表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/12

第3話 嫌いだから、冷たくしたわけじゃない

 守若先輩が、私を見てくれなくなった。


 最初にその変化へ気づいたのは、あの人を強く拒絶してしまった翌日の朝だった。いつもなら昇降口へ向かう途中、少し眠たそうな顔をした先輩が後ろから追いついてきて、気の抜けた声で「おはよう」と話しかけてくれるはずだった。


 けれど、その日に限って先輩は現れなかった。


 登校時間がずれただけだと思っていた。たまたま寝坊したのかもしれないし、逆に早く学校へ来ていた可能性もある。そう考えながら教室へ向かったものの、胸の奥には、どうしてか小さな不安が残り続けていた。


 それでも私は、先輩がいないことなど気にしていない顔を作った。


「玲奈ちゃん、おはよう」


「おはようございます。今日も早いですね」


 同級生にも先輩にも、普段と変わらない笑顔を向ける。親しみやすく、誰に対しても平等で、少しだけ控えめな少女。周囲が私に求めている『神楽坂玲奈』を演じることは、もう呼吸と同じくらい簡単になっていた。


 入学してから、私はずっとそうしてきた。


 嫌われないように笑い、誰かを不快にさせない言葉を選び、頼まれたことは可能な限り引き受ける。容姿が人よりも目立つことは幼い頃から分かっていたし、そんな私が少しでも不機嫌そうな顔をすれば、周囲に余計な憶測を生んでしまうことも知っていた。


 だから、学校では完璧な後輩を演じた。


 誰から声をかけられても笑顔で応じ、男子生徒から好意を向けられても露骨に拒絶せず、女子生徒から相談されれば親身になって話を聞く。そうした態度を続けた結果、いつしか私は『学校一の清純派アイドル』などという、ひどく大袈裟な呼び名をつけられていた。


 本当の私は、そんなに出来た人間ではない。


 嫉妬もするし、嫌なことがあれば腹も立つ。好きな人には誰よりも自分を見てほしいし、他の女の子と話しているだけで胸の内側が醜くざわつく。


 けれど、そんな私を知っている人はほとんどいなかった。


 守若秀先輩だけを除いて。


 先輩と出会ったのは、私がこの学校へ入学したばかりの頃だった。


 慣れない校舎で教室の場所を見失い、案内板の前で立ち尽くしていた私に、先輩は何の下心も感じさせない声音で話しかけてくれた。私の顔を見て態度を変えることもなく、道に迷った後輩を助けるのは当然だと言わんばかりに、目的の教室まで連れていってくれた。


 その後も、委員会の仕事で遅くなった日は昇降口で待っていてくれた。体調が悪いときには、誰よりも早く気づいてくれた。私が周囲へ向ける笑顔の奥で疲れていることも、言葉にしなくても察してくれた。


 先輩の隣にいるときだけは、完璧な神楽坂玲奈でなくてもよかった。


 少しわがままを言っても、先輩は困ったように笑いながら聞いてくれた。機嫌が悪ければ、無理に理由を聞き出そうとはせず、私が話したくなるまでそばにいてくれた。


 だから私は、先輩のことが好きになった。


 いつからだったのかは、もう覚えていない。


 先輩が私の好きな菓子パンを覚えていてくれた日かもしれない。雨の日に自分の肩を濡らしながら、私へ傘を傾けてくれたときかもしれない。委員会の仕事で失敗して落ち込んでいた私に、「玲奈が頑張ってたことは、俺が知ってる」と言ってくれた瞬間かもしれない。


 気づいたときには、私は先輩から向けられる優しさを、何よりも大切に思うようになっていた。


 それなのに、私は先輩へ冷たくした。


 嫌いだったからではない。


 むしろ、好きで好きで仕方がなかったからだ。


 先輩は誰にでも優しい。私だけでなく、困っている相手を見つければ迷わず声をかけるし、頼まれれば自分の時間を削ってでも手を貸す。そんな人柄を好きになったはずなのに、先輩が他の女子生徒と楽しそうに話している姿を見るたび、胸の中には黒い感情が積み重なっていった。


 私だけを見てほしい。


 私だけを心配してほしい。


 私が少し不機嫌になっただけで、理由を尋ねてほしい。


 そんな身勝手な願いを素直に伝える勇気がなかった私は、先輩にだけ冷たい態度を取るようになった。


「先輩、気安く話しかけないでくれませんか?」


 そう言えば、先輩は傷ついたような顔をしながらも、翌日にはまた話しかけてくれた。


「余計なお世話です」


 そう突き放しても、私が本当に困っているときには、先輩は何も言わずに助けてくれた。


 拒絶するたびに、先輩が私を気にかけてくれる。


 周囲には優しい私が、先輩にだけ冷たくする。その不自然さに気づき、いつか先輩の方から理由を聞いてくれるのではないか。私の気持ちを見抜き、「もしかして、俺に構ってほしいのか」と笑ってくれるのではないか。


 そんな都合のいい期待を抱いていた。


 先輩なら、何度突き放しても離れない。


 私の不器用さを理解し、最後には必ず迎えに来てくれる。


 私は心のどこかで、そう信じ込んでいたのだ。


 だから、あの日も言いすぎてしまった。


 委員会の資料を抱えて歩いていた私へ、先輩がいつものように手を伸ばしてくれた。その瞬間、嬉しさより先に、ここ数日先輩が別の女子生徒と話していた光景が頭に浮かんだ。


 もっと私を見てほしい。


 私が怒っている理由を考えてほしい。


 今度こそ、私の本音に気づいてほしい。


 そんな幼稚な期待が、取り返しのつかない言葉になった。


「私は、先輩に構ってほしいなんて一度も言ってません。毎回毎回、親しいみたいな顔をして近づいてくるの、本当に迷惑なんです」


 言った直後、先輩の表情から何かが消えた。


 いつもなら困ったように眉を下げるか、悪かったと苦笑してくれるはずだった。けれど、あのときの先輩は何の感情も浮かべず、ただ静かに私の言葉を受け止めていた。


「……そっか」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥に嫌な予感が走った。


 違う。


 本当は迷惑なんかじゃない。


 先輩に構ってほしかった。もっと私だけを見てほしかった。私が冷たくしても、離れないでほしかった。


 そう言わなければならなかったのに、周囲の視線と、今さら本音を口にする恥ずかしさに縛られ、私は何も言えなかった。


 先輩は私へ謝り、そのまま背を向けた。


 そして翌日から、本当に私の前から消えてしまった。


 廊下ですれ違っても、目を合わせてくれない。


 昼休みに見かけても、私がいないかのように通り過ぎる。


 委員会の仕事が終わったあとも、昇降口には先輩の姿がない。


 私が教科書を忘れて困っているときでさえ、先輩は助けに来なかった。


 周囲には、私を手伝いたい人が大勢いた。声をかけてくれる人も、荷物を持ってくれる人も、帰り道に誘ってくれる人もいる。


 それなのに、誰の優しさを受け取っても、胸の穴は埋まらなかった。


 私が欲しかったのは、守若先輩の優しさだけだった。


「……馬鹿」


 放課後、委員会の仕事を終えた私は、誰もいなくなった教室で小さく呟いた。


 窓の外では、運動部の掛け声が響いている。夕暮れに染まった校庭を眺めながら、私は机の下でスカートを強く握り締めていた。


「先輩の、馬鹿……」


 けれど、本当に馬鹿なのは私だった。


 好きな人に好きだと言えず、構ってほしいという理由だけで傷つけた。何度拒絶しても許してくれる先輩の優しさに甘え、その優しさには限界があることさえ考えなかった。


 先輩は、私の願いを叶えている。


 気安く話しかけないでほしい。


 親しい顔をして近づかないでほしい。


 迷惑だから、構わないでほしい。


 あの日の私が口にした言葉を、先輩は一つ残らず守っているだけだ。


 机の上に置いたスマートフォンを手に取り、先輩とのメッセージ画面を開く。少し前までは毎日のように交わされていた会話が、あの日を境に完全に途切れていた。


 文章を入力しては消す。


 謝りたい。


 本当は迷惑ではなかったと伝えたい。


 冷たくしたのは、先輩にもっと構ってほしかったからだと打ち明けたい。


 けれど、どの言葉も身勝手に思えて、送信することができなかった。


 あれほど強く拒絶しておきながら、離れた途端に戻ってきてほしいなどと、どんな顔で言えばいいのだろう。


 やがてスマートフォンの画面が暗くなり、そこに泣きそうな私の顔が映り込んだ。


 学校一の清純派アイドル。


 誰にでも優しく、いつでも笑顔を絶やさない完璧な後輩。


 そんな仮面の下で、私はたった一人の先輩に見捨てられたくないと、みっともなく震えていた。


「先輩……私、本当は……」


 誰もいない教室へ零れた声は、最後まで言葉にならなかった。


 好きだった。


 ずっと、先輩だけが好きだった。


 だからこそ、離れていかないでほしかった。


 けれど今さらどれほど願っても、先輩はもう私を見てくれない。


 その事実が胸の中へ沈むたび、私はようやく理解し始めていた。


 自分が失おうとしているものが、どれほど大切だったのかを。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

応援が次回更新の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ