第2話 赤の他人になっただけなのに
神楽坂玲奈と赤の他人になる。
そう決めた翌朝、俺は普段よりも少しだけ早く家を出た。玲奈とは家の方向が同じであり、登校時間が重なれば、学校へ続く坂道や昇降口の前で顔を合わせることが多かったからだ。
もっとも、わざわざ時間をずらす必要などなかったのかもしれない。玲奈は俺から話しかけられることを迷惑だと言ったのだから、俺が黙っていれば済む話である。それでも、姿を見れば以前の習慣で声をかけてしまいそうな自分が怖かった。
玲奈が入学してから半年近く、俺は彼女を後輩として気にかけてきた。
知らない人間ばかりの校内で不安そうにしていれば声をかけ、困っていれば手を貸し、疲れているように見えれば無理をするなと伝えてきた。それらは特別な努力ではなく、俺にとっては日常の一部だった。
だからこそ、その日常を捨てるには、意識して玲奈を避ける必要があった。
教室へ着いた俺は、窓際にある自分の席へ鞄を置き、いつもより早く登校した理由を尋ねてくる友人に適当な言葉を返した。胸の奥には昨日の痛みが残っていたものの、眠れないほど苦しんだおかげなのか、不思議と頭は冷静だった。
玲奈は俺を嫌っている。
これまでの関係を親しいものだと思っていたのは、俺だけだった。
その事実さえ受け入れてしまえば、やるべきことは単純だった。
昼休み、購買から戻る途中で、俺は玲奈とすれ違った。
彼女は同学年の女子生徒たちに囲まれ、普段どおり清楚な笑顔を浮かべていた。周囲から向けられる好意を当然のように受け止めながらも、決して傲慢にはならず、一人一人の言葉へ丁寧に応じている。
以前の俺なら、その輪の端から軽く手を上げていただろう。玲奈も周囲に気づかれない程度に小さく頷き、あとで二人きりになった際、俺の挨拶が雑だったと文句を言っていた。
しかし、その日は何もしなかった。
視線を合わせることもなく、ただ同じ学校に通っている名前も知らない後輩として、その横を通り過ぎた。
「……先輩?」
背後から、微かな声が聞こえた気がした。
それでも俺は振り返らなかった。
玲奈が俺を呼ぶ理由などない。仮に呼ばれていたとしても、昨日、気安く話しかけるなと拒絶されたばかりだ。都合よく聞き間違いではないと思い込んで近づけば、また彼女を困らせてしまう。
廊下を曲がり、玲奈たちの姿が完全に見えなくなったところで、ようやく詰めていた息を吐き出した。
他人のふりをするだけだというのに、胸がひどく重かった。
だが、これは玲奈のためでもある。
俺が耐えれば、少なくとも彼女が不快な思いをすることはなくなる。その程度の傷なら、時間が経てばいずれ薄れるはずだった。
放課後、委員会の仕事を終えた玲奈は、一人で校舎を歩いていた。
昨日までであれば、俺はその時間を見計らって昇降口付近で待っていた。玲奈は委員会の仕事が長引くことが多く、一人で帰るのは寂しいと、以前に零したことがあったからだ。
ただし、それも俺の勝手な思い込みだったのだろう。
俺は玲奈が委員会へ向かったことを知りながら、いつもの場所を通ることなく、一人で学校を出た。
その頃、誰もいない昇降口で、玲奈は靴を履き替えながら何度も校舎の奥へ視線を向けていた。
彼女の周囲には、いつもどおり何人かの男子生徒がいた。
「神楽坂さん、今から帰るの?」
「よかったら駅まで一緒に行かない?」
玲奈は柔らかな笑みを浮かべ、申し訳なさそうに誘いを断った。学校一の清純派アイドルに相応しい、誰も傷つけない完璧な応対だった。
けれど、その笑顔はいつもよりわずかに硬かった。
「……あの、守若先輩を見ませんでしたか?」
玲奈がそう尋ねると、男子生徒たちは意外そうに顔を見合わせた。
「守若先輩? さっき一人で帰っていったけど」
「そう、ですか」
玲奈の指先が、上履きを入れた袋を強く握り締める。
昨日、あれほど強く拒絶したのだから、俺が待っていないことは当然だった。むしろ彼女の望みどおりになっただけである。
それでも玲奈は、その場に数秒間立ち尽くしていた。
翌日からも、俺は玲奈を他人として扱い続けた。
朝、昇降口で会っても挨拶をしない。
廊下の向こうから歩いてきても、進路を少しずらしてすれ違う。
彼女が教科書を忘れて困っているという話を耳にしても、届けに行くことはせず、同学年の生徒に任せた。
些細な変化の積み重ねだった。
けれど玲奈にとっては、それまで当たり前に存在していたものが、音もなく日常から削り取られていくような変化だった。
俺が声をかけなければ、周囲の誰かが彼女に話しかける。俺が手を貸さなくても、彼女を助けたい人間はいくらでもいる。学校一のアイドルである玲奈が、一人になることなど決してなかった。
だから俺がいなくなったところで、彼女の日常には何の影響もないはずだった。
少なくとも、俺はそう思っていた。
数日後の昼休み、俺が友人と教室を出ようとしたところで、廊下の先に玲奈の姿が見えた。
彼女はこちらへ歩いてきていたが、俺と目が合った瞬間、わずかに足を止めた。その表情には、いつもの清楚な笑みも、俺へ向けていた冷たい敵意も浮かんでいない。
ただ、何かを待っているような目で俺を見ていた。
以前なら、俺はすぐにその変化へ気づいていただろう。
体調が悪いのか、困っていることがあるのかと尋ね、玲奈が口を開くまでそばに立っていたはずだ。
しかし、今の俺にそれをする資格はない。
俺は玲奈の横を通り過ぎた。
彼女の髪が風に揺れ、微かな甘い香りが鼻先をかすめた。それすら懐かしいと思ってしまう自分を押し殺しながら、俺は一度も振り返らなかった。
「……どうして」
玲奈の声が、背後で震えた。
その言葉はあまりにも小さく、周囲の喧騒に簡単に呑み込まれてしまう。
俺の隣を歩いていた友人が不思議そうに後ろを見たが、俺は何も気づかなかったふりをして歩き続けた。
それが玲奈の望んだ距離だからだ。
親しい顔をして近づくな。
余計な世話を焼くな。
自分には関係のない人間として振る舞え。
俺は彼女が口にした願いを、ただ忠実に守っているだけだった。
一方で玲奈は、遠ざかっていく俺の背中を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
周囲の生徒たちは普段どおり彼女へ声をかけていたが、その言葉は耳に入っていないようだった。やがて玲奈は俯き、制服のスカートを指先で強く握り締める。
誰にでも愛される学校一の清純派アイドル。
そんな彼女の顔に浮かんでいたのは、他人には決して見せることのない、不安に濁った幼い表情だった。
俺が彼女を避け始めて、まだ数日しか経っていない。
それなのに玲奈は、ようやく気づき始めていた。
俺がもう、彼女のもとへ戻ってくるつもりがないことに。
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