第26話 寧琉の独白
無機質な白に塗り込められた、広大なプライベートラボ。外の世界の喧騒から隔絶されたこの空間には、サーバーユニットの駆動音だけが低く、一定のリズムで響いている。空中に浮かぶ幾つものデジタルディスプレイ。そこには、数日前に東京を震撼させた探索者暴徒化事件のその後を語るSNSやニュース動画が、無数の帯となって流れていた。
『――先日の大規模な探索者暴走事件。政府の公式発表によりますと、アークライトインダストリー社が開発したアストラルブースターの初期ロットに、極めて強力な幻覚作用を引き起こす不純物が混入していたことが判明しました』
整った顔立ちのキャスターが、真実とは程遠い物語を淡々と読み上げていく。
『今回の事件は、この不純物による集団混乱状態が原因であり、一部で噂されていた未知の変異体による汚染といった事実は一切確認されておりません。なお、一般市民および探索者に負傷者は多数出たものの、幸いにも死亡者はゼロとされています。事件発生当初、神崎CEOが発言していた氷室玲香氏および桜優奈氏への疑惑は、完全に根拠のない虚偽であったことが当局の調査で明らかになりました。同氏は責任を取る形でCEOを辞任。現在はその行方も含め、当局が慎重に事情を聴取しているとのことです……』
「ふーん。相変わらず、お綺麗な話だこと」
実験室の主人、明石寧琉は、お気に入りのマグカップに淹れたコーヒーを一口すすり、皮肉な笑みを漏らした。画面の中で語られる死亡者ゼロという奇跡。それは、一人の女性が命を削って成し遂げた浄化の結果だ。だが、政府はその人智を超えた力と優奈の存在を徹底的に隠蔽し、すべてを薬の副作用という枠組みの中に押し込めた。
「神崎に全責任を被せて、トカゲの尻尾切り、か。不都合な真実を闇に葬って、一件落着。神崎の最後は因果応報だけどさ、なんだか世知辛いよねぇ」
寧琉はマグカップをデスクに置き、細い指先で自身の顎をなぞりながら、思考の海に沈んでいく。
(……けれど、計算が合わない点が二つある)
寧琉はキーボードを叩き、解析データの深層を開く。
(第一に、結晶化のタイミング。アストラルブースターの副作用なら、服用量や体質によって発症にばらつきが出るのが自然だ。なのに、まるで遠隔でスイッチを押したかのように、市街地の全個体が一斉に臨界点を突破した。……これは化学反応じゃない。何かしらの外部コントロールがあったのは確実だ。それが、ナノマシンなのかスキルによるものなのかは不明だけど)
「そして、二つ目」
寧琉の瞳が、青いディスプレイの光を受けて鋭く細められた。
(玲香が証言した、あの男。中谷という中年男性。……彼の経歴をアークライトのデータベースはおろか、戸籍、学歴、納税記録、あらゆる公的ネットワークから洗い出したけれど、何一つ出てこない。消されたんじゃない。最初から、この世界に存在していない。幽霊が白衣を着てラボを歩き回っていたとでも言うのかい?)
アストラルブースターの開発記録も、神崎の極秘ファイルも、中谷という名に触れる部分はすべて、物理的にデータが損壊していた。今回の騒動の真のカギは、神崎などではなく、その背後にいたあの男が握っている。
「……ソフトの解析でダメなら、ハードで攻めるしかないよねぇ」
彼女はディスプレイを切り替え、アークライトインダストリーの株価チャートを表示した。数日前まで天を突く勢いだったその曲線は、垂直落下を続け、現在は最盛期の99パーセントを失っている。数千万人の信用を裏切った企業の、惨めな断末魔。
「倒産まで、秒読み。……さぁ、神崎の隠し財産が競売にかけられる前に、残りのゴミ箱も全部漁らせてもらうよ。いや、いっそのことゴミ箱ごと買っちゃおうかな」
寧琉の指先が、ピアノを奏でるようにキーボードの上を踊る。一人の悪党は消え、優奈達は本当の絆を手に入れた。だが、東京の地下深く。浄化しきれなかった澱みが、次なる嵐の予兆となって蠢いていることを知る由もなかった。
(1章完 2章『極楽浄土に君臨せし破壊の修羅』へ続く)
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