第3話 嫌いだから、冷たくしたわけじゃない
守若先輩が、私を見てくれなくなった。
最初にその変化へ気づいたのは、あの人を強く拒絶してしまった翌日の朝だった。いつもなら昇降口へ向かう途中、少し眠たそうな顔をした先輩が後ろから追いついてきて、気の抜けた声で「おはよう」と話しかけてくれるはずだった。
けれど、その日に限って先輩は現れなかった。
登校時間がずれただけだと思っていた。たまたま寝坊したのかもしれないし、逆に早く学校へ来ていた可能性もある。そう考えながら教室へ向かったものの、胸の奥には、どうしてか小さな不安が残り続けていた。
それでも私は、先輩がいないことなど気にしていない顔を作った。
「玲奈ちゃん、おはよう」
「おはようございます。今日も早いですね」
同級生にも先輩にも、普段と変わらない笑顔を向ける。親しみやすく、誰に対しても平等で、少しだけ控えめな少女。周囲が私に求めている『神楽坂玲奈』を演じることは、もう呼吸と同じくらい簡単になっていた。
入学してから、私はずっとそうしてきた。
嫌われないように笑い、誰かを不快にさせない言葉を選び、頼まれたことは可能な限り引き受ける。容姿が人よりも目立つことは幼い頃から分かっていたし、そんな私が少しでも不機嫌そうな顔をすれば、周囲に余計な憶測を生んでしまうことも知っていた。
だから、学校では完璧な後輩を演じた。
誰から声をかけられても笑顔で応じ、男子生徒から好意を向けられても露骨に拒絶せず、女子生徒から相談されれば親身になって話を聞く。そうした態度を続けた結果、いつしか私は『学校一の清純派アイドル』などという、ひどく大袈裟な呼び名をつけられていた。
本当の私は、そんなに出来た人間ではない。
嫉妬もするし、嫌なことがあれば腹も立つ。好きな人には誰よりも自分を見てほしいし、他の女の子と話しているだけで胸の内側が醜くざわつく。
けれど、そんな私を知っている人はほとんどいなかった。
守若秀先輩だけを除いて。
先輩と出会ったのは、私がこの学校へ入学したばかりの頃だった。
慣れない校舎で教室の場所を見失い、案内板の前で立ち尽くしていた私に、先輩は何の下心も感じさせない声音で話しかけてくれた。私の顔を見て態度を変えることもなく、道に迷った後輩を助けるのは当然だと言わんばかりに、目的の教室まで連れていってくれた。
その後も、委員会の仕事で遅くなった日は昇降口で待っていてくれた。体調が悪いときには、誰よりも早く気づいてくれた。私が周囲へ向ける笑顔の奥で疲れていることも、言葉にしなくても察してくれた。
先輩の隣にいるときだけは、完璧な神楽坂玲奈でなくてもよかった。
少しわがままを言っても、先輩は困ったように笑いながら聞いてくれた。機嫌が悪ければ、無理に理由を聞き出そうとはせず、私が話したくなるまでそばにいてくれた。
だから私は、先輩のことが好きになった。
いつからだったのかは、もう覚えていない。
先輩が私の好きな菓子パンを覚えていてくれた日かもしれない。雨の日に自分の肩を濡らしながら、私へ傘を傾けてくれたときかもしれない。委員会の仕事で失敗して落ち込んでいた私に、「玲奈が頑張ってたことは、俺が知ってる」と言ってくれた瞬間かもしれない。
気づいたときには、私は先輩から向けられる優しさを、何よりも大切に思うようになっていた。
それなのに、私は先輩へ冷たくした。
嫌いだったからではない。
むしろ、好きで好きで仕方がなかったからだ。
先輩は誰にでも優しい。私だけでなく、困っている相手を見つければ迷わず声をかけるし、頼まれれば自分の時間を削ってでも手を貸す。そんな人柄を好きになったはずなのに、先輩が他の女子生徒と楽しそうに話している姿を見るたび、胸の中には黒い感情が積み重なっていった。
私だけを見てほしい。
私だけを心配してほしい。
私が少し不機嫌になっただけで、理由を尋ねてほしい。
そんな身勝手な願いを素直に伝える勇気がなかった私は、先輩にだけ冷たい態度を取るようになった。
「先輩、気安く話しかけないでくれませんか?」
そう言えば、先輩は傷ついたような顔をしながらも、翌日にはまた話しかけてくれた。
「余計なお世話です」
そう突き放しても、私が本当に困っているときには、先輩は何も言わずに助けてくれた。
拒絶するたびに、先輩が私を気にかけてくれる。
周囲には優しい私が、先輩にだけ冷たくする。その不自然さに気づき、いつか先輩の方から理由を聞いてくれるのではないか。私の気持ちを見抜き、「もしかして、俺に構ってほしいのか」と笑ってくれるのではないか。
そんな都合のいい期待を抱いていた。
先輩なら、何度突き放しても離れない。
私の不器用さを理解し、最後には必ず迎えに来てくれる。
私は心のどこかで、そう信じ込んでいたのだ。
だから、あの日も言いすぎてしまった。
委員会の資料を抱えて歩いていた私へ、先輩がいつものように手を伸ばしてくれた。その瞬間、嬉しさより先に、ここ数日先輩が別の女子生徒と話していた光景が頭に浮かんだ。
もっと私を見てほしい。
私が怒っている理由を考えてほしい。
今度こそ、私の本音に気づいてほしい。
そんな幼稚な期待が、取り返しのつかない言葉になった。
「私は、先輩に構ってほしいなんて一度も言ってません。毎回毎回、親しいみたいな顔をして近づいてくるの、本当に迷惑なんです」
言った直後、先輩の表情から何かが消えた。
いつもなら困ったように眉を下げるか、悪かったと苦笑してくれるはずだった。けれど、あのときの先輩は何の感情も浮かべず、ただ静かに私の言葉を受け止めていた。
「……そっか」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に嫌な予感が走った。
違う。
本当は迷惑なんかじゃない。
先輩に構ってほしかった。もっと私だけを見てほしかった。私が冷たくしても、離れないでほしかった。
そう言わなければならなかったのに、周囲の視線と、今さら本音を口にする恥ずかしさに縛られ、私は何も言えなかった。
先輩は私へ謝り、そのまま背を向けた。
そして翌日から、本当に私の前から消えてしまった。
廊下ですれ違っても、目を合わせてくれない。
昼休みに見かけても、私がいないかのように通り過ぎる。
委員会の仕事が終わったあとも、昇降口には先輩の姿がない。
私が教科書を忘れて困っているときでさえ、先輩は助けに来なかった。
周囲には、私を手伝いたい人が大勢いた。声をかけてくれる人も、荷物を持ってくれる人も、帰り道に誘ってくれる人もいる。
それなのに、誰の優しさを受け取っても、胸の穴は埋まらなかった。
私が欲しかったのは、守若先輩の優しさだけだった。
「……馬鹿」
放課後、委員会の仕事を終えた私は、誰もいなくなった教室で小さく呟いた。
窓の外では、運動部の掛け声が響いている。夕暮れに染まった校庭を眺めながら、私は机の下でスカートを強く握り締めていた。
「先輩の、馬鹿……」
けれど、本当に馬鹿なのは私だった。
好きな人に好きだと言えず、構ってほしいという理由だけで傷つけた。何度拒絶しても許してくれる先輩の優しさに甘え、その優しさには限界があることさえ考えなかった。
先輩は、私の願いを叶えている。
気安く話しかけないでほしい。
親しい顔をして近づかないでほしい。
迷惑だから、構わないでほしい。
あの日の私が口にした言葉を、先輩は一つ残らず守っているだけだ。
机の上に置いたスマートフォンを手に取り、先輩とのメッセージ画面を開く。少し前までは毎日のように交わされていた会話が、あの日を境に完全に途切れていた。
文章を入力しては消す。
謝りたい。
本当は迷惑ではなかったと伝えたい。
冷たくしたのは、先輩にもっと構ってほしかったからだと打ち明けたい。
けれど、どの言葉も身勝手に思えて、送信することができなかった。
あれほど強く拒絶しておきながら、離れた途端に戻ってきてほしいなどと、どんな顔で言えばいいのだろう。
やがてスマートフォンの画面が暗くなり、そこに泣きそうな私の顔が映り込んだ。
学校一の清純派アイドル。
誰にでも優しく、いつでも笑顔を絶やさない完璧な後輩。
そんな仮面の下で、私はたった一人の先輩に見捨てられたくないと、みっともなく震えていた。
「先輩……私、本当は……」
誰もいない教室へ零れた声は、最後まで言葉にならなかった。
好きだった。
ずっと、先輩だけが好きだった。
だからこそ、離れていかないでほしかった。
けれど今さらどれほど願っても、先輩はもう私を見てくれない。
その事実が胸の中へ沈むたび、私はようやく理解し始めていた。
自分が失おうとしているものが、どれほど大切だったのかを。
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