第6話 今度は、私が先輩を大切にします
翌朝、いつもの待ち合わせ場所へ向かう俺の足取りは、決して軽いものではなかった。
昨夜、玲奈へ送ったメッセージには最後まで返信がなかった。既読だけはついていたため、少なくとも文章そのものは読まれている。しかし、返事ができないほど傷つけてしまったのか、あるいは俺と顔を合わせること自体を怖がっているのかまでは分からず、考えれば考えるほど胸の奥に鈍い痛みが広がった。
玲奈に冷たくされたことで、俺が傷ついたのは事実だ。
だから距離を置いた判断まで間違いだったとは思わない。あのまま理由も分からず拒絶され続けていれば、俺の心はいずれ完全に擦り切れていただろうし、玲奈に対して取り返しのつかない感情を抱いていた可能性もある。
けれど、玲奈の本心を知った今、俺だけが被害者のような顔をすることもできなかった。
彼女は不器用な方法で愛情を求め、俺は彼女の言葉だけを受け取って本音を見ようとしなくなった。その結果として赤の他人を演じた俺の行動は、玲奈に自分が完全に見捨てられたと思わせてしまった。
俺たちは互いに傷つけ合った。
ならば、関係を修復するためには、どちらか一方が許されるのを待つのではなく、二人で向き合う必要がある。
そう考えながら住宅街の角を曲がると、待ち合わせ場所である小さな公園の前に、一人の少女が立っていた。
玲奈だった。
まだ約束の時間より二十分近く早い。いつから待っていたのか、朝の冷たい空気に頬を赤くしながら、両手で鞄の持ち手を握っている。俺の姿を見つけた瞬間、その表情に安堵が浮かんだものの、すぐに何かを恐れるように俯いた。
「……おはよう、玲奈」
昨日約束したとおり、俺から挨拶をする。
「おはようございます、先輩」
返ってきた声は震えていた。
それでも無視されなかったことが嬉しかったのか、玲奈はほんの僅かに口元を緩める。しかし、以前のような華やかな笑顔には程遠く、壊れかけたものを必死に繋ぎ止めているような危うさが残っていた。
「昨日は返信できなくて、ごめんなさい」
「気にしなくていい。俺も、返事を急がせるつもりで送ったわけじゃないから」
「違うんです。嬉しすぎて……どう返せば、先輩に嫌われないのか分からなくなってしまって」
玲奈は鞄からスマートフォンを取り出し、画面を俺へ見せた。
メッセージの入力欄には長い文章が残されていた。
謝罪から始まり、待っていてくれることへの感謝、もう二度と冷たい態度を取らないという誓い、朝になったら必ず会いに行くという決意。それらがまとまりなく並び、何度も文章を書き直した痕跡が窺える。
「こんなに書いたのか」
「最初は一言だけ返そうとしたんです。でも、それだと冷たく見えるかもしれないと思って……長く書いたら、今度は重いと思われるかもしれなくて……」
玲奈の声が次第に小さくなっていく。
「結局、何も送れませんでした」
以前なら、そんなことで悩む少女ではなかった。
少なくとも、俺の前では自分の感情を遠慮なくぶつけてきた。冷たい態度も、そっけない言葉も、俺が離れないという確信があったからこそ選べたものだったのだろう。
だが今の玲奈は、たった一つの返信さえ、俺に嫌われるかどうかを基準に考えている。
それは反省というより、恐怖に近かった。
「玲奈」
俺は彼女のスマートフォンを握る手へ、そっと触れた。
肩が僅かに震えたものの、玲奈は逃げなかった。むしろ、その温度を確かめるように指先を寄せてくる。
「俺は、玲奈が何を言っても全部嫌うわけじゃない。短い返信でも、長い文章でも、玲奈が本当に伝えたい言葉なら受け取る」
「……でも、私は先輩にひどいことをしました」
「そうだな。正直に言えば、簡単に忘れられることじゃない」
玲奈の顔が曇った。
ここで優しい嘘を吐けば、一時的に安心させることはできる。しかし、傷ついていないふりをして関係を戻せば、いつか必ず歪みが生じる。
俺は彼女の瞳から目を逸らさなかった。
「だから、これから玲奈がどう接してくれるのかを見たい。俺も、分からないことを勝手に決めつけず、ちゃんと玲奈に聞くようにする」
「私を……まだ見てくれるんですか?」
「見ていなかったら、ここには来てない」
その瞬間、玲奈の瞳に涙が浮かんだ。
ただし、昨日のように崩れ落ちることはなかった。唇を強く結び、感情を飲み込みながら、何度も小さく頷く。
「分かりました」
玲奈はスマートフォンを鞄へ戻すと、俺の正面へ立った。
そして、深く頭を下げた。
「先輩。今まで、本当にごめんなさい」
通学途中の生徒たちがこちらを見ていた。
学校一の清純派アイドルが、目立たない男子生徒へ深々と頭を下げているのだ。周囲が驚くのも当然だったが、玲奈は一切気にする様子を見せない。
「私は、先輩の優しさに甘えていました。先輩なら絶対に離れないと思って、何を言っても許してもらえると勘違いしていました」
玲奈の声は、朝の空気の中へはっきりと響いた。
「これからは、先輩を試すようなことは絶対にしません。冷たい態度で愛情を確かめたり、自分の気持ちを察してもらおうとしたりもしません」
顔を上げた玲奈の瞳には、迷いのない光が宿っている。
「今度は、私が先輩を大切にします」
「そこまで気負わなくてもいい。俺たちは、もっと普通に――」
「普通では足りません」
予想外の強い言葉に、俺は口を閉じた。
玲奈は俺の右手を両手で包み込み、まるで失くしかけた宝物を扱うように胸元へ引き寄せる。
「先輩が私にしてくれたことを、私はずっと当たり前だと思っていました。でも、先輩がいなくなって初めて分かったんです。朝に挨拶してもらえることも、廊下で見つけてもらえることも、委員会が終わるまで待っていてくれることも、全部、当たり前なんかじゃなかった」
「玲奈、周りが見てるぞ」
「見せているんです」
玲奈は即答した。
その顔には、昨日までの怯えとは異なる、決意に似たものが浮かんでいる。
「私は先輩を迷惑だと言いました。しかも、他の人たちが見ている前で。だったら今度は、私が先輩を大切にしていることも、誰に見られても構いません」
なるほど。
単なる罪悪感だけではないらしい。
玲奈は自分が俺を傷つけた場所で、今度は自分から関係を築き直そうとしている。方法はやや極端だが、彼女なりに逃げずに向き合おうとしているのだろう。
もっとも、俺の手を胸元で抱き締めたまま離そうとしないあたり、反省によって遠慮深くなったというより、今まで抑えていた愛情の向きが反転しただけのようにも見える。
「先輩、今日は私が鞄を持ちます」
「いや、必要ない」
「では、朝食は食べましたか? 飲み物はありますか? 今日の授業で必要なものは全部入っていますか? 体調は悪くありませんか?」
「一度に聞きすぎだ」
「先輩に不足しているものがあるなら、すべて私が用意します」
玲奈の目は本気だった。
以前は俺が彼女を気にかけていた。今度はその役割を、何倍にもして返そうとしているらしい。
「気持ちは嬉しいけど、そこまでされると俺が何もできない人間みたいだろ」
「先輩が何もできないなんて思っていません」
玲奈は柔らかく微笑んだ。
「先輩が何でもできる人だからこそ、私がしてあげられることを一つでも増やしたいんです」
その言葉に嘘はない。
過剰ではあるが、俺を下に見て世話を焼こうとしているわけではなく、純粋に尽くしたいと思っているのだ。
俺は玲奈の好意に気づかないほど鈍くはない。
ここまで言動へ表れていれば、彼女が俺を単なる先輩として見ていないことくらい分かる。だが、傷つけた罪悪感と恋愛感情が混ざっている今、安易に告白の答えを求めるべきではないとも思っていた。
「玲奈」
「はい」
「俺に優しくしてくれるのは嬉しい。でも、自分を削ってまで尽くそうとするな。俺は玲奈に従順な後輩になってほしいわけじゃない」
玲奈は僅かに目を見開いた。
「不満があるなら言っていい。わがままだって、全部が悪いわけじゃない。ただ、傷つける言葉で試すのはやめよう。俺も同じことをしない」
「……先輩は、私を見捨てないために、そこまで考えてくれるんですね」
「見捨てないためというより、同じ失敗をしないためだ」
「それでも、嬉しいです」
玲奈は俺の手を包んでいた指先へ、さらに力を込めた。
その微笑みは学校中へ向ける清純派アイドルの笑顔よりも、ずっと甘く、深い熱を帯びていた。
「先輩が私を大切にしてくれる限り、私はその何倍でも先輩を大切にします」
「何倍にする必要はないんだけどな」
「あります。私の先輩ですから」
所有権を主張するような言葉に、周囲のざわめきが大きくなる。
玲奈はそれすら気にせず、俺の隣へぴたりと身体を寄せた。
「行きましょう、先輩。今日は絶対に、先輩から一歩も離れません」
「教室が違うだろ」
「では、教室の前までお送りします」
「俺が先輩なんだけどな……」
昨日まで俺に捨てられることを恐れ、触れることさえ躊躇していた後輩は、もうそこにはいなかった。
代わりに現れたのは、これまで抑え込んでいた感情を隠すことなく、俺だけへ注ごうとする玲奈だった。
冷たさを捨てた彼女の愛情が、これほどまでに重いものだったとは知らなかった。
そしてこのときの俺は、まだ気づいていなかった。
校舎二階の窓から、そんな俺たちを面白くなさそうに見下ろしている、一人の少女の存在に。
「……神楽坂玲奈が、男子にあんな顔するんだ」
少女――千堂千鶴は、退屈を吹き飛ばす玩具を見つけたように唇を吊り上げていた。
「学校一の座を奪う前に、ちょっと調べてみようかな。あの冴えない先輩のこと」
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