第1話 赤の他人になろう
俺には、一人の後輩がいる。
誰に対しても分け隔てなく優しく、まるで春の日差しをそのまま人の形にしたような柔らかな笑みを浮かべる少女。整った顔立ちと清楚な雰囲気を併せ持ち、入学してから半年も経たないうちに、周囲から『学校一の清純派アイドル』と呼ばれるようになった後輩が――俺にはいる。
ただし、そこには一つだけ、無視できない問題があった。
俺――守若秀は、成績も運動神経も平均以下で、人付き合いも得意ではない。教室の隅で静かに時間が過ぎるのを待っているような、いわゆる陰キャ寄りの人間だ。そんな俺が学校一の美少女と親しくしているなどと言えば、冗談だと思われるだろう。
けれど、俺と彼女には確かにそれなりの付き合いがあった。
「玲奈ちゃん、おはよう!」
「あっ、先輩。おはようございます!」
昇降口へ向かう通路の先で、一人の男子生徒が彼女へ声をかけた。
神楽坂玲奈。
肩の辺りで揺れる艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。誰かと視線が合えば自然に笑いかけ、相手が誰であろうと丁寧に言葉を返すその姿は、まさしく周囲が思い描く清純派そのものだった。
男子生徒は嬉しそうに頬を緩ませ、玲奈もまた親しみのある笑顔で応じている。傍から見れば、それはどこにでもある朝の挨拶にすぎない。けれど、彼女からあの笑顔を向けられた男子にとっては、一日を幸福に過ごすには十分すぎる出来事なのだろう。
それほどまでに、玲奈の笑顔には人を惹きつける力があった。
「おはよう、玲奈」
俺も少し遅れて声をかけた。
以前なら、そんなことに緊張する必要などなかった。玲奈が入学してきたばかりの頃から、俺たちは何度も顔を合わせてきた。校内で迷っていた彼女を教室まで案内したこともあれば、委員会の仕事を手伝ったこともある。放課後に相談を受けたり、家が近いという理由で一緒に帰ったりしたことさえあった。
決して、俺が一方的に彼女を追いかけていたわけではない。
少なくとも、少し前までは、玲奈の方から俺を見つけて駆け寄ってくることも珍しくなかった。
しかし最近は違う。
玲奈は俺の声に反応して振り返ると、それまで浮かべていた明るい笑みを一瞬にして消した。さきほどまで周囲へ向けていた柔らかな表情が嘘だったかのように、温度のない視線が真っ直ぐ俺へ突き刺さる。
「先輩、気安く話しかけないでくれませんか?」
「……ごめん。悪かった」
短く謝ると、玲奈は興味を失ったように顔を背け、そのまま友人たちの輪へ入っていった。
残された俺の胸には、言葉では説明しづらい鈍い痛みだけが広がっていく。
俺が何かをしたのなら、謝ることもできる。知らないうちに彼女を傷つけたのなら、理由を聞いて反省することもできる。けれど、何度考えても心当たりはなく、本人へ尋ねてもまともに取り合ってもらえなかった。
初めのうちは、機嫌が悪いだけだと思っていた。
次は、学校で親しくしているところを見られたくないのかもしれないと考えた。
それならそれで仕方がない。玲奈は誰からも注目される存在で、俺のような人間と付き合いがあると知られれば、余計な噂を立てられる可能性もある。彼女の立場を考えれば、少し距離を置くくらいは当然だと、自分へ言い聞かせてきた。
それでも俺は、関係そのものまで切り捨てたくはなかった。
昼休みになれば、以前のように購買で彼女の好きなパンを見つけて声をかけた。なにか落し物をした時にはさりげなく拾って渡した。体調が悪そうな日は、迷惑にならないよう距離を取りながらも、せめて大丈夫かと尋ねた。
そのたびに返ってくるのは、刺すような言葉ばかりだった。
「余計なお世話です」
「触らないで貰えますか?」
「そういうことをされると、困るんですけど」
俺が近づくほど、玲奈の態度は冷たくなっていった。
それでも、嫌われたと決めつけるのは早いと思っていた。何か事情があるのかもしれない。俺に話せない悩みを抱えているのかもしれない。そう考えることで、わずかに残った希望へ縋っていたのだ。
決定的な出来事が起きたのは、その日の放課後だった。
教室を出たところで、玲奈が一人で大量の資料を抱えて歩いている姿を見つけた。委員会の仕事らしく、細い腕には明らかに不釣り合いな量だった。
「それ、半分持つよ」
反射的に手を伸ばした俺に対し、玲奈は勢いよく身を引いた。
腕の中の資料が崩れ、廊下へ白い紙が散らばる。周囲にいた生徒たちの視線が、一斉にこちらへ集まった。
「触らないでください!」
玲奈の声が廊下に響いた。
いつもの冷たい言葉とは違う。拒絶という意思を、誰にでも分かる形で叩きつける声だった。
「私は、先輩に構ってほしいなんて一度も言ってません。毎回毎回、親しいみたいな顔をして近づいてくるの、本当に迷惑なんです」
息が止まった。
周囲のざわめきが遠くなり、玲奈の言葉だけが頭の中で繰り返される。
親しいみたいな顔。
本当に迷惑。
それは俺がこれまで大切にしていた時間を、すべて勘違いだったと否定するには十分すぎる言葉だった。
「……そっか」
それ以上、何も言えなかった。
床へ散らばった資料を拾おうとして、やめた。今の俺が手を貸せば、それすら彼女にとっては迷惑なのだろう。
「ごめんな、玲奈。今までずっと、勘違いしてた」
玲奈の表情がわずかに揺れたように見えた。けれど、それを確かめるだけの勇気は、もう俺には残っていなかった。
俺は彼女へ背を向け、その場を離れた。
胸の奥は痛かった。悔しいというよりも、恥ずかしかった。相手が嫌がっていることにも気づかず、昔の関係に縋って何度も近づいていた自分が、たまらなく惨めに思えた。
だったら、答えは一つしかない。
玲奈が俺との関係を望んでいないのなら、その望みを叶えるべきだ。
明日からは、こちらから挨拶をしない。
困っていても、手を差し伸べない。
廊下ですれ違っても、視線を向けない。
神楽坂玲奈は、もう俺のかわいい後輩ではない。
学校一の清純派アイドルと、どこにでもいる目立たない先輩。初めから接点など存在しなかったように振る舞えば、彼女もきっと安心するだろう。
だから俺は、その日を境に決めた。
神楽坂玲奈とは、赤の他人になろう、と。
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