第4話 赤の他人ではいられなかった
神楽坂玲奈を赤の他人として扱うようになってから、俺の日常は驚くほど静かになった。
朝、昇降口で彼女の姿を探す必要はない。廊下ですれ違っても足を緩めることはなく、昼休みに購買へ向かう途中で玲奈の好きなパンを見つけても、手に取る理由はもうなかった。放課後になれば、委員会の仕事を終える時間を気にせず、自分の都合だけで帰宅できる。
以前よりもずっと楽になったはずだった。
誰かの顔色を窺う必要もなければ、冷たい言葉に傷つくこともない。相手が嫌がっているかもしれないと悩みながら、それでも関係を繋ぎ止めようとする苦しさからも解放された。
それなのに、胸の奥に残る空白だけは、日を追うごとに広がっていった。
玲奈はもう俺の後輩ではない。
そう言い聞かせるたび、入学したばかりの彼女が校舎で迷っていた姿や、委員会の仕事を終えたあとに安心したような顔で俺のもとへ駆け寄ってきた記憶が蘇る。忘れようと意識するほど、それらは鮮明になり、俺がどれほど彼女との時間を大切にしていたのかを突きつけてきた。
けれど、今さら戻ることはできない。
俺が再び声をかければ、玲奈を困らせるだけだ。あの日の拒絶を都合よく忘れ、また親しい顔をして近づくような真似だけはしたくなかった。
だから俺は、今日も他人を演じた。
昼休み、廊下の向こうに玲奈の姿を見つけても視線を逸らし、友人との会話に意識を向ける。以前より少し痩せたように見えたことも、笑顔の奥に疲れが滲んでいたことも、気づかなかったことにした。
周囲には相変わらず人が集まっている。
学校一の清純派アイドルである玲奈が孤立することなどない。俺がいなくても、彼女には気遣ってくれる友人も、好意を向ける男子生徒も大勢いる。
そう考えれば、俺が心配する理由など一つもなかった。
放課後、俺は担任から頼まれた教材を職員室へ運び、その帰りに人気のない渡り廊下を歩いていた。窓の外では、沈みかけた夕日が校舎の壁を赤く染め、運動部の掛け声が遠く響いている。
そのとき、階段の踊り場から小さな声が聞こえた。
最初は誰かが電話でもしているのだと思った。けれど、近づくにつれて、それが会話ではなく、押し殺した嗚咽であることに気づいた。
見て見ぬふりをするべきだった。
相手が誰であろうと、泣いているところを他人に見られたくないこともある。ましてや今の俺は、人の事情へ不用意に踏み込むことの愚かさを知っている。
そう思いながら階段を通り過ぎようとした瞬間、視界の端に艶やかな黒髪が映った。
足が止まる。
踊り場の隅で、玲奈がうずくまっていた。
壁へ背中を預け、両膝を抱えるようにして座り込み、顔を伏せている。普段の彼女からは想像もできないほど小さく身体を縮め、肩を震わせていた。
学校では誰にでも笑顔を向け、弱いところなど決して見せない玲奈が、人気のない場所で一人きりになり、声を殺して泣いている。
胸の奥が強く締めつけられた。
それでも俺は、すぐに駆け寄ることができなかった。
俺には関係がない。
玲奈が泣いている理由を聞く権利もなければ、慰める立場でもない。ここで声をかければ、また迷惑だと言われるかもしれない。それどころか、弱っているところへ付け込んだと受け取られる可能性すらある。
俺は拳を握り締め、視線を逸らした。
このまま立ち去るべきだ。
それが玲奈の望んだ距離であり、俺が決めた関係なのだから。
しかし、一歩を踏み出そうとしたところで、震える声が耳へ届いた。
「……先輩」
俺を呼んだのかどうかは分からなかった。
玲奈は顔を上げていない。誰かが近くにいることにも気づかず、ただ無意識に零しただけなのかもしれない。
「先輩……どこにいるんですか……」
その言葉に、胸の奥で張り詰めていたものが揺らいだ。
玲奈の指先は、膝の上で強く制服の布を掴んでいる。呼吸は乱れ、涙に濡れた声はひどく幼く聞こえた。
「私が悪いって、分かってるのに……」
小さな独白が、静かな階段に落ちる。
「迷惑なんて思ってなかった……本当は、ずっと構ってほしかったのに……」
俺は何も言えなかった。
あの日、俺へ向けられた言葉とは正反対の本音が、途切れ途切れに玲奈の唇から零れていく。
「先輩なら、離れないって……勝手に思ってた……何を言っても、また来てくれるって……」
玲奈は顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、階段の途中に立つ俺を捉える。
一瞬、時間が止まったように感じた。
玲奈の表情に浮かんだのは驚きではなく、ひどく怯えた色だった。見つけてもらえた喜びよりも、また拒絶されるかもしれないという恐怖の方が大きいらしい。
「……守若先輩」
掠れた声で名前を呼ばれた。
俺は反射的に近づきかけ、直前で足を止めた。
今の俺たちは他人だ。
そう決めたのは俺自身であり、その理由もまだ消えたわけではない。玲奈の本音を聞いたからといって、傷ついた記憶がなくなるわけではなかった。
「大丈夫か」
ようやく出た言葉は、ひどく他人行儀だった。
玲奈の顔が歪む。
「……その言い方、やめてください」
「何が」
「知らない人みたいに話すの……やめてください」
玲奈は立ち上がろうとしたが、長く座り込んでいたせいなのか、足元がふらついた。俺は咄嗟に腕を伸ばしかけ、けれど一瞬だけ躊躇する。
その僅かな間を、玲奈は見逃さなかった。
「やっぱり、もう……触るのも嫌なんですか」
「違う」
「じゃあ、どうしてそんな顔をするんですか……」
玲奈の瞳から新たな涙が溢れた。
「先輩、私のこと、本当に捨てたんですか……?」
その問いは、俺が想像していた以上に重かった。
俺は玲奈を捨てたつもりなどない。ただ、彼女が望んだとおりに離れただけだ。嫌われたまま近くにいるより、赤の他人になる方が玲奈のためだと思った。
けれど、目の前で泣き崩れそうになっている玲奈を見ていると、それが正しかったとは思えなくなった。
「捨ててない」
俺は短く答えた。
「でも、私を見てくれないじゃないですか……話しかけてもくれないし、待っていてもくれないし……私が困っていても、もう助けてくれない……」
「それは、玲奈が望んだことだろ」
「望んでません!」
玲奈の声が階段へ響いた。
直後、感情を抑えきれなくなったように、その場へ膝をつく。
「本当は、先輩にもっと見てほしかっただけなんです……他の人より、私を特別にしてほしかった……冷たくすれば、理由を聞いてくれると思って……それでも先輩なら、離れないって……」
言葉の最後は涙に溶け、玲奈は両手で顔を覆った。
「ごめんなさい……私が全部、間違えました……だから、他人にしないでください……もう冷たくしませんから……先輩を困らせませんから……」
その姿を前にして、他人を演じ続けることなどできなかった。
俺の中に残っていた痛みも、玲奈へ向けるべき怒りも、確かに消えてはいない。それでも、泣きながら助けを求める彼女を置いていくほど、俺は器用でも冷酷でもなかった。
俺は玲奈の前へしゃがみ込み、顔を覆っていた手をゆっくり外した。
「玲奈」
久しぶりに、他人ではなく後輩として名前を呼ぶ。
玲奈は濡れた目を大きく見開いた。
「今すぐ全部、元どおりにはできない」
俺は誤魔化さずに言った。
「あの日言われたことは、正直まだ痛い。俺が勝手に勘違いしていたんだと思ったし、もう近づかない方がいいって、本気で思った」
「……はい」
「でも、玲奈が泣いてるのを見ても無視できるほど、赤の他人にはなれなかった」
俺が差し出した手を、玲奈は呆然と見つめた。
「立てるか」
その瞬間、玲奈の表情が崩れた。
彼女は俺の手を取るのではなく、縋るように両手で強く握り締めた。指先は冷たく、僅かに震えている。
「先輩……」
「大丈夫。今度はちゃんと話そう」
「……離れませんか」
「話が終わるまでは離れない」
「そのあとも、離れないでください……」
ひどく弱々しい願いだった。
俺はすぐに答えられなかった。簡単に約束をすれば、また同じことを繰り返すかもしれない。互いに都合のいい解釈を重ね、肝心な本音を言葉にしなければ、いずれ再び傷つくことになる。
だから、俺は玲奈の手を握り返しながら、慎重に言葉を選んだ。
「玲奈が本当の気持ちを話してくれるなら、俺も勝手に離れたりしない」
玲奈は何度も頷いた。
涙はまだ止まっていなかったが、その表情には、ほんの僅かに安堵が戻っていた。
学校一の清純派アイドルではない。
不器用で、寂しがり屋で、好きな相手に素直になれず、自分の言葉で自分自身を追い詰めてしまった、俺のかわいい後輩。
その姿を前にして、俺はようやく認めた。
どれだけ他人になろうとしても、俺は最初から、玲奈を放っておくことなどできなかったのだ。
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