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第8話 攻略対象にされた俺と、笑顔で牽制する後輩

 千堂千鶴が俺を攻略すると宣言した翌日から、校内の空気は目に見えて騒がしくなった。


 原因はもちろん、本人に隠れる意思がまるでないことだ。


 通常であれば、誰かへ好意を抱いたとしても、まずは相手の趣味や交友関係をさりげなく調べ、少しずつ距離を縮めていくものだろう。少なくとも、朝の昇降口で大勢の生徒が見守る中、「今日からあなたを攻略する」と指を突きつける人間は滅多にいない。


 千堂にとっては、それすら一種の宣戦布告だったらしい。


 彼女は自分の行動が噂になっていることを恥じるどころか、むしろ話題性まで利用して玲奈へ圧力をかけようとしていた。


「先輩、おはようございます」


 いつもの待ち合わせ場所で、玲奈は俺の姿を見つけるなり柔らかな笑みを浮かべた。


 以前の冷たさは完全に消え、今では挨拶を交わせるだけでも心から嬉しそうにしている。俺が返事をすれば、わずかに頬を緩め、そこから体調や睡眠時間を確認するところまでが最近の習慣になっていた。


「おはよう。今日は随分と荷物が多いな」


「先輩のお弁当と、水筒と、念のためのお菓子です」


「念のためって何のためだ」


「千堂さんが先輩を餌付けしようとした場合に備えています」


「人を野良猫みたいに言うな」


 玲奈は真剣だった。


 肩に掛けた鞄とは別に、布製の大きな手提げ袋まで持っている。中には二段重ねの弁当箱だけでなく、飲み物や菓子類まで詰め込まれているらしく、明らかに普段の登校には不釣り合いな量だった。


「全部、玲奈が作ったのか?」


「はい。先輩のお口に合うように、昨夜から何度も味見しました」


「ちゃんと寝たのか」


「三時間ほど」


「帰ったら寝ろ」


 俺が即座に言うと、玲奈は僅かに目を見開いたあと、どこか幸福そうに俯いた。


「先輩は、やはり優しいですね」


「優しいんじゃなくて、普通に心配してる」


「それが嬉しいんです」


 玲奈は以前、自分の感情を察してもらうために、わざと冷たい態度を取っていた。


 そのときの俺は、彼女の言葉だけを受け止め、本心を読み取ろうとすることを途中で諦めてしまった。もちろん、あれほど強い拒絶を受ければ傷つくのは当然だ。それでも、今の玲奈が些細な気遣いにさえ喜びを感じている姿を見ると、俺も彼女の不安を放置していたのだと理解できる。


 だから今は、曖昧に笑って済ませない。


 心配なら心配だと言い、嬉しいなら嬉しいと伝える。玲奈の重い感情を無条件に受け入れるのではなく、その奥にある恐怖や寂しさまで見落とさないようにする。


 それが俺なりの、彼女へ寄り添う方法だった。


「ただし、毎日三時間睡眠で弁当を作るのは禁止だ」


「では、四時間に増やします」


「最低でも六時間だ」


「先輩がそこまで私の身体を案じてくださるなら、従います」


「従うって言い方はやめろ」


「では、愛する先輩との約束として守ります」


「さらに重くなったな……」


 そんな会話をしながら校門へ近づいたところで、目の前に不自然な人だかりが見えた。


 その中心には、小さな長机が置かれていた。


 机の上には色鮮やかな焼き菓子が並べられ、手書きの看板には大きく『守若秀・攻略作戦第一弾 胃袋を制する者は恋を制す』と書かれている。


 そして、その隣には白いエプロンを制服の上から身につけた千堂が、腕を組んで堂々と立っていた。


「待っていたわ、守若秀!」


「朝から何をやってるんだ、お前は」


「見て分からない? 手作りクッキーよ」


「俺が聞いてるのは、どうして校門前で店みたいに広げてるのかってことだ」


「目立つ場所で渡した方が、神楽坂への精神的効果が高いからよ」


「目的を隠す気がないな」


 千堂の周囲に集まっていた生徒たちは、完全に見世物を楽しむ顔をしていた。


 彼女自身が華やかな容姿をしていることもあり、焼き菓子を並べて立っているだけなら学園祭の一幕にも見える。だが、看板に俺の名前が大きく書かれているせいで、逃げ道はどこにもなかった。


 玲奈は隣で穏やかに微笑んでいた。


 表面上は。


「千堂さん」


「何よ」


「校門前での無許可販売は禁止されていますよ」


「販売じゃないわ。守若先輩へ無料で渡すだけ」


「では、その長机と看板は何ですか?」


「演出」


「今すぐ撤去してください」


 玲奈の声は柔らかい。


 しかし、その背後に漂う圧力は、周囲の生徒が無意識に一歩下がるほど強かった。


「嫌よ。昨日一晩かけて作ったんだから」


「先輩は受け取りません」


「どうしてあんたが決めるの?」


「先輩の朝食、昼食、おやつはすべて私が用意しています」


「食生活を支配する気?」


「健康管理です」


「言い換えれば許されると思わないで!」


 二人の間に見えない火花が散る。


 千堂は玲奈へ対抗するために俺へ近づいている。そこに本気の好意はまだないのだろうが、玲奈にとっては理由など関係ないらしい。


 誰であろうと、俺の隣を奪おうとする人間は警戒する。


 それが今の玲奈だった。


「守若先輩」


 千堂は玲奈を無視するように俺へクッキーの包みを差し出した。


「食べて。味には自信があるわ」


「毒など入っていませんよね」


「入れるわけないでしょ!」


「先輩を攻略すると公言した人の手作りです。警戒するのは当然です」


「神楽坂、あんた私を何だと思ってるのよ!」


「先輩に近づく危険人物です」


 このままでは朝から騒ぎが大きくなる一方だ。


 俺は千堂からクッキーを受け取り、玲奈が制止するより早く一枚口へ入れた。


 玲奈の顔から血の気が引く。


「先輩!?」


「大丈夫だ。普通にうまい」


 バターの香りが強く、甘さも控えめで食べやすい。外見だけの派手さではなく、きちんと試作したことが伝わる味だった。


 千堂は一瞬だけ驚いたあと、勝ち誇るように胸を張った。


「当然よ! 私が作ったんだから!」


「ただ、昨日宣言したばかりの相手のために、一晩かけて作るのはやりすぎだ」


「攻略には全力を尽くす主義なの」


「なら、まず相手が困る方法をやめろ」


 俺が看板を指さすと、千堂の笑みが僅かに固まった。


「俺は玲奈との関係を見世物にしたいわけじゃない。お前が玲奈と張り合うのは勝手だけど、そのために俺を道具として使うなら付き合わない」


 周囲のざわめきが静まった。


 千堂は破天荒で、自信家で、多少強引だ。


 しかし、悪意だけで行動しているわけではないことも分かっていた。だからこそ、曖昧に流すのではなく、越えてほしくない線は最初に示しておく必要がある。


「クッキーを作ってくれたこと自体は嬉しい。ありがとう」


「……怒ってるのに、お礼は言うのね」


「怒ってる部分と感謝する部分は別だろ」


 千堂はしばらく黙って俺を見つめた。


 昨日と同じ、何かを測るような眼差しだった。けれど今度は、その瞳の奥に、わずかな戸惑いが混じっている。


「普通、私みたいな美少女に手作りを渡されたら、もっと浮かれるものじゃない?」


「顔が可愛いかどうかで、迷惑なことまで許すつもりはない」


「……本当に、変な人」


 千堂は小さく呟いた。


 その頬がほんの少し赤くなったように見えたが、俺は見間違いだと判断した。宣戦布告の翌日に恋へ落ちるほど単純な人間ではないだろう。


 ただ、隣にいる玲奈は見逃さなかったらしい。


 俺の腕へ抱きつく力が一段と強くなる。


「先輩」


「何だ」


「今の言葉、とても格好よかったです」


「大袈裟だ」


「いいえ。ですが、千堂さんのクッキーを食べたことだけは少し悲しいです」


「毒味みたいなものだ」


「では、残りは私が処分します」


「食べるなら食べるって言え」


 玲奈は千堂の机からクッキーの袋を取り上げ、俺の手が再び届かないよう自分の鞄へしまった。


「ちょっと! それは守若先輩に作ったのよ!」


「先輩の安全を守るのも後輩の役目です」


「ただの嫉妬でしょ!」


「はい。それが何か?」


 あまりにも堂々と認めたため、千堂の方が言葉を失う。


 玲奈は俺の腕へ頬を寄せ、千堂へ清楚な微笑みを向けた。


「私は先輩を愛しています。ですから、他の女性から贈られたものを嬉しく思うはずがありません」


「朝から言葉が重いな」


「まだ軽い方です」


「基準が怖い」


 周囲から笑い声が上がる中、千堂は悔しそうに唇を噛んでいた。


 しかし、その視線は玲奈ではなく、俺へ向けられている。


 拒絶されても怒鳴らず、努力した部分には礼を言い、嫌なことには明確に線を引く。


 俺にとっては当たり前の対応だった。


 だが千堂にとっては、自分の容姿や勢いに流されず、正面から向き合ってくる相手が珍しかったのかもしれない。


「守若先輩」


「何だ」


「今日のところは引いてあげる」


 千堂は長机を畳みながら、不敵な笑みを浮かべた。


「でも、今ので余計に興味が湧いたわ。神楽坂への対抗心だけじゃなく、あなた自身をちゃんと調べたくなった」


「勝手に監視するのはやめろよ」


「監視じゃないわ。恋の事前調査よ」


「言い換えても駄目だ」


 俺が呆れて息を吐く一方で、玲奈の笑みから温度が消えた。


 俺の腕を抱いたまま、千堂へ向ける瞳だけが静かに細められる。


「千堂さん」


「何?」


「先輩へ本気になるのは、おすすめしません」


「どうして?」


「後戻りできなくなるからです」


 玲奈の声には、冗談の気配が一切なかった。


「先輩の優しさを知って、先輩に大切にされる幸福を知ってしまえば、もう他の誰かでは満足できなくなります」


 それは牽制であると同時に、自分自身の告白でもあった。


 玲奈は一度俺を失い、その痛みに耐えられず泣き崩れた。だからこそ、俺へ惹かれていくことがどれほど深く、逃げ場のない感情へ変わるのかを知っている。


 千堂はその言葉を笑い飛ばさなかった。


 むしろ挑戦を受けたように、唇の端を持ち上げる。


「だったら、確かめてみるわ」


 そう告げた彼女の瞳には、昨日までの軽い好奇心とは違う熱が宿り始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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