているんですか?」
わたしの素朴な疑問に、答えたのは望愛さんだった。
「ええ、優奈さん。Sランクと一口に言っても、彼らの生態は一般的なシーカーとはかけ離れているの。……ロビンフッドの杠羅戯、そして副リーダーの八雷刃。SECTの本田励。ソロ専門の富岳兜。そして、ドラゴンスレイヤーの龍我轟。……この五名は、まず今回のトーナメントには本気で出場してこない、あるいは対策の優先度は極めて低いわ」
「どうしてですか? 八雷さんなんて、会議のとき、すごく不敵な感じでしたけど……」
あのイケメンの、圧倒的な絶対強者の余裕を思い出し、わたしは背筋を震わせると、玲香さんが答えてくれる。
「彼らは、根本的に優奈の共有化に興味を示していなかった。……特にロビンフッドの連中や、本田、富岳、龍我は、ダンジョンを攻略すること、あるいは己の限界に挑むことそのものにしか執着していない。政治的な利権や、便利なバッテリーとしての優奈には、最初から関心がないのさ」
玲香さんが冷淡に付け加える。
「それに、彼らSランクは、そのネームバリューの割にメディアへの露出が極端に低いだろう? それには明確な理由があるんだ。彼らが普段、主戦場としているのはダンジョンの三層より下の深層領域。四層から下は、空間に漂う魔力濃度が現実世界の数千倍に達する。その濃密な魔力はカメラはおろかネット回線すら瞬時に遮断してしまうんだ。だから、彼らの活動はそもそも配信できないし、彼ら自身も配信なんてくだらない娯楽だと思っている」
「現代の電子機器が使えない世界……。だから、Sランクの人達の戦いって、ネットでもほとんど見られないんですね」
動画サイトで検索しても、Sランクの戦闘動画は浅い階層でのものや、低画質の盗撮まがいのものしか出てこない理由が、ようやく分かった。彼らは、配信という光の当たる場所ではなく、人類の踏み込めない暗闇の底で、ただ黙々と戦い続けている真の怪物なのだ。
「そうだ。だから彼らの手のうちは未だに謎が多く、興味のない大会にわざわざ首を突っ込んでくるとは思えない。……問題は、あのSランク会議で、優奈の共有化に明確な賛成を示していた者たちだ」
玲香さんの瞳に、鋭い警戒の光が宿る。
「春花貴鏡。白河水姫。そして――黒鉄明楽。この三名が、今回のトーナメントにおける最大、かつ最悪の有力候補だ」
名前を聞くだけで、あの円卓会議での恐ろしい空気が蘇る。
「春花貴鏡……銀鏡の魔女ですね。彼女は、戦術やスキル運用をまとめた軍略家って聞きましたけど……」
「貴鏡自身は、純粋なサポートに特化したSランクだ。直接的な戦闘力において、私が遅れを取ることはない。……警戒すべきは、彼女が仕掛けてくる盤外戦術だ。対戦相手の心理的な揺さぶりや、ルールの穴を突いた狡猾な罠。……あの魔女が、ただの力押しで来るとは思わない方がいい」
確かに、会議のときも、玲香さんの爆弾発言を完璧にいなして自分の有利な落とし所に持っていった人だ。まともに戦うよりも、そちらの方が何倍も厄介かもしれない。
「白河水姫さんは……その、治癒術師ですよね?」
わたしの大好きな推し。あの純白の巫女。
「水姫は、国内最高峰の治癒と防御主体の戦闘スタイルだ。……けれど、彼女のスキルは水の属性に深く依存している。私の氷のスキルは、彼女の水を強制的に凍らせて無力化できるため、相性としては極めて有利なんだ。……水姫単体であれば、私が封じ込めることができる。……本当に、本当の最大の壁は、あいつだ」
玲香さんが、剣を握る手にぐっと力を込めた。そのアクアマリンの瞳に、かつてないほどの戦慄と、静かな闘志が燃え上がる。
「――黒鉄明楽」
「明楽さん……。会議のとき、すごくフレンドリーでしたけど、ネットの噂では破壊の修羅なんて呼ばれていて……」
「フレンドリーなのは、ただ彼女が面白い玩具を見つけて喜んでいるからに過ぎないよ、優奈」
望愛さんが、自嘲気味に冷たく笑った。
「あの女は、人の心を持たない異端児。……彼女にとって、世界は壊していいものと壊せないものの二種類しか存在しないの。そして、壊せないほど強いものを前にしたとき、彼女は世界で最も幸せそうな笑顔を浮かべるのよ」
「……望愛の言う通りだ」
玲香さんが重苦しく頷く。
「私は以前、五層で偶然彼女と一緒になり、一時的に共闘したことがある。……あの時の光景は、今でも私の脳裏に焼き付いて離れない」
玲香さんの言葉に、わたしと望愛さんは固唾を呑んで耳を傾けた。
「彼女のスキルは、至ってシンプルだ。自らの体の一部を、黒く、極限まで硬化させる能力――『金剛身術』。……火を吹くわけでも、雷を落とすわけでもない。ただの、肉体強化に過ぎない。……だが、彼女の異常なまでの身体能力が、そのシンプルなスキルを天災へと昇華させているんだ」
玲香さんは遠い目をし、その時の恐怖をなぞるように語り継ぐ。
「彼女の振るう拳一つで、五層の床が紙細工のように裂け、地割れが起きた。迫り来る強大なモンスターを、彼女はただ、笑いながら素手で殴り殺し、粉々にひねりしていったんだ。……速さも、異常だ。当時の私でさえ、身体強化を極限まで使わなければ、彼女の動きを視覚で捉えることすら困難だった。一対一での肉弾戦において、黒鉄明楽に勝てる人間は、この世に存在しない。……彼女は、戦うためだけに産み落とされた、純粋な暴力の結晶なのだから」
「そんな……。一対一で最強……」
わたしは、自分の体が小刻みに震え始めるのを感じた。そんな化け物みたいな人が、優勝すればわたしを自分の専属パーティーにできるのだ。『最高級のバッテリー、僕らにも触らせてよ』。あの会議のとき、明楽さんが舐めるようにわたしを見つめて口にした言葉が、不気味なエコーとなって耳の奥で繰り返される。捕まったら、わたしは本当に、文字通りおもちゃとして壊されるまで使い倒されるのではないか。
「どうすれば……どうすれば、そんな相手に勝てるんですか……?」
わたしの絶望に満ちた問いに、玲香さんは一歩、わたしへと近づいた。そして、アバター越しであるはずなのに、現実のラバースーツの超感度フィードバックを介して、わたしの冷たくなった両手を、熱い温度で包み込んだ。
「……一対一なら、勝てない。それは事実だ。……だが優奈。今回のトーナメントは3on3――三人一組のパーティーバトルだ」
玲香さんの瞳に、強い光が戻る。
「一対一なら無敵でも、三人で、完璧な連携を以て挑めば、必ず勝機はある。……優奈の魔力譲渡で、私と望愛の魔力を極限まで高める。そして、望愛の潜行による視界外からの強襲と鎖の拘束。私の氷獄の風による広範囲の凍結と、足止めの罠。……二人のスキルで彼女の強大な機動力を殺し、その隙に、私が全力を以て、彼女の体力を削り取る」
「……ええ。一対一なら無理でも、私達が繋ぎ合わされば、あの修羅を奈落の底へ沈めることも不可能ではないわ」
望愛さんもまた、わたしの左手へと、絡みつくような細い指先を重ねてきた。右からは玲香さんの、冷たくも真っ直ぐな愛の熱。左からは望愛さんの、湿っぽくも激しい執着の熱。二人の体温が、わたしの胸を支配していた恐怖を、静かに、けれど確かに溶かしていく。
「三人で……。わたし達、三人で協力すれば……!」
「そうだ。だから、優奈。私達救済の祈り手の絆を、あの怪物に見せてやろう。……さぁ、実際の連携を体に叩き込むために、訓練を始めよう」
「はい!」
玲香さんがそう言うと、真っ白なトレーニング空間の数十メートル先から、銀色の鎧を纏った人型のNPCが数体、ぬっと姿を現した。
「望愛、まずは前衛の私に合わせて、影から奇襲のタイミングを測ってくれ。優奈は、私達の呼吸が乱れた瞬間に、魔力を供給するんだ」
「了解、玲香さん。……優奈さん、私のこと、しっかり見ていてね?」
「はい! 行きます!」
わたし達は地を蹴った。トーナメント開催までの残り二週間。愛しい彼女達を、そしてわたし自身の未来を守り抜くための、血の滲むような模擬戦が、今、仮想の真っ白な世界の中で幕を開けたのだった。
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