第27話 修羅場
青色の髪の子が望愛 桜色の髪の子が優奈
スマートフォンから流れる、朝を告げる爽やかなメロディー。サイドボードを震わせるバイブレーションの振動で、わたしの意識はゆっくりと覚醒した。ベッドから降り、まだ重い体を引きずるようにしてカーテンを開ける。地上数百メートル。タワーマンションの最上階から見下ろす東京の景色は、朝日に照らされて黄金色に輝いていた。幾重にも重なる高層ビル群が、コンクリートジャングルでさえも一時の芸術品のように美しく見せている。
ここは玲香さんが所有するペントハウスのゲストルーム。住み始めてからそれほど日数は経っていないけれど、ここが自分の帰るべき場所だと感じられるのは、少し不思議で、そして誇らしかった。そう感じられる理由は、きっと――。
「えへ、えへへ……」
おもむろに唇に指を沿わせ、昨日の出来事を反芻する。玲香さんと、本当の意味で恋人になった、あの日。……やばい、今のわたし、絶対きもい。鏡を見なくてもわかるくらい、締まりのない顔をしている自信がある。けれど、胸の奥から溢れ出す喜びの声を抑えることができない。こんな感情に、どんな名前をつければいいのだろう。これまでの人生で味わったことのない、心が炭酸水みたいにシュワシュワと弾けるような感覚。脳内がお花畑どころか、一面の桜並木に埋め尽くされている気分だ。
ひとしきりこそばゆい余韻を堪能すると、次に、胸の奥がギュッと切なくなるような衝動がやってきた。玲香さんに会いたい。廊下を挟んですぐ隣の部屋に彼女がいる。歩けば数秒で会える距離なのに、わたしはどうしようもなく彼女が恋しくなってしまった。パタパタと足音を忍ばせてゲストルームを出る。玲香さんの私室の前に立ち、深呼吸をしてから、そっとドアを開けた。
「……失礼しまーす」
遮光カーテンに守られた薄暗い室内。玲香さんはベッドの中で、規則正しい寝息を立てて眠っていた。彼女は朝が極端に苦手で、探索がない日はお昼近くまで起きないこともある。わたしはベッドの横に膝をつき、愛しい人の顔を覗き込んだ。
「玲香さん、大好きです……」
囁きと共に、陶器のように白い頬、そして柔らかな唇に、そっと触れるだけの口づけを落とす。
「ちゅ、えへへ……」
眠っている彼女を独り占めしているという、ささやかな優越感。じんわりとした温もりと照れくささが溢れ、全身がはにかんでしまう。……けれど、はたと気づく。寝ている女性の部屋に無断で忍び込み、あまつさえキスをしてニヤニヤしている自分。恋人という免罪符はあるけれど、客観的に見れば不審者以外の何者でもない。
「っ……!」
急に自分の大胆さが恐ろしくなり、わたしは顔を熱くしながら部屋を飛び出した。自室に駆け込み、はやる鼓動を落ち着かせる。身支度を整え、わたしは逃げるようにキッチンに立った。そうだ、朝食の準備をしよう。玲香さんのために、とびきり美味しいものを作れば、さっきの不審者ムーブも少しは相殺されるはずだ。パントリーにある食材を確認していると、背後でドアが開く気配がした。玲香さんが起きてきたのだろうか。わたしは期待に胸を弾ませてリビングへ顔を出した。
「おはよ……う……え?」
そこには、毛先が跳ねるような癖がついた藍色の髪を揺らす、美女がいた。ネイビーの半袖にハーフパンツという、動きやすそうなパジャマを身に纏った深海望愛さん。彼女は眠たそうに眼を細め、しかし、わたしを見つけるとその視線を熱く固定した。
「おはよう、優奈さん……」
「おはよう、望愛さん。昨日は、泊まっていたんだね」
「ええ。夜も遅かったし、玲香さんが『空いている部屋はいくらでもあるから、好きにしろ』って。……あの人、見かけによらずお人よしよね」
望愛さんは、まるで自分の家であるかのような自然な動作で冷蔵庫を開けた。昨日の決戦で命がけのやり取りをした相手を、自分の家に泊まらせる。玲香さんのその懐の深さは、望愛さんの実力を認めているからこその信頼なのだろうか。それは少し違うと思い直す。昨日の望愛さんはわたしのために命懸けで戦ってくれたのだ。そんな彼女の想いを、玲香さんは認めたに違いない。望愛さんはもはや敵ではなく、背中を預けられる戦友だって。
「……望愛さん、それって」
彼女が冷蔵庫から取り出した缶を見て、わたしは思わず声を上げた。怪物の爪痕がデザインされた、見るからに体に悪そうな黒い缶。強烈なカフェインとアルギニンを誇る、あのエナジードリンクだ。
「私、これを飲まないと朝が始まらないの」
「でも、朝からそれは体に良くない気が……」
「そう? 優奈さんも、試しに飲んでみない?」
カシュッ、という小気味いい音が響く。望愛さんは一口それを煽ると、そのままわたしに歩み寄ってきた。
「いえ、私はいいので……んんっ!?」
想定外の衝撃に、言葉が詰まった。望愛さんがわたしの後頭部に手を回し、強引に唇を重ねてきたのだ。驚きで開いた口内に、冷たい、そして独特の甘辛い液体が流れ込んでくる。口移し。喉を鳴らしてそれを飲み込まされる。エナジードリンクの炭酸が舌を突き、鼻に抜ける甘ったるい香りが意識を無理やり覚醒させる。
「ん……、ふはっ……。……どう? 美味しい?」
顔を離した望愛さんが、いたずらっぽく、そして独占欲に満ちた瞳で聞いてくる。
「……よく、分からないです。味が濃すぎて……」
「じゃあ、もっと味を堪能して……」
再び、唇が塞がれる。今度は純粋な口づけだった。望愛さんの舌が、わたしの中を慈しむように、貪欲にまさぐり回る。
「ん……、んん」
絡み合う舌、交換される唾液。粘つくような、淫らな水音が清潔なキッチンに生々しく響き渡る。玲香さんと恋人になったばかりなのに。ダメなのに。けれど、望愛さんの巧みな愛撫に、わたしの脳は蕩けるように快感へ屈していく。
「ふふ……。優奈さん、エナジードリンクより、ずっと甘い……」
耳元で囁かれる吐息。望愛さんの唇が、わたしの耳から首筋へと、吸い付くように這っていく。首の柔らかな皮膚を吸い上げられるたび、背筋にどうしようもない熱が駆け上がり、腰が砕けそうになる。
「はぁ、はぁ……っ! 望愛さん、そこ、ダメぇ……っ」
わたしが懇願するように声を漏らすと、望愛さんの動きがピタリと止まった。彼女が顔を上げると、そこには悲しさと、剥き出しの執着が混じった、切ない表情があった。
「優奈さん。……私と、こういうことするのは嫌?」
「え……それは……」
答えに詰まる。嫌じゃない。それが一番の問題だった。望愛さんに愛でられるのは、背徳的で、どうしようもなく気持ちよくて。そんなことを考えている自分自身に、激しい嫌悪感と、それ以上の興奮が入り混じる。
「ごめんなさい。意地悪な質問だったわね。……嫌なら、その時は拒絶して」
望愛さんが再びわたしの首筋に顔を埋める。ざらついた舌の感触が走り、わたしは咄嗟に口を押さえた。これ以上声を上げたら、隣の部屋で寝ている玲香さんに――。
「……あ」
唐突に、望愛さんが間抜けた声を上げた。背後から、大気が氷結するような、凄まじい威圧感を感じる。わたしは、恐る恐る振り返った。寝ぐせでボサボサの髪を振り乱し、その瞳には一切の感情を排した、真の氷の怪物と化した玲香さんが立っていた。
「……嫌な予感がして起きてみれば。望愛、貴様。……私の優奈に、何をしている」
ドスの効いた、地の底から響くような声。
「れ、玲香さん! これは、その、誤解と言いますか、事故のようなもので……!」
浮気がバレた夫のような、見当違いな弁明が口をつく。冷や汗が止まらない。終わった。わたしの幸せな生活は、ここで終わった。
「何って……副作用を治してもらっているの。ん……」
「あっ……」
望愛さんが、わたしを後ろから包み込むように抱きしめたまま、玲香さんを挑発するように笑った。彼女はわたしの首筋に、これ見よがしに唇を寄せる。
「副作用だと……?」
「ええ。……玲香さん、貴方なら分かるでしょう? 彼女を求めずにはいられない、この熱が」
玲香さんの瞳が見開かれる。そう、それは玲香さん自身が、わたしを独占するために使い続けてきた、最強の口実だった。
「……いいから、優奈から離れろ!!」
玲香さんが望愛さんを強引に引き剥がし、わたしを自分の腕の中へと囲い込んだ。彼女の全身から溢れる冷気が、火照った体を一気に冷やす。
「副作用と言ったが……優奈。まさか、こいつにもスキルを使ったのか?」
「……は、はい。助けるために……」
玲香さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「だから、あんなにベタベタと……。望愛、お前が優奈をどう思っているかは知らないが、その恩恵に預かれたのは緊急事態だったからだ。勘違いするな」
「ふふ……。どうしたの、そんな余裕のない顔をして。……もしかして、嫉妬?」
「……優奈は私の彼女だ。余計なちょっかいを出されて不快にならない者はいない」
「そう。気分を悪くしたなら謝るわ。でも、これは副作用の治療よ? 貴方、いつもそう言って優奈さんの唇を奪っていたんでしょ」
「なっ……! 私は……私は、純粋な治療として……!」
言い淀む玲香さん。望愛さんの反撃は止まらない。
「ふーん。今まで一度も下心もなく恋人になったんだ。……へぇ、凄い自制心ね」
「~~っ!! ああ、もう分かった、分かったから! さっきのは副作用の治療だった。それでいいか!?」
玲香さんが、顔を真っ赤にして叫んだ。自分がついた副作用という嘘のせいで、望愛さんの行動を完全には否定できない。完璧な論理武装を誇る玲香さんが、自らの過去に足をすくわれている姿は、どこかコミカルですらあった。
「ふふ。そういうことだから、優奈さん。これからも、“治療”をよろしくね」
「あはは……。こ、こちらこそ……」
望愛さんの、副作用を盾にした完璧な立ち回りに、わたしは戦慄するしかなかった。玲香さんはわたしをぎゅっと抱きしめ直し、吐き捨てるように言う。
「優奈、これからはむやみにスキルを使うな。……これ以上、変な虫が湧いてくるのは御免だ」
「む、虫って……」
あんなに命を懸けて戦った戦友を、虫呼ばわりする玲香さんに苦笑いしながらも、わたしはなんとか場を収めるべく、キッチンへと戻った。
「と、とりあえず朝食作りますから! 二人とも座っててください!」
こうして、史上空前の修羅場はお開きとなった。
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