第9話 彼女の重さを、否定したくない
玲奈が俺へ向ける感情は、日に日に隠しようのないものになっていた。
朝は必ず待ち合わせ場所へ先に到着し、俺の姿を見つけるまで何度も通学路の先へ視線を向けている。校内では学年が違うにもかかわらず、休み時間になるたびに教室の前まで顔を見せ、昼休みには手作りの弁当を抱えて迎えに来るようになった。
以前の彼女を知る生徒からすれば、別人に見えても無理はない。
俺にだけ冷たい態度を取っていた清純派アイドルが、今では俺にだけ蕩けるような笑顔を向け、周囲の視線すら気にせず隣へ寄り添ってくるのだ。廊下を歩けば何度も振り返られ、教室へ戻れば友人から事情を問い詰められる。
しかし、俺が気にしていたのは噂ではなかった。
「先輩、今日のお弁当はいかがでしたか?」
「美味しかった。特に卵焼き」
「では、明日は卵焼きを一段すべてに詰めます」
「弁当の構成がおかしくなるからやめろ」
「先輩が好きなものだけで満たして差し上げたいんです」
昼休みの中庭で、玲奈は空になった弁当箱を見つめながら幸福そうに頬を緩めていた。
俺が残さず食べたことが、それほど嬉しいらしい。
料理の腕前は高く、味付けも俺の好みに合わせられている。だが、睡眠時間を削ってまで作ろうとした前例があるため、俺は毎朝、何時に寝たのか確認するようになっていた。
玲奈は俺の世話を焼きたい。
俺の役に立ち、自分が必要とされていると実感したい。
その根底には確かな愛情がある一方で、また捨てられるのではないかという恐怖も根強く残っていた。
だから彼女は、俺へ尽くすことで自分の居場所を守ろうとしている。
それを単に重いと笑ったり、面倒だと切り捨てたりするのは簡単だった。しかし、玲奈がここまで極端になった理由の一端は、俺にもある。
彼女の真意を知らなかったとはいえ、俺は完全に関係を断ち切ろうとした。玲奈からすれば、最も大切な相手が、ある日突然、自分を存在しないものとして扱い始めたのだ。
あの経験が、彼女の中へ深い傷を残している。
ならば俺がすべきことは、感情の重さだけを否定することではない。
「玲奈」
「はい。お茶でしょうか?」
「違う。少し話したい」
俺の声が真剣だったからか、玲奈の笑みが僅かに固まった。
さきほどまで弁当箱を片づけていた手が止まり、膝の上で指先が重なる。ほんの数秒の間に、その表情から血の気が引いていった。
「……私、何かしてしまいましたか?」
「そうじゃない」
「お弁当が迷惑でしたか? 毎日教室へ行くのも、先輩のお時間を奪っていましたか?」
玲奈は俺が答えるより早く、次々と自分の行動を否定し始めた。
「明日から控えます。お弁当も、先輩が必要な日だけにします。休み時間も来ません。ですから――」
「玲奈、落ち着け」
強くはないが、はっきりとした声で言葉を遮る。
玲奈は息を呑み、怯えたように俺を見た。
「俺は迷惑だとは言ってない」
「でも、話があると言われると……また、離れられるのではないかと」
弱々しく零された言葉に、胸が痛んだ。
俺が少し真剣な顔をしただけで、彼女は関係の終わりを想像する。その恐怖は、口先で安心させるだけでは消えないのだろう。
「俺はもう、何も言わずに玲奈から離れたりしない」
「……本当ですか?」
「本当だ。前にも言っただろ。分からないことがあれば、ちゃんと話すって」
玲奈はすぐには頷かなかった。
約束を信じたい一方で、一度失った経験が、そのまま受け入れることを許さないらしい。
俺は彼女の隣へ座り直し、逃げ道を塞ぐのではなく、同じ方向を向くように距離を縮めた。
「最近の玲奈が、俺を大切にしようとしてくれていることは分かってる。弁当も嬉しいし、会いに来てくれるのも嫌じゃない」
「では、何がいけないのでしょうか」
「何もかも俺を基準にしようとしているところだ」
玲奈の瞳が揺れた。
「俺が喜ぶなら寝なくてもいい。俺に嫌われないなら、自分の希望は我慢する。俺の役に立てない自分には価値がない。今の玲奈は、そう考えてるように見える」
「それは……」
「違うか?」
玲奈は反論しようとして、口を閉じた。
図星だったのだろう。
「私は、先輩に必要とされたいんです」
「それは分かる」
「先輩のために何かをしている間だけは、ここにいてもいいと思えるんです。何もしなければ、また私より大切な人ができて、今度こそ本当に置いていかれるような気がして……」
玲奈の声は静かだった。
泣いてはいない。
けれど、涙よりも深い不安が言葉の隙間から滲み出ていた。
「だから、先輩が望む後輩でいたいんです。優しくて、役に立って、絶対に先輩を傷つけない後輩なら、捨てられずに済むと思うから」
俺は黙って彼女の言葉を受け止めた。
そこで「そんなことを考えるな」と否定するのは簡単だ。しかし、玲奈が抱えている恐怖は理屈だけで生まれたものではない。
だから、綺麗な言葉で上書きするのではなく、俺自身の意思を伝える必要があった。
「俺が玲奈を大切に思うのは、役に立つからじゃない」
「……では、どうしてですか?」
「玲奈だからだ」
玲奈が息を止めた。
「わがままを言う玲奈も、失敗する玲奈も、嫉妬する玲奈も知ってる。その全部を見たうえで、俺は放っておけないと思ってる」
「でも、私は先輩を傷つけました」
「傷ついた。でも、玲奈が反省していることも分かってる。失敗したからって、その人間の価値までなくなるわけじゃない」
俺は玲奈の手を取った。
以前なら、彼女の方から強く握り締めてきた。しかし今回は、俺から指先を重ねる。
「玲奈の気持ちが重いことは否定しない」
「……やはり、重いですか」
「重い。でも、それ自体を嫌だとは思ってない」
驚いたように、玲奈が俺を見上げる。
「ただ、その重さで玲奈自身が潰れるのは違う。俺を好きでいてくれるなら、俺のために自分を壊すな」
「先輩……」
「俺は、玲奈が俺以外のことでも笑っていられるようになってほしい。友達と過ごす時間も、委員会も、自分の好きなことも大事にしてほしい。そのうえで俺の隣にいてくれた方が、俺は嬉しい」
それは俺なりの答えだった。
玲奈の激しい感情を軽く扱わず、同時に依存だけを愛情として受け入れない。彼女が自分の足で立ちながら、それでも俺を選んでくれる関係を作りたい。
玲奈はしばらく俯いていた。
やがて、俺の手を両手で包み込み、額をそっと重ねる。
「先輩は、ずるいです」
「何がだ」
「そんなふうに言われたら、もっと好きになってしまいます」
「それは困るのか?」
「いいえ。嬉しくて、苦しいです」
玲奈は目を閉じたまま、震える声で続けた。
「私の重い気持ちを、捨てずに受け止めてくださった人は、先輩が初めてです」
「全部そのまま受け止めるとは言ってない。危ないことをしたら止めるぞ」
「それでも構いません。止めてくださるのも、私を見てくれている証拠ですから」
玲奈は顔を上げると、涙を浮かべながらも穏やかに笑った。
その笑顔は、学校中へ向ける完璧なものではない。不安も喜びも、俺への強すぎる愛情も隠していない、本当の玲奈の表情だった。
「先輩。私、少しずつ変わります」
「ああ」
「でも、先輩を世界で一番愛することだけは、変えられません」
「そこまで断言されると、さすがに照れるな」
「では、毎日お伝えして慣れていただきます」
「加減を覚える話はどこへ行った」
玲奈が小さく笑う。
ようやく空気が和らいだ、そのときだった。
「感動したわ!」
突然、背後の植え込みが大きく揺れた。
次の瞬間、葉を頭につけた千堂が両手を叩きながら立ち上がる。
「男女のすれ違いを乗り越える、愛と再生の物語! 映画化したら私が神楽坂役をやるわ!」
「どうしてそこにいるんだ!」
「取材よ!」
「ただの盗み聞きだろ!」
玲奈は俺の手を握ったまま、千堂へ氷のような視線を向けた。
「千堂さん。いつから聞いていたんですか?」
「『先輩、今日のお弁当はいかがでしたか』の辺りから」
「最初からじゃないですか」
「安心して。途中で三回くらい泣いたから、内容は半分しか覚えてないわ」
「感受性だけは豊かなんだな……」
千堂は植え込みから出ると、スカートについた葉を払いながら俺を見つめた。
いつものふざけた笑みを浮かべている。
けれど、その瞳の奥には、先ほどの会話を聞く前にはなかった熱が宿っていた。
「守若先輩」
「何だ」
「あなた、思っていたよりずっと格好いいわね」
冗談めかした口調ではなかった。
それに気づいた玲奈の指が、俺の手へ静かに絡みつく。
「千堂さん」
「何よ」
「後戻りできなくなると、忠告しましたよね?」
「ええ」
千堂は臆するどころか、楽しそうに笑った。
「だから困ってるのよ。もう少し、戻りたくなくなってきたから」
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