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48.神はいると思う

くすぐったさに耐えながら、吉田の内緒話を聞き終えた俺は、不機嫌を通り越して悲壮な面持ちになっていた。


思った通り、黒塗りの高級車は吉田の父親のものだった。

吉田は免許取立てで、おまけに少し方向音痴だ。

一千万円を超す高級車であれば、多少は運転が稚拙でも周囲が大目に見てくるだろうという、子煩悩な父親の判断は悪くない。

だが、今日中に車を赤坂の議員宿舎に戻しに来いというのは、一体どういう了見なのか。


「素直じゃないから、車のことにかこつけただけなの」

俺の心を読んだかのように、吉田がすかさず口を開いた。

どうやら彼女の父親は、俺に何か話したいことがあって、ずっと機会を狙っていたらしい。


吉田比奈は、広島を離れた俺の後を追うように、こっちの大学に進学した。

今では家族全員が、赤坂の議員宿舎に住んでいる。


俺が議員宿舎に足を踏み入れたのは、後にも先にも一度きり。

送って行ったついでに、誰もいない家に上がり込んでいたら、外出していた両親が戻って来た。

歓迎されるとは思わなかったけど、いきなり殴られるとも思わなかった。


「出て行け!」と怒鳴る声は吹き荒れるブリザードのようだった。

まっすぐドアを差す指が怒りに震えている。

今では大臣にまでのぼりつめた男が、烈火のように怒る様は迫力だった。


父親が激怒するようなことは何もしていない。

でも、吉田比奈は、本当に両親に愛されているんだな。

そう思うと不思議と腹は立たなくて、じんじんと痛む頬を押さえながらも、俺は素直に感動した。


雨がやみ、車がスムーズに流れ始めた。

高品質のカーオーディオから流れてくるのは、フランツ・リストの「ラ・カンパネラ」。

ドラマチックな旋律に耳を傾けながら、夜景を見たいというリクエストに応えて高台にのぼると、吉田は子供のように目を輝かせた。


「きれい」

夜風に髪をなびかせながら佇む姿が、街頭の淡い明かりの中で浮かび上がって見える。


(夜景より君の方がずっときれいだ)

少し前に出演したドラマの台詞がふと脳裏に浮かんだが、実際はたとえ本当に思っていたとしても、そんな歯の浮く台詞は絶対に出てこない。


肩の辺りで切りそろえた髪は、身につけているものによって、彼女を颯爽と見せることもあれば、少女めいて見せることもある。

シンプルなワンピースの首元にカルチェのネックレスを飾った今日は、いつもより格段に大人っぽい。


「ねえ、さっきの映像、『落日の帝国』だったよね?」

背後から抱きしめようとした時、背中ごしに声をかけられた。

伸ばしかけた手のやり場に困っていた俺は、続く言葉にぎょっとした。


「内緒にしていたけど、初日にみんなで観に行ったのよ。悲しくて、切なくて、後半は涙が止まらなかった。でも、その後の舞台挨拶で……」

「みんなって誰?」

あわてて言葉を遮ると、吉田はくるりと振り返った。


「みんなはみんなよ。父と母と私の三人」

にっこりと微笑まれて、思わずこめかみに手をやった。

一体、何を考えているのやら。

気乗りしない両親を無理やり引っ張って、恋人が主演する映画を、初日の舞台挨拶込みで観に行くなんて。


『落日の帝国』――手渡された数冊の台本の中にそのタイトルを見つけた時、わけもなく胸がざわめいた。

俺の様子を横目で観察していたマネージャーが、さりげなく声をかけてきた。


「あ、それは出演依頼じゃなくて、オーデション用に送られてきた台本。いちおう持ってきてみたけど、南方戦線で戦死する兵士の役なんて、裕也には全然向かないよ。それにわざわざオーデションを受けなくたって……」


話し続ける声は全く耳に入らなかった。

日本映画界の大御所が、私費を投げ打って制作する大作は、太平洋戦争を背景に描かれる義理の兄妹の悲恋もの。

主役の青年は、学徒動員で戦場に送られた見習士官だ。


絶望的な敗走路。

兵士たちの屍が果てしなく続く道。

沈み行く真っ赤な太陽。


これは、この光景は……。

淡々と話し続ける黒田の横顔が目に浮かび、ページをめくる手がどうしようもなく震え始めた。


事務所が止めるのを振り切って、俺はオーデションに応募した。

取り付かれたように台本を読みふけったおかげで、台詞はすっかり入っていたが、短く切った髪を黒く染め直した俺を見て、審査員たちは不可解な表情で顔を見合わせた。


「主役と言っても、それほど華のある役ではないよ。君のような役者には現代物のラブストーリーなんかの方が、向いているんじゃないかな」

お呼びでないと言わんばかりの言葉をぶつけられて、猛然と前に進み出た。

その時、返したのと同じ言葉を、俺は舞台挨拶でも口にした。


イケメン俳優なんて言われているけど、俺は母親にそっくりなこの顔が嫌いだった。

役者の仕事だって、生活費の足しになればと始めただけで、大した思い入れがあるわけじゃない。

でも、台本を手にした時、どうしてもこの映画に出たいと思った。


現実は小説やゲームとは違う。

実際の戦場には一人のヒーローも存在しない。

その悲惨さを、その理不尽さを、役を通して伝えることができるなら……。

それは、空しく死んでいった者たちの心を、少しでも引き継ぐことにはならないだろうか。


「父が、裕也に謝りたいって言っていたわ」

「なぜ?」と間の抜けた質問を返すと、いきなり声を張り上げた。


「感動したのよ! 父だけじゃないわ。母も、私も、あの場にいた全ての人たちが、あなたの言葉に感動したの!」

これ以上、すばらしいことはないとでもいうように、吉田の声は震えていた。

たしかに、あの頑固親父が俺に謝るなんて、きっとこれが最初で最後だ。


「お嬢さんを下さいと頭を下げるなら、今がチャンスかも知れないな」

呟いた途端、いきなりシャツをつかまれた。

「ほ、本気なの? それとも……」


もちろん本気。

そう答える代わりに、可憐な唇にキスをした。


ふわりと漂うブルガリの「プールオム」。

宝石箱をひっくり返したようなゴージャスな夜景。


幸せすぎて、怖くなることがある。

恵まれすぎていて、後ろめたくなることがある。


(なあ、本当にこれで良かったのか?)

不安な思いで問えば、黒尽くめの男は笑ってうなずくだろう。


この世に神はいないと、黒田圭吾は言った。

でも俺は、いると思う。


―了―

どうなることかと思いましたが、何とか完結することができました。

最後までお読み頂いた方に心よりお礼申し上げます。



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