第5話 優しくされるほど、怖くなる
玲奈が泣き止むまでには、思っていたよりも長い時間がかかった。
階段の踊り場で人目を避けるように座り込み、俺の制服の袖を両手で掴んだまま、何度も声を殺して涙を零していた。少しでも身体を動かせば置いていかれると思っているのか、その指先には痛いほどの力が込められている。
すぐに以前の関係へ戻ることはできない。
俺がそう告げた意味を、玲奈は正しく理解しているのだろう。だからこそ、泣きながら謝ることしかできず、俺へ抱きつくような真似もしなければ、許してほしいと無理に迫ることもなかった。
ただ、離れないでほしいと願っていた。
それだけで、彼女がどれほど追い詰められていたのかは十分に伝わってきた。
「……少し落ち着いたか?」
「はい……ごめんなさい」
ようやく返ってきた声は、普段の玲奈からは想像できないほど弱々しかった。学校一の清純派アイドルと呼ばれ、誰の前でも隙のない笑顔を浮かべる少女の面影は、今はどこにもない。
泣き腫らした目元を隠すように俯きながらも、玲奈は俺の袖だけは決して放そうとしなかった。
「謝るのはもういい。今日は送っていくから、帰ろう」
「……本当に、一緒に帰ってくれるんですか?」
「このまま一人で帰せるわけないだろ」
そう答えると、玲奈は一瞬だけ安心したように目を細めた。しかし、その表情はすぐに曇り、握っていた袖を恐る恐る放した。
俺が命じたわけでもない。
それでも玲奈は、自分が俺へ触れることすら迷惑なのではないかと考えたらしい。胸元へ引き寄せた両手を強く握り合わせ、申し訳なさそうに距離を取る。
その姿を見て、胸の奥に苦いものが広がった。
以前の玲奈なら、帰ると決まった瞬間に俺の隣を当然のように歩いていた。委員会の仕事で疲れた日は、鞄が重いと遠回しに訴え、俺が仕方なく持つまで何度も視線を送ってきた。
そんな小さなわがままさえ、今の玲奈には許されないものになっている。
俺が傷ついたように、玲奈もまた、自分自身の言葉によって深く傷ついていた。
昇降口へ向かう途中、何人かの生徒とすれ違った。
玲奈は反射的にいつもの笑顔を作ろうとしたものの、赤く腫れた目元までは隠せない。声をかけようとした生徒たちも、俺と並んで歩く彼女の異様な様子に気づき、戸惑ったように道を譲った。
校内の視線が俺たちへ集中している。
学校一の清純派アイドルが泣いたあとで、普段目立たない先輩の隣を俯きながら歩いているのだ。噂にならないはずがなかった。
けれど、今は周囲の反応を気にしている場合ではない。
「玲奈、顔を上げなくていいのか」
「……上げたら、先輩がいなくなりそうで怖いです」
「俺は隣にいるだろ」
「今は、です」
その答えに、俺は言葉を失った。
玲奈は俺の隣を歩いている。それでも彼女の中では、俺がいつ再び赤の他人へ戻るのか分からないのだろう。
階段で差し伸べた手は、一時的な同情にすぎない。
泣いていたから見捨てられなかっただけで、明日になればまた視線すら向けてもらえなくなる。
玲奈は、そう思っているらしい。
校門を出ても、彼女はほとんど言葉を発しなかった。
これまでは玲奈の方から学校で起きた出来事を楽しそうに話し、俺が適当に相槌を打てば、不満そうに頬を膨らませていた。けれど今日は、俺の半歩後ろを歩きながら、靴音を重ねるだけだった。
「隣を歩けばいいだろ」
「……いいんですか?」
「送っているのに、そんなに離れて歩かれたら話しづらい」
玲奈はおそるおそる距離を詰めた。
それでも肩が触れない程度の間隔を保ち、俺の表情を窺うように何度も横目を向けてくる。そこに以前の気安さはなく、怒られないために正解を探しているような危うさがあった。
「先輩」
「どうした」
「明日も……挨拶してくれますか?」
あまりにも小さな願いだった。
以前は毎日のように交わしていた、たった一言の挨拶。それすら今の玲奈にとっては、許しを得なければ望めないものになっている。
「するよ」
「廊下ですれ違ったときも、無視しませんか?」
「しない」
「委員会の仕事が遅くなったら……待っていてほしいって言っても、いいですか?」
俺はすぐには答えられなかった。
以前のように何でも受け入れることが、本当に玲奈のためになるとは思えない。俺が無理をして優しくし続ければ、また互いに本音を伝えられない関係へ戻ってしまう。
その僅かな沈黙だけで、玲奈の顔から血の気が引いた。
「ご、ごめんなさい……今のは忘れてください。もう先輩に迷惑はかけません。委員会が何時に終わっても、一人で帰れますから」
「そういう意味じゃない」
「大丈夫です。私、本当に大丈夫なので……」
笑おうとした玲奈の唇が震えていた。
拒絶されるより先に、自分から諦めようとしている。何も望まなければ、嫌われることもないと考えているのだ。
俺は足を止めた。
玲奈も少し遅れて立ち止まり、怯えた目でこちらを見上げる。
「玲奈、俺の顔を見ろ」
「……はい」
「俺は、もう冷たくするなと言いたいわけじゃない。俺に嫌われないために、何も言わない後輩になれと言ってるわけでもない」
玲奈の瞳が僅かに揺れる。
「待っていてほしいなら、そう言えばいい。寂しいなら寂しいと言ってくれ。俺も無理なときは無理だと言う。これからは、勝手に相手の気持ちを決めつけるのをやめよう」
「でも、私には……お願いする資格なんて」
「資格で話してるんじゃない」
少し強い口調になっただけで、玲奈の肩が跳ねた。
その反応に胸が痛み、俺は意識して声を柔らかくする。
「玲奈がしたことを、なかったことにはできない。俺もまだ完全に傷が消えたわけじゃない」
「……はい」
「でも、それと玲奈の全部を嫌いになることは別だ」
俺がそう告げると、玲奈は俯いた。
長い睫毛の先に涙が溜まり、やがて一滴だけ頬を伝う。
「優しくしないでください……」
予想外の言葉だった。
「先輩に優しくされると、また期待してしまいます。もしかしたら、前みたいに戻れるんじゃないかって……先輩がまだ私を大切に思ってくれているんじゃないかって」
「思ってるよ」
玲奈が顔を上げた。
「大切じゃなかったら、あんなに傷ついてない」
「……それは、後輩としてですか?」
問われて、言葉に詰まった。
玲奈が何を求めているのかは分かっている。
けれど、泣いている彼女を安心させるためだけに、曖昧な感情を恋だと言い切ることはできなかった。それは優しさではなく、再び玲奈を傷つけるだけの無責任な慰めになる。
俺の沈黙を、玲奈は拒絶として受け取ったらしい。
「そう、ですよね……」
弱々しく笑い、涙を拭う。
「ごめんなさい。先輩が手を差し伸べてくれただけで十分なのに、また欲張りました」
「玲奈」
「大丈夫です。今度こそ、ちゃんと分かっていますから」
その言葉とは反対に、玲奈の顔は絶望に沈んでいた。
俺が戻ってきたと思った直後に、自分はかわいい後輩としてしか見られていないと突きつけられた。おそらく今の彼女には、そう感じられているのだろう。
違うと否定したかった。
けれど、まだ自分の感情に答えを出せていない俺には、何も断言することができない。
結局、その日は玲奈の家の前まで、ほとんど言葉を交わさずに歩いた。
「送ってくださって、ありがとうございました」
玄関の前で玲奈は深く頭を下げた。
以前なら、名残惜しそうに何度も振り返っていたはずなのに、その日は俺の返事を待つこともなく、扉の向こうへ消えていった。
一人になった帰り道で、俺は何度も自分の答えを考えた。
玲奈を放っておけない。
玲奈が他の誰かと親しくなれば、きっと平静ではいられない。
泣いている顔を見るだけで胸が苦しくなり、笑っていてほしいと願ってしまう。
それが後輩への情だけなのか、それとも別の名前を持つ感情なのか。
すぐに答えは出なかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
ようやく玲奈へ手を差し伸べたというのに、俺はまた言葉を選び損ねた。
その夜、玲奈からのメッセージは届かなかった。
以前なら眠る前に必ず送られてきた、短い挨拶さえも。
暗い画面を見つめながら、俺は初めて、自分から彼女へ文章を打ち込んだ。
『明日の朝、いつもの場所で待ってる』
送信してから数分後、既読がついた。
けれど、返事はいつまで経っても返ってこなかった。
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