第11話 堕落する玲香
何の変哲もない夜の住宅街。明石寧琉の個人研究所は、そんな日常の風景に溶け込むように潜んでいる。事前に連絡は済ませてある。私は迷うことなく玄関のドアを開け、その白磁の空間へと足を踏み入れた。薬品と安価なコーヒーの匂いが混ざり合う中、小学生にしか見えない自称二十五歳がマグカップを掲げた。
「やぁ、玲香。珍しく切羽詰まった顔だね。お悩み相談なら聞くよ?」
寧琉との付き合いは私が学生の頃まで遡り、気の置けない数少ない友人だ。私は椅子を引いて座るなり、本題を切り出す。
「優奈が結晶化した組織を治した」
ピチャリ、とマグカップからコーヒーが零れた。
「ありえない。何の冗談だい?」
その瞳は、科学者としての冷徹な色に塗りつぶされていた。彼女はマグカップに口をつけた後、口を開く。
「人体の結晶化は不可逆反応だ。生卵が目玉焼きになったら、二度と生卵には戻せない。それと同じだよ。現代魔導科学の常識だ」
現役の研究者で最先端の知識と技術を有する彼女が言うのだから間違いない。そして、私も彼女と同意見だった。昨日までは。
「常識が覆される瞬間を、私はこの目で見た。これを見てくれ」
私はアルマで記録した映像をデジタルディスプレイに映し出す。そこには優奈が風香の赤黒い腕に手を添えていた。次の瞬間、あの桜色の光が溢れ出し、異形と化した結晶を蒸発させていく――。
「ありえない……」
寧琉がディスプレイにへばりつく。震える指で画面を止め、拡大し、何度も見返している。
「世界の法則を……書き換えている? いや、ありえない。これは……時間遡行か、あるいは再構築か……」
天才と謳われる彼女が、これほどまでに動揺する姿を私は初めて見た。つまり、優奈が起こした奇跡は、寧琉にとっても衝撃的なものだったのだ。
「寧琉、どう思う?」
「結晶化した時の映像を逆再生してるとかじゃないよね?」
「そんな下らないことをするわけないだろ」
「そうだけどさぁ。こんなの見せられても、俄かに信じられないよ」
「信じられないのなら、私の魔晶蓄積度を測ればいい。二ヶ月前の検診で、私は基準値ギリギリだったはずだ」
寧琉は無言で私の腕を掴み、採血器を突き刺した。慣れた手つきで採血を済ませて、サンプルを装置に入れて、数秒。インターフェースに表示された数字は二か月前とは異なる真実を告げていた。
『魔晶蓄積度一パーセント未満』
「……蓄積度がほとんどゼロ? そんな、ありえない。Sランク探索者の体内が、まるで生まれたての赤ん坊のように……綺麗だなんて」
ここに来て、私は何回ありえないを聞いたのやら。
「つまり、優奈君のスキルは人体の魔晶を浄化して、さらに結晶化してしまった組織も元に戻してしまうと……。そんなチートスキルあってたまるかぁぁぁぁ!!」
今度は逆ギレか……。ここまで感情をむき出しにする寧琉は新鮮で少し面白くもあった。彼女はマグカップをぐいっと煽り、大きく息を吐いた。
「少しは落ち着いたか?」
「玲香、これは世界の常識をひっくり返す爆弾だよ。この力が公になれば、彼女は良くて政府の奴隷、最悪は彼女を巡って世界戦争に発展しかねない」
寧琉の声は、かつてないほど重かった。一般人が聞けば寧琉の発言はあまりにも大げさで荒唐無稽だと言うかもしれない。しかし、ダンジョンを知る者からすれば優奈の能力はあり得ない程破格でバランスブレイカーなのだ。魔晶の蓄積。それは全探索者の宿命であり、死神の足音だ。これは深層に行った者達が痛感するところだ。
魔晶の蓄積は魔力の濃度に比例して増加する。特に四層以降の魔晶蓄積速度は格段に上昇するため、魔晶による心身の負担は相当なものだ。我々は深層を探索する時、いつだって死と隣り合わせで、いつでも化け物になる覚悟を背負っている。その絶望を無効化する優奈の存在は、深層探索を容易化し国へ莫大な利益を生みだすことになる。つまり、彼女は全人類が奪い合う聖杯になってしまうのだ。
「そんなこと百も承知だ。だから、誰にも悟られないように手を打つし、彼女を狙う輩が現れるなら、私がこの剣で全てを排除する。それだけだ」
「ふーん。随分と優菜君に執着しているね。それは、彼女のスキルを独り占めしたいからかい?」
「ふざけるな! 優菜は私の大切なパートナーだ! 守るのは当たり前だろ!」
つい、声を荒らげてしまった。便利な道具として見ているのではないか――その指摘が、心に痛かった。
「あー、はいはい。すみませんでした。けど、これほどの能力がどうして今まで気づかれなかったのか、疑問に残るね。優奈君は今までもスキルを使っていただろう?」
「ボディタッチだ」
「ボディタッチ?」
「優奈の身体に触れてスキルを発動した時だけ、私の魔力が大きく回復した。以前の彼女は対象に向けて手をかざすだけだったらしい」
優奈とパートナーを組んでからスキルの発動条件は大体調べたからな。かつての劣悪な環境で、誰一人としてFランクの彼女に触れようとする者はいなかったのだろう。不純物のない彼女の魔力は、直接触れ合うことで初めて本来の力を発揮する。
「なるほどね。女の子が誰彼構わずベタベタ触るのも気が引けるし、誰も彼女を顧みなかった。それが幸いしたわけだ」
「ところで、さっきの検査で私の副作用に関わる項目に問題はなかったか?」
「副作用? アストラル細胞は正常だし、データにも特に異常はないけど」
「そう、か……」
「何か思い当たる節がありそうだね。些細なことでも何でもいいから、話してごらん」
普段相手をからかってばかりの寧琉だが、ちょっとした心配事や悩みも親身に聞いてくれるから、ついつい何でも相談してしまう。
「最近、優奈から目を離せないんだ。彼女を見ると抱きしめたくなったり、キスしたくなる衝動に駆られる。副作用は収まっているはずなのに。そして、彼女のことになるとつい感情的にもなってしまうんだ。今日だって、優奈が意地悪されているところを見たら、相手に殺意を抱いてしまうほどに心を乱されてしまった。どう考えても、普通の精神状態じゃない」
「あー、なるほどね。完全に理解した。玲香が彼女に執着する理由も分かったよ」
寧琉は全てを悟ったかのように目を細めどこか遠くを眺める表情をする。流石、天才の寧琉だ。こんな些細な情報からもう答えに行き着いてしまったらしい。
「教えてくれ。これもスキルの副作用なのだろうか?」
寧琉は溜息をつき、憐れむような目で私を見た。
「それは副作用でもなんでもない、ただの恋愛感情だよ。玲香は優奈君に恋をしているのさ」
「は、はぁ!? 優菜は女性だぞ! そもそもただの恋愛感情でこうも胸が苦しくなるはずが……!」
「恋煩いって言うでしょ。それに、同性に恋愛感情を持つのは普通じゃないか。今どき、女性同士で子供も作るのに……。玲香の考えは古すぎるよ。一体いつの時代を生きているんだい?」
「ふざけるのもいい加減にしろ!!」
「いやいや、ふざけてるのはそっちでしょ。惚気話を聞かされるこっちの身にもなってよ。心配して損した。用が済んだのなら、帰った帰った。僕は忙しいんだ」
寧琉は再びディスプレイに向き直った。どうやら、私への興味が完全に失われたようだ。
「くっ……。貴重な意見は感謝する。だが、私が優奈に恋しているなど断じて認めないからな!」
私は捨てセリフを吐いて、ズカズカと歩きながら研究室を後にするのであった。
◇◇◇
帰りのタクシーの中、寧琉の言葉が呪いのようにリフレインする。
『玲香は優奈君に恋をしているのさ』
恋? 私が? 優奈に? 馬鹿げている。かぶりを振って、頭から余計な言葉を追い出す。二十四年間生きてきて、恋人はおろか恋愛感情なんて抱いたこともなかった。私に近づいて来るものは大概が邪な目的をもっていた。金銭、親へのコネクション、探索者の才能、そして性的な好奇心。全てがくだらないし、そんな欲望にまみれた目で見られるのが気持ち悪くて仕方なかった。なのに、瞼を閉じれば浮かんでくるのは、優奈の顔ばかり。初めてのショッピングで照れ笑いを浮かべる優奈、朝に弱い私を呆れながらも優しい表情で起こしてくれる優奈、覚悟を決めて結晶化を治して見せた優奈、死ぬかもしれないのに私に全てを託して抱きしめてくれた優奈。そして、初めて口を奪った時の優奈の熱を帯びた視線……。
「何を考えているんだ、私は……」
意識してしまったら、優奈のことしか考えられない。口では否定しても、頭の中では彼女との熱い口づけを妄想し、甘美な刺激を想像してしまう。どうしてしまったんだ、私は。この後、彼女にどういう顔をして会えばいいのか。路頭に迷ったサラリーマンのように頭を抱え込んだ時、タクシーが停車した。間が悪いとはまさにこのこと。重い腰を上げてタクシーから降りると、見慣れた摩天楼が出迎えてくれるのであった。
震える足でエントランスを通り、エレベーターで最上階へ。玄関の扉に手をかけて一旦深呼吸をする。いつも通りに振舞えばいい。何故なら、優奈はただのパートナーなのだから。最初はビジネスパートナーだったかもしれないが、今ではお互いを良く理解しあった友人に近い関係。言うなれば、寧琉のような関係だ。何も心を乱す必要はないんだ。私は心の中でそう言い聞かせて、ドアを開ける。
「ただいま……」
そう呟きながらドアを閉めると、リビングからパタパタと足音が近づいてくる。
「おかえりなさい、玲香さん!」
彼女の笑顔。その瞬間、胸の奥がぎゅっと熱くなった。優奈がいるこの家が、私が帰るべき場所なのだと、魂が理解してしまう。そんな安心感を覚えると同時に、彼女を抱きしめて温もりを、匂いを、直に感じたい衝動に駆られる。馬鹿か私は! 友人に抱き着き匂いを嗅ぐなんてただの変態じゃないか。
「玲香さん? 靴、脱がないんですか?」
優菜が首を少しかしげて聞いてきた。そんな仕草も可愛いが、どうやら私は不自然にその場で固まっていたらしい。
「あ、ああ。少し考え事をしていね」
いつも通りに振舞うと誓ったはずなのに、十秒も経たない内にまさか破ることになるなんて。本当に今日の私はどうかしている……。リビングへ入ると、テーブルの上には食器とカトラリーが並べられている。
「今日は何を作ったんだい?」
「煮込みハンバーグです! すぐ、温めますね」
優菜はオープンキッチンのコンロに火を点け、フライパンを温め始めた。席へ着くと食欲をそそる匂いが漂い始める。共同生活を始めた頃は優奈を手伝おうとしていたんだが。彼女は私が家事をするのを頑なに止めようとしてくるものだから、最近はこうして全てを任せてしまっている有様だ。このままでは、優奈無しで生きていけない体にされそうだ。目の前の皿にハンバーグが盛り付けられる。湯気と共にデミグラスソースの香りを感じ、胃袋が刺激される。
「すごく美味しそうだね」
「ですよね! 早速食べましょう」
優菜が席に着くのを待ち、いただきますをした。彼女の手料理はいつでも美味しく、そしてどこか懐かしい気持ちにさせてくれる味がした。母の手料理とはこういうものなのかもしれないな。
「すごく、美味しい……」
「本当ですか? 良かったです!」
私は気づけば、ハンバーグを口に運ぶ彼女の姿を、穴が開くほど見つめていた。切り分けたハンバーグを口へ運び、幸せそうな表情で味わっている。彼女の表情からは弁当を台無しにされ、あわや腕を切断するかもしれなかった現場を今日経験したなど微塵も感じられなかった。振り返ると今日は酷い一日だった。優奈には辛い思いをさせたくない。
「……あの、玲香さん。そんなに見られると、少し恥ずかしいです……」
また、やってしまった……。
「あ……すまない。つい、ね」
動揺を隠すようにコップの水を飲む。自分でも呆れるくらい今日の私は変だな。これもあいつがあんなことを言ったせいだ。この場にいない彼女に責任を押し付けて、夕食に舌鼓を打った。
入浴後、ソファーで涼んでいると優奈が隣に腰かけた。彼女を見ると、何か思いつめた表情をしている。
「どうした優奈? そんな浮かない顔をして」
私が声をかけても優奈は何も答えない。心配になって彼女の方へ体を向けた時、一瞬、何が起きたのか理解できなかった。え……? 優菜が私の頬に両手を添えそのまま唇を重ねたのだ。数秒間柔らかな感触が唇を塞いだ後、優奈から口を離した。彼女は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに俯いている。一体何が起きたぁぁぁぁ!? 何故優奈からキスを!? 心臓が爆発しそうなほどの衝撃。驚愕と困惑で頭の中がいっぱいになりながら、何とか一言を絞り出す。
「ど、どうして……?」
掠れた声で問いかける。
「……副作用、また我慢しているのかなって思って。玲香さん帰ってからずっと様子が変だったから」
彼女の言葉に混乱した思考が一気に沈静化する。彼女は、私の動揺を副作用の苦しみだと勘違いして、身を呈して治療しようとしてくれたのだ。なんて、健気で、優しい――。そして、私の脳裏にどす黒い悪魔の囁きが響いた。
――副作用のせいにすれば、また彼女とキスができる――
ついに、私はここまで堕ちてしまったというのか。悪魔的な発想だ。そして、理性が警告を発する。彼女を騙すのか? そんな卑劣なことが許されるのか? けれど。
「……実は、少しだけ疼きを感じていたんだ。我慢、しようと思ったのだけど」
嘘だ。検査で確認済みだし、副作用がある時はどうしようもない程の胸の渇きを覚えるのだ。それが今は全くない。
「やっぱり。少しでも辛く感じたら遠慮しないで下さい」
ここで踏みとどまればまだ戻ることができた。しかし、理性と欲望の間で揺れる天秤は欲望へと傾く。私は、自らの欲望のために、天使のような彼女を騙す道を選んだ。
「これからはそうする。……だから、優奈。もう少しだけ、いい?」
「あ……」
私は彼女の細い肩を引き寄せ、再び唇を奪った。最初はついばむように。次第に深く、熱く。彼女が呼吸のために口を開けた隙を逃さず、舌を滑り込ませる。
「んんっ……!」
驚いた優奈の体がビクンと跳ねるも、すぐに力が抜け、目をトロンとさせた。口の中を蹂躙し、唾液が混じり合う。いやらしい水音が、静かなリビングに響き、それが私をさらに興奮させていく。嘘の免罪符を盾に、私は彼女という蜜を貪り続けた。腰から背中にかけてゾクゾクするような悦びが駆け上がる。
「はぁ……れ、玲香さん……今日、いつもより長い気が……」
優奈に困惑した様子で言われ、夢見心地気分は一瞬で吹き飛んだ。
「……あ、ああ。魔力が、ひどく淀んでいたようだ。でも、やっと落ち着いたよ」
苦しすぎる言い訳。心臓がうるさい。嘘がバレそうな焦燥感と罪悪感で押し潰されそうなのに、下腹部には甘美な熱が溜まっていく。優奈は私のことを思って、こんなにも尽くしてくれているというのに。
「それなら良かったです」
納得してくれた。良かった……。
「わたし、先寝ますね」
「ああ。おやすみ、優奈」
「おやすみなさい、玲香さん」
彼女がリビングを出ていくのを見送り、私はソファに深く沈み込んだ。
『玲香は優奈君に恋をしているのさ』
再び寧琉の言葉が頭の中で響いた。認めざるを得なかった。私は、彼女に恋をしている。それも、嘘をついてまで彼女の唇を求めるような、醜くて重い恋だ。お腹の奥が疼く……。私は静かに手を下の方へ忍ばせる。そして、むず痒いような高揚感と、言いようのない背徳感に苛まれながら、夜通し悶え続けることになった。
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