第39話 極楽浄土
モデル撮影の翌日。ペントハウスの自室で朝を迎え、わたしはベッドの上でぽつりと、自分の唇に指先を触れさせた。じわりと蘇るのは、昨日の待合室での秘め事だ。玲香さんが席を外した、あのわずかな時間。望愛さんは理性を失った獣のような熱を帯びて、無我夢中でわたしを求めてきた。抵抗しようとしたわたしの両手は、強靭な彼女の腕によってソファに縫い付けられ、ドレスの胸元をはだけさせられて、直に触れられ、揉みしだかれて。そして、下の方まで熱くまさぐられて――。
思い出すだけで、お腹の奥が熱くなり、顔から火が出そうになる。あの時、わたしは完全に望愛さんの与える背徳的な快楽に流されていた。玲香さんという本物の恋人がいるのに、それを裏切るような行為を受け入れてしまったのだ。最終的に我に返った望愛さんだったけれど、公共の場でそんな行為に至ってしまった事実に、激しい羞恥心と後悔に襲われていた。あの熱っぽくて、ひどく気まずい部屋に、玲香さんが戻ってきた時の焦燥は、今でも心臓を冷たくさせる。
……わたしと望愛さんって、一体どんな関係なんだろう
友人や恋人ではない。主従関係というのも違う。それとも、セ……セフレ、とか……? 自分で考えておいてあまりに不道徳な言葉に、ベッドの上で頭を抱えてのたうち回った。少なくとも、一言では言い表せない歪な関係であるのは間違いない。
そして、この関係で一番厄介なのは、わたし自身が望愛さんに酷く惹かれていることだった。ギルド結成前までは、望愛さんは救うべき対象だった。でも、今は彼女を一人の女性として、強烈に意識してしまっている。自分自身を不純物として激しく嫌悪する脆さ、わたしなんかを神聖視してくれる一途さ。望愛さんの持っているアンバランスな個性を、わたしはどうしようもなく愛おしく感じてしまうのだ。これって、やっぱり……浮気だよね。このままでは、わたしは一生、玲香さんを裏切り続けることになる。この現実に向き合わなければならないけれど、今のわたしにはどうすればいいか、全く分からなかった。わたしは現実逃避をするように、慌ててベッドから出て朝食の準備に取りかかった。
「……おはよう、優奈さん」
「望愛さん、おはよう」
いつも通りに朝の挨拶を交わす。望愛さんは冷蔵庫からエナジードリンクを取り出すと、ダイニングの席に静かに腰掛けた。さっきまで一人で悶々としていたのが嘘のように、お互いに普段通りの距離感を保てている。……そう思えるのは、昨日のことについて、お互いにやらかしてしまったという気まずさと羞恥心を共有しているからかもしれない。それに、玲香さんとお父様の関係に望愛さんが的確な助言をくれたおかげで、玲香さんの複雑な事情は解決に向かったのだ。今回の一件で、わたし達『救済の祈り手』はギルドとして確実に一歩前進できた。その事実は、わたし達の歪な関係を、少しだけ肯定してくれているような気がした。
朝食を終え、リビングでハーブティーを淹れていたわたしの前に、玲香さんが現れた。髪は寝ぐせでところどころ跳ね、その顔はいつもの凛としたものとは違い、どこか焦燥と困惑が入り混じった深刻な表情をしていた。
「玲香さん……? どうしたんですか?」
「……優奈。お父様から、メールの返信が来たんだ」
玲香さんは震える手で、わたしにスマートフォンの画面を差し出してきた。望愛さんも背後からそっと覗き込む。そこに綴られていたのは、冷徹なスノーメビウスCEOによる、わたし達の想像を超える大人の絡め手だった。
『そうか、お前の意志は理解した。今日、スノーメビウス本社に来なさい。そこで、お前の今後について話し合おう。ところで、桜優奈の処遇の件、Sランク会議で合意があったそうだが、彼女の処遇は私にも決定権があるということを伝えよう。これは脅しではなく、管理局との協議で正式に合意を得ている』
文面は淡々としていた。けれど、その行間に滲むのは明確な脅迫だ。――もし話し合いに来なければ、わたしの処遇がどうなっても知らないぞという脅し。
「……管理局との正式合意? なんで、一民間企業の社長に、管理局の決定を覆す権限があるのよ」
望愛さんが不機嫌そうに眉をひそめる。
「情報が少なすぎる。……罠なのは百も承知だ。だが、優奈を人質に取られた以上、お父様の呼び出しに応じる以外の選択肢は、私達にはない」
玲香さんの言葉に、わたしと望愛さんは無言で頷いた。こうしてわたし達は、昨日の華やかなスタジオとは打って変わり、日本の経済を牛耳る巨塔――スノーメビウス本社の最上階にある応接室へと、足を踏み入れることになった。
◇◇◇
ガラス張りの広大な応接室。眼下に東京の街並みがミニチュアのように広がるその部屋で、氷室帝人さんは静かに待っていた。けれど、室内にはもう一人、見慣れた人物が座っていた。
「……寧琉ちゃん?」
わたしが思わず声を上げると、ソファーに座っていた寧琉ちゃんは、バツが悪そうに、そして申し訳なさそうに視線を落とした。
「やぁ、みんな……。少し、お久しぶりかな」
「寧琉、どうして君がここに……?」
玲香さんが鋭く問いかける。
「その答えは、私から説明しよう」
帝人さんが、感情の起伏を一切排した無機質な声で割って入った。
「まずは、明石寧琉。彼女は本日付で、アークライトインダストリーの新CEOに就任した。スノーメビウスは、再建中のアークライトの全株式の六割を取得し、完全子会社化とした。……当然、彼女がCEOに就いたのは、私の出資と推薦があったからだ。二社は今後、業務提携を行う」
「新、CEO……!?」
わたしは驚愕して寧琉ちゃんを見た。謎が多い天才だとは思っていたけれど、まさか、いつの間にか大企業の社長さんになっていたなんて。
「驚かせてごめんね。アストラルブースターの技術や中谷の行方を追うのに、アークライトインダストリーを買収するのが手っ取り早いと思ったんだけど……。色々動いていたら、こうなっちゃったんだ」
寧琉ちゃんは困ったように苦笑いを浮かべる。
「そして、彼女には我々のビジネスパートナーとして、近々ローンチする大規模プロジェクトに参画してもらっていた。その内容については、開発主任である彼女から説明する方が適任だろう」
「プロジェクト……?」
玲香さんが訝しげに口にする。
「次世代型仮想空間訓練システム『極楽浄土』だよ」
寧琉ちゃんがタブレットを操作すると、テーブルの中央に美しい青いホログラムが浮かび上がった。
「電脳空間、あるいは精神世界をダンジョンと同条件で構築し、肉体的な破損や人体結晶化の危険を一切排除したまま、極限状態の戦闘訓練を行える画期的なシステムなんだ。近々、政府の協賛を得て、選りすぐりのシーカー達を集めた大規模なベータテスト・トーナメントを開催する予定なんだけど……」
寧琉ちゃんはどこか気まずそうに言葉尻を下げる。肉体的な怪我や、結晶化のリスクがない訓練システム。それが本当なら、シーカーの死亡率は劇的に下がるはずだ。けれど、なぜそれを今、わたし達に見せるのだろう。ここに呼ばれた理由が見えてこない中、帝人さんが唐突にその答えを口にした。
「このトーナメントに、ある景品を用意した」
帝人さんはわたしを、氷のように冷徹なアクアマリンの瞳で真っ直ぐに見据えた。
「極楽浄土トーナメントの優勝者には――桜優奈と専属パーティーを組む権利を授与する」
「「――っ!?」」
玲香さんと望愛さんから、一瞬でガラスを震わせるほどの怒気がほとばしった。
「ふざけるなッ! なぜ優奈が、ゲームのような大会の景品にされなければならない!」
「氷室帝人さん、いくらなんでもやりすぎだわ。……人権侵害もいいところよ」
二人の激しい抗議にも、帝人さんは微動だにしない。
「政府はすでに了承済みだ。桜優奈の浄化の力は、日本のシーカー全体の共有財産にすべきだという声が管理局でも主流だからな。……この提案を持ちかけたところ、高遠支部長は二つ返事で快諾したよ」
あの時のSランク会議の裏で、すでにこの話はまとまっていたのだ。わたしは、自分がまるで美しく飾られたトロフィーとして、大人の都合で勝手に取引されていることに、強い憤りと、どうしようもない恐怖を感じていた。
「……そして、玲香。お前がこの決定を不服とし、桜優奈を独占し続けたいと言うのなら」
帝人さんは、懐から一枚の冷たい書類を取り出した。
「このトーナメントに、お前のシーカーライセンスを賭けなさい」
「ライセンスを……賭ける……?」
「そうだ。お前達ギルド救済の祈り手がトーナメントに出場し、敗北すれば、お前はシーカーの資格を永久剥奪。私が用意した席へ座ってもらう。もし出場を拒否すれば、お前はライセンスを失わない代わりに、桜優奈とのペア権は自動的に剥奪され、彼女はトーナメントの勝者のものとなる」
負ければ、玲香さんはシーカーを辞めさせられる。逃げれば、わたしは見知らぬSランク達の「バッテリー」にされてしまう。どちらを選んでも、破滅。逃げ場のない、完璧なチェックメイトだった。
「……汚いやり方ね。これが大企業の社長のすること?」
望愛さんが、軽蔑を隠そうともせずに吐き捨てる。帝人さんはその言葉を、心地よい風でも浴びるように受け流し、薄い唇を微かに歪めた。
「これが、賢い大人の流儀だ。……さぁ、選択しなさい、玲香。お前の誇るその剣が、お前の決意を通すに足るものか、私に見せてみろ」
重苦しい静寂が、応接室を支配する。寧琉ちゃんは顔を伏せ、拳を握りしめていた。彼女もまた、この理不尽な取引に加担させられた被害者なのかもしれない。わたしは、玲香さんの服の裾をぎゅっと握りしめた。玲香さんはゆっくりと、わたしの手を自分の手で包み込む。彼女の瞳には、かつてお父様に怯えていた子供の影はなく、戦士の光が宿っていた。
「……いいでしょう。その挑戦、受けて立ちます。私は貴方の操り人形でないことを証明し、優奈は誰にも渡さない」
玲香さんの冷徹な宣言が、ガラス張りの応接室に響き渡った。こうしてわたし達は、仮想システム極楽浄土での死闘へと身を投じることになったのだった。
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