第38話 シーカーライセンス
重苦しい扉を閉め、私はスタジオの廊下を一人歩いていた。胸の中にあるのは、煮え立つような怒りと、それ以上に私を心の底から凍えさせる、冷たい無力感だった。お父様――氷室帝人。あの人の前に立つと、どうしても幼少期の暗い記憶が蘇ってしまう。どんなに努力してもできて当たり前と突き放され、完璧でなければそこにいることすら許されないような、底寒い恐怖。Sランクシーカーとしてどれほど強くなろうと、私の根底にあるお父様の人形という呪縛は、あの冷徹な一言で、容易くあの無力な子供へと引きずり戻してしまうのだ。……私は、お父様の人形じゃない。でも、どうすれば……。
すがるような思いで、私は優奈達の待つ待合室のドアノブに手をかけた。一刻も早く、優奈のあの暖かな桜色の魔力に触れたかった。彼女の笑顔を見て、私の胸を支配する氷の呪縛を溶かしてほしかった。そう願いながら、静かにドアを押し開けた。
「優奈、待たせ――」
そこで、言葉が止まった。待合室を支配していたのは、私が持ち込もうとしたものとは、明らかに質の異なる奇妙な静寂だった。そして、何だろう。この、妙に甘く、肌にまとわりつくような熱っぽい空気は。
「おかえりなさい、玲香さん。お父様とは、随分と長いお話だったのね」
ソファの端。望愛が、何事もなかったかのような、実にお淑やかで涼しい顔をして私を出迎えた。だが、そのコバルトブルーの瞳の奥には、どこか勝ち誇ったような、私をからかうような優越感がどろりと揺らめいている。 隣にいる優奈に目を移すと、心臓が冷たく跳ねた。
「あ、れ、玲香さん……! お、おかえりなさい……!」
優奈は顔を林檎のように真っ赤に染め、ドレスの胸元を必死に手で押さえながら、酷く気まずそうに目を泳がせていた。よく見れば、ギリシャ女神を思わせる純白の布地が、一度強引に乱されたかのように僅かにシワが寄っている。そして、優奈が小さく身を竦めた瞬間、その白い首筋に、ぽつりと浮かび上がった小さな赤い痕が視界をよぎった。痕……? まさか、虫刺され……いや、そんなはずは……。
普段の私なら、激しい嫉妬と違和感で望愛を追及していただろう。だが、今の私は、お父様との対峙で精神を限界まで削り取られていた。目の前で、大好きな優奈が泣き出しそうな顔をしている。その隠し事を詮索するだけの強さを、今の私の心は持ち合わせていなかったのだ。優奈を問い詰めて、もし私の心がさらに傷つくような真実を突きつけられたら――そんな恐怖が、私の思考を鈍らせる。
「……ああ。少し、待たせすぎてしまったね。すまない」
私は力なく微笑み、優奈の隣へと滑り込むように腰を下ろした。どっと押し寄せる疲労感。プライドを保つことも忘れ、優奈の柔らかな肩に頭を預けて、小さく息を吐いた。その瞬間、優奈の体がビクッと硬直するのが分かった。優奈から漂う甘いシトラスの香り――望愛のシャンプーと同じ匂いが、私の鼻腔をくすぐる。気づかないフリをする。今はただ、この温もりに縋りたかった。
「玲香さん……? 顔色が真っ白です。お父様と、何かあったんですか?」
優奈の心底私を心配してくれる鈴の音のような声。その温もりに触れた瞬間、私の中に張り詰めていた、痩せ我慢の糸がぷつりと切れてしまった。
「……優奈。私、シーカーを辞めさせられるかもしれない」
「え……?」
私の吐露に、これまで涼しい顔をして私を挑発していた望愛が、ハッとしたように小さく息を呑んだ。
「別室でお父様に……スノーメビウスCEOに会った。あの方は、私にシーカーを辞めろと言ったんだ。スノーメビウスに入社し、モデルやデザイナーをしながら、いずれは経営陣へ加われと。……それはすでに決定事項だから、明日中にライセンスの返納手続きを済ませろと、一方的に告げられた」
言葉にするだけで、あの冷酷な命令が現実の枠組みを侵食していく。
「そんな……! 玲香さんは、Sランクのトップシーカーなんですよ!? それを、親だからって理由だけで、そんな一方的に辞めさせるなんて、横暴すぎます!」
優奈が、自分のことのように憤慨して拳を握りしめる。その優しさに涙が出そうになるが、私の心はまだ暗闇の底にあった。
「……お父様は、そういう人だ。一度下した決定は、絶対に覆さない。……私は、あの方の命令に逆らう術を、持っていないのかもしれない……」
自嘲気味に呟き、目を伏せる。その時――。
「……馬鹿じゃないの。そうやって悲劇のヒロインを演じて、優奈さんに慰めて貰いたかったの?」
低く、けれど芯の通った鋭い声が、待合室の空気を切り裂いた。顔を上げると、望愛が先ほどまでの勝ち誇った表情を、呆れたような、冷ややかなものへと変えて私を睨みつけていた。
「望愛……? 君に、何がわかる? 私の唯一の居場所を成す術もなく奪われんたんだぞ!」
侮辱されたような気がして、私は声を荒げながら答える。しかし、望愛の冷徹な眼差しは揺るがない。
「分からないわよ。でもね、貴方がその程度のこけ脅しに怯えていることくらいはわかるわ。私が尊敬した氷室玲香なら、こんなことで優奈さんに泣きついたりしない」
「君だって、さっきまで優奈に甘えていたくせに……。その、服の乱れはどう説明するんだ」
「うっ……!」
私の至極真っ当なカウンターに、望愛はバツの悪そうな顔をして、ゴホンと軽く咳払いをした。そして、ソファに深く背を預けて話を戻した。
「……それは別として、いい? 氷室帝人は確かに日本を代表する超大企業のトップよ。でも、ダンジョン管理局の人間でもなければ、法律そのものでもないわ。……冷静になりなさいよ。シーカーライセンスの返納手続きは、他ならぬ自分自身にしか行えないのよ?」
「え……?」
「仮に会社としての圧力で失効させようとするなら、政府の特権的な介入が必要になる。でも、貴方は国家資産級のSランクシーカー。先日の会議でも、政府は貴方という最強クラスの戦力を失いたくないからこそ、優奈さんの共有化を諦めた。……そんな国の宝でもある貴方のライセンスを、一民間企業の社長のワガママで、管理局が剥奪すると思う?」
望愛の指摘は、極めて現実的で、かつ揺るぎない社会のロジックだった。
「……たしかに」
私は目を見開いた。そうだ。ライセンスは国家資格であり、本人の意思、あるいは重大な犯罪行為がなければ、如何なる権力であっても一方的に剥奪することはできないのだ。
「まず、あり得ないわ。……玲香さん、貴方は父親の完璧な支配者というイメージに、思考を焼き尽くされているだけよ。ただの一度も逆らったことがないから、その言葉が絶対の命令だと思い込んでいるの」
望愛がフッと、少しだけ表情を和らげて笑った。
「父親がどれだけ偉そうに命令しようが、無視すればいいのよ。無視されたところで、あの社長にできることなんて、貴方のクレジットカードを止めることくらいじゃない?」
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。お父様が明日中に手続きをしろと言ったから、手続きをしなければならないと思い込んでいた。それほどまでに、私にとって氷室帝人の言葉は、世界の物理法則と同義の、逆らうことのできない呪縛だったのだ。
「……そうか。そうだな……。私は、あの方を恐れるあまり、考えることを放棄していたのか……」
胸の奥を支配していた凍てつく呪縛が、ガラガラと崩れ落ちていく。冷たい枷を解き放ってくれたのは、皮肉にも、私が最も警戒し、遠ざけようとしていた影の刺客だった。
「……ありがとう、望愛。君に、救われたよ」
「……お礼なんていらないわ。私は、優奈さんが悲しむ顔を見たくないだけだから」
「だが、クレジットカードは高校生までブラックカードを渡されていたが、今は自分の口座から引き落とされるカードしか持っていないぞ……?」
「……ただの、例えよ。真面目にツッコまないで」
望愛はふいっと顔を逸らし、再びうつむいた。けれど、髪の隙間から覗く彼女の耳たぶが、僅かに赤くなっているのを私は見逃さなかった。隣で、優奈がほっとしたように、そして嬉しそうに微笑んでいる。
「早速、お父様に意趣返しをしてやろう。ミシャ、お父様にメールで伝えてくれ。『私はシーカーライセンスを返却しないし、貴方の操り人形ではない』ってね」
『承知しました。氷室帝人氏の個人アドレスへ宛てて送信完了しました』
私は、震えることなく、しっかりとスマートフォンの画面を見つめながらメールを送りつけた。 今まで心に覆い被さっていた霧が嘘のように晴れ渡り、信じられないほど晴れやかな気持ちだった。 呪縛は、今、確かに解けたのだ。
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