第22話 鎮圧
地上は、一晩にして地獄へと姿を変えていた。かつて摩天楼が誇らしげに空を突き刺していた東京の街並みは、今や黒煙と紫色の不気味な燐光に塗り潰されている。至る所で爆発音が響き、逃げ惑う人々の悲鳴を、パトカーや救急車のサイレンが切り裂いていく。だが、そのサイレンの主たち――民間警察や自衛隊の部隊は、もはや無力な観客に過ぎなかった。
どれだけ銃弾を浴びせようとも、どれだけ催涙ガスを撒こうとも、狂い狂った探索者達を止めることはできない。彼らの魔力を纏った肉体に、現代兵器ではろくなダメージは与えられない。魔力を込めた一撃でなければ、彼らの結晶化した皮膚を貫くことなど叶わない。
「あああああ!! 痛い! 痛い! 身体が……身体が熱いんだぁぁ!!」
目の前で、上半身の半分以上を鋭利な赤黒い結晶に覆われた男が、街灯を素手でなぎ倒しながら叫んでいた。男の瞳からは理性の光が失われ、ただ痛みという原初的な恐怖だけが彼を突き動かしている。……幸か不幸か、まだ人語を離せる程度の理性は残っている。つまり、まだ彼らは人間なのだ。私はビルの屋上から、重力に従って垂直に飛び降りた。着地と同時に衝撃を逃がす。
「しばらくの間、そこでおとなしくしてくれ」
暴徒化した男が私に気づき、結晶化した腕を振り回して突進してくる。私は避けない。左手でその巨腕を制し、右手で男の胸元に触れた。
「『絶対零度の揺り籠』」
刹那、男の足元から奔った白銀の霜が、一瞬にしてその全身を包み込んだ。熱を奪い、分子運動を極限まで停滞させる。男は咆哮を上げた姿勢のまま、氷の彫像へと変貌した。殺してはいけない。彼らもまた、神崎の甘い言葉に騙された哀れな被害者なのだ。私のスキルは、鎮圧においてはこの上なく便利だ。極低温状態に置くことで、対象を冬眠に近い休眠状態へと追い込める。身体機能を一時停止させれば、結晶化の進行も、暴走によるエネルギー消費も食い止めることができるはず。
だが、その代償は。
「くっ……胸が、苦しい……」
氷像の傍らで膝をつき、左胸を強く掴んだ。優奈と引き離されてから、どれほどの時間が経っただろうか。身体の奥底から、刺すような渇きが湧き上がってくる。以前は数日間放置しても平気だったはずの副作用が、今は数時間おきに私を苛んでいた。優奈の魔力という名の浄化を、その熱を、その柔らかさを。魂が、猛烈な勢いで求めて叫んでいる。ふふ……このまま彼女に出会えなくなれば、私はどうなるのだろうか。渇きに狂い、この街ごと自分を凍りつかせて死を選ぶかもしれないな……。
一瞬だけよぎった破滅的な思考に、自嘲の笑みが漏れる。優奈のいない世界に、守るべき価値など存在しない。私が今、こうして政府の犬となって暴徒を鎮めているのは、ひとえに彼女が帰ってきた時、安心して暮らせる場所を残しておくためだけに他ならない。彼女は生きている。それだけが、今の私を繋ぎ止める唯一の錨だった。
「……ミシャ、報告を。鎮圧状況はどうなっている」
『玲香様、バイタルサインの乱れを感知。休息を推奨しますが……無視されるでしょうね。報告します。鎮圧要請対象は、現在までに六十パーセントが無力化。政府直属の特殊部隊SECTの増援により、各区域の沈静化は想定よりも速いペースで進んでいます』
視界の端に、東京の立体マップが展開される。私の現在地を中心として、いまだに活動を続けている赤丸が点在していた。
「私の担当区域の状況は?」
『現在、確認されている対象は六名。最速で鎮圧できる最適ルートを表示します。なお、アークライトインダストリー本社の周囲には、神崎配下の探索者が集結している模様です』
「……おあつらえ向きだ。雑魚を掃除した後に、主賓のところへ向かうとしよう」
本当は、今すぐにでも神崎透の首を撥ねに行きたかった。だが、強制執行命令を完全に無視すれば、政府は私を反逆者と見なすだろう。そうなれば、優奈が戻ってきた時の手続きが煩雑になる。今はまだ、法の外へ出るべきではない。私は重い身体を叩き起こし、次の赤丸へと向かって、氷の轍を刻みながら路上の上を滑るように加速した。
道中に転がる結晶化した犠牲者達。彼らの姿は、未来の私の姿かもしれない。優奈という浄化の光を失えば、私もまた、この醜い結晶に蝕まれて終わる。待っていてくれ、優奈。君が帰る場所は、私が必ず守り抜く。自らの内にある狂気を飼い慣らし、彼女への渇きを冷気へと変換し、炎上する街を静寂の白へと塗り替えていく。ミシャの示した最短ルートを、私は文字通り一陣の寒風となって駆け抜けた。次々と立ちふさがる結晶化した暴徒達。かつては肩を並べたことがあったかもしれない探索者達が、見るも無惨な姿で咆哮を上げている。だが、今の私に彼らと感傷に浸る時間は一秒も残されていない。
「そこをどけ」
向かってくる三人の暴徒を、一瞥もせずにすれ違う。私の足元から爆発的に広がった氷のイバラが、彼らの四肢を優しく、しかし絶対的な力で地面に縫い付けた。五人、六人。指定された区域の鎮圧を完了した。次に鎮圧するのは神崎透! お前だけはこの手で絶対に引導を渡してやる。そう心に誓って、やつのいるビルへ全速力で向かう。タクシーも電車も使う必要は無い。自分の足を使った方が圧倒的に速い。真っ暗だった空はすでに朝焼けの景色に変わりつつあった。
ついに、目的の場所にたどり着く。目の前には空を覆わんばかりの巨大な黒い影が立ちはだかっていた。アークライトインダストリー本社ビル。かつて私と優奈が、使い捨ての道具として扱われていた場所。そして、今この瞬間の地獄を産み落とした元凶の城。
『玲香様、本社周辺の警備システムが起動しました。無人防衛ドローンおよび、神崎が雇っている探索者部隊が展開。……神崎は、あなたをここで公務中の反逆者として処理するつもりのようです』
「やってみるがいい」
ビルの正面広場。そこには、神崎が金で雇った探索者達が、アストラルブースターを過剰摂取した禍々しい魔力を纏って待ち構えていた。その数、およそ二十。数だけで言えば、Sランクの私にとっても無視できない規模だ。
「氷室さん、久しぶりっすね。Sランクのあんたも今じゃ結晶化を引き起こした国家の反逆者だ。へっへっへ、大人しく投降しろよ」
大柄な男が、軽薄な態度で話しかけてくる。たしか、葉山だったか。優奈のお弁当をめちゃくちゃにした最低な男。あの時の光景が、感情が脳内に蘇り、怒りが沸々と湧いてくる。私は無言で一歩前へ踏み出した。その瞬間、心臓がドクンと跳ねる。身体が、熱い。副作用による優奈への渇望が、氷のような怒りと混ざり合い、私の魔力をかつてないほどに研ぎ澄ましていた。
「……私の邪魔をするな」
「反逆者が何を偉そうに。俺達に危害を加える時点で、自分の罪を認めたようなもの……」
私は剣を抜くことさえせず、ただ地面に右手をかざした。
「凍れ」
朝焼けの東京に、極北の吹雪が吹き荒れた。物理法則を無視した絶対零度の波が、広場全体を飲み込んでいく。魔力防御を固めていたはずの探索者達が、悲鳴を上げる暇もなく、その場に凍りついた彫像となって並べられた。一歩。また一歩。私は静寂が支配する戦場を抜け、本社の重厚な防弾ガラスを粉砕してエントランスへ侵入する。エレベーターなど待たない。階段を、魔力で身体強化した跳躍を以て、一気に数フロアずつ駆け上がっていく。
十階、三十階、五十階――。迎撃に現れる警備ロボットを、視線を向けるだけで氷の塵に変え、私はついに最上階、CEO執務室の巨大な扉の前に辿り着いた。胸の渇きは限界を超え、視界がチカチカと明滅する。それでも、怒りだけが私を動かしていた。
「……神崎、覚悟しろ」
私は剣を振り抜き、扉ごと壁を切り刻んだ。ガラガラと崩れる音、舞い上がる土煙。私はその中を、氷の霧を纏いながら悠然と踏み込んだ。だが。
「…………いない?」
粉塵が晴れた先。豪華なデスク。高価な絵画。そこには、誰もいなかった。神崎透が座っているはずの特注の椅子は、無機質な静寂の中で主を失っている。想像もしていなかった事態に、頭が真っ白になる。思考停止。その時、私の端末が振動と共に明滅した。相手は――。
『やぁ、玲香。今、アークライト本社にいるよね? そこには君のお目当ての神崎はいないと思うよ』
「……寧琉か。そこまで知っているなら、当然神崎の行方も分かるのだろう?」
『勿論。本社のログをハッキングしたけど、奴は三十分前には地下の極秘通路から脱出してるよ。……神崎はもう、本社なんてどうでもいいのさ。まぁ、アストラルブースターの副作用がここまで広がったら雲隠れするしかないよね。奴の現在地を共有するよ』
彼女から送られてきた位置情報を確認すると、ゲート近くにある地下のようだった。
「ここは……?」
『アークライト社が秘密裏に開発していた施設のようだね』
「疑っているわけではないが、やけに色々詳しいな」
神崎の位置といい、アークライトが隠していた施設等、これらは機密情報のはず。表にでることが無い情報をここまで把握している寧琉に驚きを通り越して、不信感すら湧いてくる。
『まぁ、神崎のことはマークしていたからね。特にアストラルブースター関連の発表があってから。一研究者として、やはりあの薬は気になっていたんだ。魔力を回復する夢の薬があるなんていかにもな話だろ。だから、それの裏どりをするためにハッキングでちょちょいとね』
「なるほど。寧琉らしい理由だ」
『……それと玲香、いいニュースがあるよ』
寧琉の声が、少しだけ明るくなった。
『……三層の観測ログに、ありえない魔力反応が出た。優奈君の浄化の波形だよ。……彼女、生きているよ』
その言葉を聞いた瞬間、私の膝から力が抜けた。
「優奈が……生きて……」
渇ききっていた心に、一滴の潤いが染み渡る。
「……ミシャ、寧琉の送ってきた座標を。……神崎。貴様の逃げ場所は、もう世界のどこにもない」
私は砕けた窓から、炎上する街へと飛び出した。向かう先は、ゲートの地下施設。そこに神崎が潜んでいる。そして――愛しい彼女が帰ってくる、再会の場所。私の身体を蝕んでいた副作用の熱が、確かな希望へと書き換えられていく。優奈……今、行く。君を、もう二度と離さない。私は白銀の流星となって、暁の空を切り裂き、真の決戦の地へと加速した。
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