第37話 スノーメビウスCEO
秘書の女性に案内され、私はスタジオの最奥にある応接室へと向かった。歩を進めるたび、背後にある待合室――優奈と望愛が待つ温かな空気から引き剥がされていくような、言い知れない寒気が這い上がってくる。静かに扉が開かれると、室内に満ちていたのは、一切の無駄を排除したような極限の静寂だった。革張りのソファに深く腰掛け、タブレット端末に目を通している一人の男。オーダーメイドの完璧なスーツを纏い、白髪の混じった黒髪を几帳面に整えたその佇まいは、彫刻のように微動だにしない。日本を代表する巨大企業スノーメビウスグループの頂点に君臨する男。私の父親、氷室帝人だった。
仕事を淡々とこなす、感情を完全に排した人間性のないマシン。それが、私の中に頑なに居座り続ける父親という存在のイメージだ。生まれてからこの方、あの男が笑ったところを一度として見たことがない。私は、幼い頃からずっとこの人が苦手で、そして恐ろしかった。普通の家庭にあるような親子の会話など、私達には存在しなかった。交わされるのは常に、血の通わない業務連絡のような言葉だけ。学校のテストで満点を取っても、習い事でどれほど非凡な成果を上げても、彼が口にするのは決まって、氷のように冷淡な一言だけだった。
『当然の結果だ。できて当たり前だ』
突き放すようなその言葉を浴びるたび、幼い私の心は削られ、冷えていった。私が理解できたのは、この人は私にこれっぽっちも興味がないということ。仕事以外のすべては彼にとって無関心の対象であり、私という存在すらも、ただの些事に過ぎないのだと。そんなふうに親子としての関係は冷めきったまま、私は今日まで生きてきた。
「撮影はどうだ」
お父様は顔を上げることすらなく、ただ冷徹に、無機質な声で問いかけた。私が所属するアパレルブランドは、スノーメビウスグループの傘下。そして、この撮影スタジオそのものもグループが所有するアセットの一つだ。お父様の問いは、親が子に向ける「楽しかったか」というような感想を求めているのではない。今回の撮影がグループのブランディングと次期コレクションの売上にどう直結するか、ビジネスとしての純然たる費用対効果を訊ねているのだ。私は彼が求める報告内容を頭の中で端的に整理し、落ち着いた声で口を開いた。
「滞りなく進行しています。今回は私と優奈、そして望愛――ギルド救済の祈り手の三人によるタイアップです。先日ネットで爆発的なバズを起こした話題性を、そのままビジュアルへ昇華させました。スノーメビウスのブランド価値を底上げし、今期のトレンドを牽引するには十分なインパクトを与えるはずです」
「……そうか」
お父様は短くそれだけを言い、ようやくタブレットから視線を外して私を見つめた。彼のアクアマリンの瞳は、私のそれと同じ冷徹な色彩を宿している。
「当然の結果だな。前回のファッションショーでも、お前が纏い、そしてデザインのディレクションにアドバイスを加えたドレスは、業界内でも最高評価だった。お前が広告塔を務めて以降、ブランドの売り上げは前年比で百五十パーセントを超えている。お前には非凡な才能がある、玲香。……だからこそ、お前はもっと上のステージへ行くべきだ」
相変わらず無表情で、氷のように平坦な声音。けれど、幼い頃から一度も私を褒めなかったあの方が、これほど具体的な数字と実績を挙げて私の才能を口にした。その信じがたい事実に、私の胸は驚きを覚えるとともに、言葉にできない強烈な違和感を抱いた。私に興味などなかったはずのこの人が、なぜ今になってそんなことを言うのか。
「単刀直入に言おう。玲香、シーカーを辞めろ」
室内の温度が、物理的に下がったように感じられた。心臓がドクン、と不快な音を立てる。
「……何、を……」
「すでにスノーメビウスの人事には通達してある。お前には来期から、我がグループのクリエイティブ・デザイン部門の責任者として入社してもらう。まずはモデル兼デザイナーとして新作発表といくつかのブランド立ち上げに参画しろ。キャリアを積んだ後、経営陣へと加わってもらう。これは決定事項だ。明日中にシーカーライセンスの返納手続きを済ませなさい」
淡々と、まるですでに確定した未来の予定を読み上げるかのように、彼は一方的に言い放った。そこに私の意志が介在する余地など、最初から考慮すらされていない。その傲慢な態度に、私の胸の奥で、押さえ込んでいた烈火のような怒りが爆発した。
「――ふざけるなッ!!」
私は思わずテーブルを叩いた。大理石の天板に、私の感情に呼応した微細な氷の結晶がバキバキと音を立てて走る。だが、お父様は眉一つ動かさず、ただ静かに私を見据えている。
「私にシーカーになることを勧めたのは、他ならぬお父様、貴方ではないですか!」
かつての私は、ただ与えられた英才教育を完璧にこなすだけの人形だった。生きる意味も見出せず、ただお父様の望む完璧をなぞるだけの、灰色の人生を歩むはずだった。そんな時、私にシーカーの素質があると分かった途端、お父様が私に問いかけてきたのだ。 『シーカーに興味はないか?』と。今でもあの瞬間のことは鮮明に覚えている。いつも通り感情を見せない冷めきった態度だったけれど、私に意見を求め、私の意志で道を選ばせてくれたのは、私の人生であれが最初で最後だった。だからこそ私は奈落へ進み、死に物狂いで頂点を目指したのだ。
「シーカーは……私にとって、唯一の生きがいです。私が『私』でいられる、この世界で唯一の場所なんだ! それを、今更奪うというのですか!?」
私は叫んだ。叫ばなければ、目の前の巨大な存在に心が押し潰されてしまいそうだったから。だが、お父様はただ、静かに、そしてどこか昏い光を瞳の奥に宿して口を開いた。
「事情が変わった」
「事情だと!? そんな身勝手な理由で――」
「これ以上の議論は無駄だ、玲香。お前がどれほどシーカーとしての活動に執着しようと、私の決定は覆らない。……お前のために用意した、安全で、栄光に満ちた席がそこにある。お前はただ、私の言う通りに動けばいい」
事情が変わった――その一言の裏に、どれほどの理由が隠されているというのか。今の私には知る由もないが、この父親の傲慢な事情なのは確かだ。
「……私は、お父様の人形ではありません。絶対に、辞めません」
私が拒絶の意志を明確に伝えた、その時。ドアの傍らに控えていた秘書の女性が、静かに時計を見つめながら一歩前に出た。
「氷室社長。すでに予定から三分半の遅れが出ております。この後の政府関係者との会合に支障をきたす恐れがございます」
その言葉に、お父様は一瞬だけ、忌々しげに目を細めた。けれど、すぐにいつもの、感情を完全に殺した経営者の顔へと戻る。
「……分かった」
お父様が立ち上がり、私に背を向けた。
「明日中に、スノーメビウスの契約書を私のデスクに届けるように。……無駄な抵抗はよせ。お前がどう足掻こうと、最終的にお前は私の元へと戻ってくるのだからな」
その言葉を残し、氷室帝人は一歩も振り返ることなく去っていった。バタン、と静かに閉まるドア。秘書の女性が、私に向かって深々とお辞儀をし、音もなく彼の後を追って退室していった。
一人残された室内の冷気は、私の怒りと、どうしようもない無力感によって凍りついていた。ただ怒りに任せて拳を握りしめる。かつて私を支配していた、父親という巨大な壁。けれど、今の私には帰る場所がある。守るべき光がある。
「……絶対に、屈したりしない」
大きく深呼吸をし、優奈達の待つ待合室へと向かって歩き出した。彼女達の前では、いつもの完璧な氷の令嬢に戻らなければならない。そう自分に言い聞かせながら。
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