第9話
ホテルへの入室はとても静かだった。
慣れてるんだろうな。と思うと胸が痛んだ。
今までもこうやってファンの子たちと…
なんて、考えるのはやめよう。
「ここなら気にならないでしょ?」
リンダくんがそう切り出す。
「…あ」
顔の傷か。
私の顔の傷を気にして、人目につかないところを選んでくれたんだ。
それなのに私ったら、何を考えていたんだろう…
「…ありがとう、ございます」
リンダくんの手が私に近づき、反射的にビクッとなり避けてしまった。
「ご、ごめんなさい」
「いや、俺がごめんね。配慮が足りてなかった」
悲しい顔をされた。
“そこに座って”と2人がけのソファを指した。
従い、座る。
「俺さ、最近全然思ったように活動できなくてさ」
大きなベッドに、リンダくんが座りながら語り始めた。
「ライブも全然できてないし、昔みたいに人前に出ることも少なくなったし」
「…確かに、最近あんまりイベント情報とか見ないかも」
どうせ私は行けないから、見ないようにしていただけだったけれど、明らかに頻度は減った。
見ないようにしなくても、目に入ること自体が減っていたんだ。
「引退も考えてたんだよね」
「それはだめ!」
反射的に大きな声を出した私を、驚いた顔で見る。
でもすぐに柔らかい笑顔に戻った。
「そんな時だったから、昔から応援してくれてる子から連絡が来て、嬉しかったんだよね」
その言葉を聞いて、泣きそうになった。
その言葉が嘘でも、嬉しかった。
「俺、いっつも君から元気をもらっていたからよく覚えてるよ」
ずっと大好きだった推しに会えて、こんな言葉をプレゼントしてもらえて、私って本当に幸せな人間だ。
今この瞬間、世界で1番幸せなのは私だと本気で思えた。
「そんな、私の方が元気をもらってるのに…」
緩む頬。顔もどんどん熱くなる。
顔の筋肉を使うたびに傷が痛んだけれど、そんなのも気にならなくなるくらい嬉しかった。
名前も呼んでもらえて嬉しかった。
素敵な言葉をたくさんプレゼントしてもらえて嬉しかった。
結局、この日は他愛もない話やイベントでの昔話などに花が咲いて夫の話なんてする暇がなかった。
ああ、楽しいなあ。
私の人生、いつも笑っていたかったなあ。
リンダくんがステージの上で歌詞が抜けてしまっておかしな言葉をメロディーに乗せて歌っていた時のこと。
CDのお渡し会の時にちょっとサインが失敗してしまった時のこと。
初めてのハイタッチ会でリンダくんの手汗がひどかった時のこと。
リンダくんのメンバーカラーだった深緑に光るはずだったペンライトが、私の手の中で白く光ったこと。
この時、リンダくんは私が推し変したのかと思ってヒヤヒヤしたらしい。
…私が前髪を切りすぎてしまった時のことも覚えてくれていた。
全部覚えていて、どの思い出も花が咲いた。
時間が経つのはあっという間で、私は家に戻らなければいけない時間になってしまった。
「今日は楽しかったよ、ありがとう」
「こちらこそ、久しぶりに楽しかったです」
ずーっと頬が緩みっぱなしの私だった。
「うん、やっぱり笑ってる方が可愛いよ」
“可愛い”なんて言われたのはいつ以来だろう。
少なくとも、年単位だった。
「そうだ、これあげる」
リンダくんはポケットから何かを取り出す。
片手に収まるくらい小さな何か。
「…恐竜?」
「うん、可愛いでしょ」
深緑と藍色の小さな恐竜の置物だった。
「…随分年季が入ってますね?」
へへっと声に出して笑った。
私の大好きな笑顔。
「じゃあ、またね」
そう言ってリンダくんは去っていった。
あまりにも現実味がなさすぎて、夢でも見ていたんじゃないかと疑った。
リンダくんの余韻に浸りながら、家まで歩いた。
なんで恐竜なんだろう。
何かのキャラクター?
随分大切に持っていたんだろうなあ、と安易に想像ができるくらい年季が入っていた。
リンダくんのプライベートを知れて嬉しい気持ちになった。
…神様は、私をこの幸せな気持ちのままではいさせてくれなかった。
家の前に着くと、気分が一気に落ち込んだ。
ずいぶん大きくて立派な家。
私には見合わない、立派な家。
静かに家に入る。
「あら、あなたずいぶん遅かったじゃない」
「…戻りました」
「本当、辛気臭いわね。早くご飯作りなさいよ」
言われなくても、作りますよ。
私が数時間家を空けるだけで、散らかっていた。
食べカス、ティッシュのゴミ、使われた状態のままの食器たち。
義母1人でこんなに散らかるなんて。
誰が片付けると思っているの?
私は今日も、夫と義母好みの塩気の強い料理を提供した。
昨日よりも、味を濃くしてみました。




