第32話 役人の憂鬱
重厚な会議室のドアが閉まった瞬間、私は人知れず深い溜息を吐いた。指先が微かに震えている。空調の効いた室内だというのに、背中のブラウスは嫌な汗で張り付いていた。ダンジョン管理局本部、最上階。ここは人間のルールが辛うじて機能する場所だが、一歩先ほどの円卓に踏み込めば、そこは暴力とエゴが支配する怪物の巣窟だ。氷室玲香、八雷刃、黒鉄明楽……。あの方々と対峙するだけで、寿命が数年は縮まった気がする。
「……お疲れ様、神無月君。顔色が死人のようだよ」
管理局支部長室。報告のために訪れた私を待っていたのは、暢気に緑茶をすする一人の男――ダンジョン管理局支部長、高遠だった。
「支部長。……Sランクの臨時会議、終了しました。報告書は後ほど提出しますが、要点のみ口頭で報告します」
「ああ、聞こう。氷室家の令嬢が何か爆弾を投げたらしいじゃないか。廊下まで冷気が漏れていたよ」
私は眉間を指先で揉みながら、会議の顛末を語った。桜優奈のスキルの希少性。白河水姫による極端な調査提言。それに対する春花貴鏡の介入。そして、氷室玲香による――。
「……氷室玲香が、桜優奈との交際を公言しました。事実上の独占宣言です」
「ははは! あの氷の令嬢がね。よっぽどあの子にあてられたらしい。面白いじゃないか」
支部長は面白そうに笑うが、私には笑い事ではなかった。
「支部長、冗談ではありません。桜優奈のスキル……人体結晶化の完全浄化と魔力の即時回復。これは現在の魔導医学の常識を覆すものです。……本当に、彼女をあのまま自由にしておいてよろしいのですか? 研究所へ強制送還し、その生体構造を隅々まで解明すべきだという意見が上層部でも根強いはずです」
私の問いに、高遠支部長はあっけらかんとした口調で答えた。
「神無月君。君は、自分の飼っている猛獣の餌を無理やり奪い取るような真似をするかい?」
「それは……」
「今、桜優奈を無理やり引き剥がせば、氷室玲香は間違いなく管理局に牙を剥く。それだけじゃない。あの場にいた怪物どもの半分は、自分の利権を奪われたと判断して暴れ出すだろう。……今の日本に、Sランクの半数を同時に相手取れる戦力があると思うかい?」
「……ありません」
「だろう? 彼女は今のところ、平和的に我々の管理下に置かれている。たまに起きるシーカーの結晶化さえ彼女が治してくれれば、政府としては万々歳なんだよ。……泳がせておけばいい。彼女は、怪物達を繋ぎ止める黄金の鎖だ」
あまりに現実主義的、かつ適当な返し。しかし、それがこの歪な世界の均衡を保つための最適解であることも、私は理解していた。
「……承知しました。彼女の身辺調査と簡易検査は、氷室玲香の同伴の下、予定通り進めます」
「ああ、頼むよ。……ああ、そうだ。もう一つ、君に任せている案件だけど」
高遠支部長がデスクのホログラムを操作する。そこに浮かび上がったのは、巨大企業スノーメビウスのロゴと、複雑な魔導回路の設計図だった。はぁ、これを見るだけで胃がキリキリしてくる。民間企業と協働で進めている超巨大案件。何故か私が支部長の代理で取り仕切っているプロジェクトで、これのおかげで私の残業時間が限界突破している。
「スノーメビウス社と共同開発を進めている、次世代仮想訓練システム『エリュシオン』。開発が最終段階に入った。氷室帝人CEO自ら指揮を執っている」
「……あの冷徹なCEOが、自ら動いたのですか」
「あちらも相当な資金を投じているからね。政府としても、このシステムが実用化されればシーカーの死亡率は激減し、彼らは一段と戦力として成長してくれると期待している。神無月君、プロジェクトの推進と調整は任せたよ」
「ええ、勿論ですよ」
私に全てを押し付けた張本人に冷ややかな眼差しを向ける。
「ははは、そんな目で見ないでおくれ。……せいぜいコーヒーと胃薬を常備しておくことだね」
支部長の軽薄な励ましを背に、私は再び溜息を吐いて退室した。一難去ってまた一難。怪物達の円卓が終わったと思えば、次は国家と巨大企業の利権が渦巻く祭典の幕開けだ。これは当分自宅に帰れそうにない……。心の中でぼやきながら、重い足取りで廊下を歩くのであった。
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