第18話 強制執行命令発令
走る。ただ、ひたすらに。肺が焼けるような熱を帯び、足の筋肉が断裂を訴える悲鳴を上げている。だけど、肉体的な苦痛など、この胸をえぐる絶望に比べれば、微々たる刺激に過ぎなかった。視界が歪む。涙ではない。極限まで酷使した眼球が焦点を結ばなくなっているのだ。脳裏にこびりついて離れないのは、奈落へと消えていった桜色の残像。
優奈、優奈、優奈……っ! 心の中で名前を呼ぶたびに、心臓が握りつぶされるような痛みに襲われる。あんな、脆くて優しい彼女を、三層へ堕としてしまった。その事実が、私という人間の存在価値を根底から否定し続けていた。Sランク探索者なのに、一人の女性を救うことすらできないのか。ようやく、探索者達の砦へと続くエレベーターが見えた。私は転がり込むようにして箱の中へ飛び込み、上昇ボタンを乱打した。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
重低音を響かせ、エレベーターが動き出す。だが、遅い。あまりにもノロノロとした上昇速度が、もどかしくて狂いそうになる。いっそ、この鉄の箱を破壊し、垂直にそり立つ壁を直接駆け上がってやろうか。数千メートルの垂直クライミング。常人なら自殺行為だが、今の私なら怒りと執着だけで成し遂げられる気がした。だが、理性の一片がそれを止める。無駄な体力消費は、三層での救出作業の障害になる。エレベーターがようやく停止した。扉が開いた瞬間、私は鋼鉄の街へと躍り出る。救出のための物資を脳内でリストアップし、最速で地上へ戻るルートを算出した、その時だった。
『……玲香様、緊急事態です。政府の探索者管理局より、Sランク探索者への強制執行命令が発令されました』
脳内に響くミシャの声に、私は凍りついたように足を止めた。
「……なっ! よりによって、今この瞬間に……!?」
強制執行命令。それは、国が認めたSランクという力の代償として課せられた、絶対の義務だ。有事の際、我々に拒否権はない。もし無視すれば、探索者免許の永久剥奪は免れず、最悪の場合は国家反逆罪に問われる。
「……内容は」
奥歯を噛み締め、私は絞り出すように問う。
『アークライトインダストリー本社周辺に現れた、結晶化した暴徒の排除。および、今回の混乱の主犯とされる神崎透の身柄確保です』
「……結晶化、暴徒? 一体地上で何が起きている」
『……コラボ対決の最中、地上ではアストラルブースターを常用していた探索者達の多くが、同時に結晶化の臨界点を突破しました。理性を失い錯乱状態の彼らが市街地で暴走し、都市機能が麻痺。地上は現在、阿鼻叫喚の地獄と化しています』
足元がふらつくのを感じた。あの毒が、ついに街に溢れ出したのか。あの薬に結晶化リスクがあるのは承知していたが、まさかここまでの騒動に発展するなんて。
『さらに、神崎は公式声明を発表。今回の事態は、氷室玲香と桜優奈がダンジョンから持ち帰った変異体の魔石が発した未知の汚染電波によるものだと喧伝しています』
「……そんな、馬鹿なことが。誰がそんな見え透いた嘘を!」
『……現在、アークライト社はメディアを掌握しています。世論は困惑していますが、氷の令嬢とFランクのサポーターが怪しいという声が急速に拡大中。政府も、国民の怒りを逸らすための生贄として、我々を泳がせつつ、責任を取らせる構えです』
私はその場に膝をつきそうになった。救出に行けば、命令違反で罪人となり、神崎の嘘を肯定することになる。何より恐ろしいのは、優奈が政府に目を付けられことだ。もし彼女が三層から生還しても、その浄化の力が政府に知られれば、彼女は一生、地下の実験室で魔晶を濾過し続けるためのモルモットにされる。優奈を救うためには、まず私が地上を平定し、神崎を黙らせ、彼女が安全に帰ってこられる場所を確保しなければならない。だが、三層に堕ちた優奈に、そんな時間の猶予があるのか?
「……どうすれば、いい。私は、どちらを選べばいいんだ……っ」
声が、情けなく震えてしまっている。その時だった。
「――氷室さん! 無事だったのか!」
背後からかけられた声に、私は弾かれたように振り向いた。そこにいたのは、荒木と風香、そしてそのパーティーメンバー達だった。
「……荒木、か」
「配信が途切れて、崩落が起きたって聞いて、すぐに駆けつけたんだが……。桜は? 桜はどこにいるんだ!?」
荒木が必死の形相で詰め寄ってくる。私は、喉に詰まった泥を吐き出すような思いで、現状を説明した。対決中の崩落。優奈が三層へ落下したこと。そして、地上で起きているパンデミックと、自分に課せられた強制執行命令のこと。
「……そんな。優奈さんが、三層に……」
風香が絶望に顔を歪める。だが、兄の荒木は違った。彼は力強い声で告げた。
「氷室さん。あんたは地上へ行け。……あの神崎のクソ野郎を、ぶちのめしてくれ」
「何を……っ! 私は優奈を助けに――」
「あんたが行かなきゃ、地上の混乱は収まらないだろ! 桜が戻ってきた時、そこが戦場だったらどうするんだ!? 桜の居場所を守れるのは、Sランクのあんただけだ!」
荒木は私を睨み据え、自らの胸を叩いた。
「桜の救出は、俺達が引き受ける。命に代えてもだ。……俺達はあの人に命を救われた。恩返しをさせてくれ」
「……三層の適性ランクはBだ。君達のランクでは死地だぞ」
彼らのランクはCだったはず。彼らだけで三層のモンスターは荷が重い……。
「分かってる。俺達では頼りないだろう。でも、俺達の妹を救った桜を、見殺しにするわけにはいかないんだ。頼む、俺達を信じてくれ!」
私は、荒木の瞳の奥にある、揺るぎない覚悟を見た。かつて、アークライトで道具のように扱われていた彼らが、今、自分の意志で、一人の少女を助けるために死地へ向かおうとしている。……そうだ。私は、一人で背負いすぎていたのかもしれない。優奈が私を変えたように、彼女の光は他の誰かの心をも変えていたのだ。
「……荒木。一つだけ、約束しろ」
「ああ」
「……優奈に、怪我一つさせるな。もし彼女に何かあれば……私は、この世界ごと自分を凍りつかせるだろう」
私の冗談ではない殺気に、荒木の頬が引きつる。だが、彼はニヤリと笑った。
「了解だ。……怖いお姫様が待ってるって、伝えてやるよ」
「……頼んだぞ」
私は、彼らに自分のIDカードを託した。これがあれば、砦に備蓄している私の物資を自由に使える。彼らが二層へと向かうエレベーターに乗り込むのを見送り、私は反対方向――地上へ向かうゲートへと走り出した。視界が、青く冷たく燃え上がる。優奈を失った悲しみは、今、神崎透への純粋な殺意へと昇華されていた。
「ミシャ。オーダーを受諾する。神崎の居場所を特定しろ。……慈悲はいらない。全速力で叩き潰す」
『承知いたしました。……玲香様、最高出力での出撃を承認します』
ダンジョンを抜け地上へ躍り出る。星々の光が瞬く夜空は、立ち昇る黒煙と紫色の結晶の光に汚されていた。逃げ惑う人々。咆哮を上げ、暴れ狂っている探索者の成れの果て達。その混乱の渦中へ、暴徒を粛正する執行者として私は舞い降りる。待っていてくれ、優奈。君が誇れる私で、必ず迎えに行く。爆発するような冷気を以て、地上の喧騒を一瞬で凍てつかせた。私の、本当の戦いが今、始まった。
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