第17話 誰かを好きになるほど、欲張りになっていく
武久と康介の二人と過ごした翌日、玲奈はいつもの待ち合わせ場所で俺を待っていた。
朝の柔らかな日差しの下、両手で鞄を持ちながら、通学路の先へ何度も視線を向けている。俺の姿を見つけると、安堵したように表情を綻ばせ、すぐに小走りで近づいてきた。
「おはようございます、先輩」
「おはよう。昨日は連絡だけで悪かったな」
「いいえ。柏木先輩と村田先輩との時間も、先輩にとって大切なものですから」
玲奈はそう答えたものの、声には僅かな寂しさが滲んでいた。
友人との時間を尊重しようとしているのは本心なのだろう。けれど、それと自分も一緒にいたかったという願いは、別の感情として残っているらしい。
以前の玲奈なら、その寂しさを隠すために冷たい言葉を選んでいた。
今は違う。
俺の袖へ触れながら、少しだけ俯く。
「ただ……昨日、先輩が楽しそうにしているところを想像すると、少しだけ羨ましくなりました」
「羨ましい?」
「私も、先輩の大切な人たちと一緒に笑えるようになりたいんです」
その言葉を聞き、俺は玲奈が以前とは異なる不安を抱き始めていることに気づいた。
俺との二人きりの関係だけを守るのではなく、俺の周囲にある人間関係の中にも、自分の居場所を作りたいと考えている。恋人になりたいという願いだけでなく、俺の日常そのものへ入りたいと思っているのだろう。
「なら、今度三人でいるときに玲奈も来ればいい」
「よろしいんですか?」
「武久は大歓迎するだろうし、康介も嫌がらない」
「先輩は?」
玲奈は俺の顔を覗き込んだ。
他の誰かではなく、俺自身の意思を求めている。
「俺も来てほしい」
そう答えると、玲奈の頬が一瞬で赤く染まった。
「……朝から、そのような言葉を簡単に言わないでください」
「聞いたのは玲奈だろ」
「そうですが、心の準備というものが必要です」
嬉しさを隠しきれないまま、玲奈は俺の袖を握る指へ僅かに力を込めた。
その日の昼休み、俺たちは教室で武久と康介を交え、四人で昼食を取ることになった。
玲奈が俺の教室へ入った瞬間、普段以上の注目が集まったものの、本人は周囲の視線よりも、俺の友人たちへどう接するべきかを気にしているようだった。
「神楽坂さん、ようこそ我らが男子会へ!」
「男子会に私が入ってもいいのでしょうか」
「秀の大切な後輩なら特別参加だ!」
「大切な、ですか……」
武久の言葉を聞いた玲奈は、俺へ視線を向けながら嬉しそうに微笑んだ。
「武久。余計な言葉を足すな」
「余計じゃないだろ! 昨日、お前自身が――」
「柏木」
康介の低い声が飛ぶ。
武久は口を開いたまま固まり、俺を見たあと、慌てて話題を変えた。
「と、とにかく座ってくれ! 今日は俺が神楽坂さんに、秀の知られざる過去を教えてやろう!」
「ぜひお願いします」
「やめろ」
「一年の体育祭で、借り物競走のお題が『好きな人』だったとき、秀は迷わず康介を連れていった!」
「時間がなかったから、近くにいた奴を連れていっただけだ」
「男子を好きな人として提出する潔さ! 会場は大爆笑だったぞ!」
玲奈は一瞬だけ驚いたあと、口元へ手を添えて笑った。
俺の前だけで見せる甘い笑顔とは違う。武久の馬鹿げた話を聞き、年相応の少女として自然に零した笑いだった。
その表情を見て、胸の奥が温かくなる。
玲奈が俺だけを見ていることに、これまでの俺は安心を覚えていた。けれど、俺以外の人間と笑う彼女を見ても、今は嫌だとは思わない。
むしろ、こういう場所が玲奈に増えてほしい。
「守若は笑われたあとも、何事もなかったように村田と走っていたけどな」
康介が淡々と補足する。
「恥ずかしくなかったんですか?」
「競技を終わらせる方が先だった」
「そういうところ、先輩らしいです」
玲奈の声には、素直な好意が込められていた。
武久はそれを聞き逃さず、机へ両手を叩きつける。
「見たか康介! 秀が何を言っても神楽坂さんの中では格好いい話に変換される!」
「恋愛感情による補正だろう」
「補正ではありません」
玲奈は真剣な表情で否定した。
「先輩は本当に格好いい方です。皆さんが気づいていないだけです」
「俺たちは昔から知ってるぞ」
武久が得意げに胸を張る。
「秀は目立たないけど、誰かが困ってたら一番先に動く。自分が損しても言わないし、褒められなくても気にしない。だから俺たちは一緒にいるんだ」
いつもの騒がしさを抑えた、真っ直ぐな言葉だった。
玲奈は驚いたように武久を見たあと、穏やかに目を細める。
「分かります。私も、その優しさに救われましたから」
俺について語る二人の表情には、異なる形の信頼があった。
玲奈は俺を愛する相手として、武久と康介は長く付き合ってきた友人として、それぞれが俺の知らない一面まで見ている。
自分という人間は、一人で完成しているわけではない。
誰かの記憶や感情の中に、それぞれ違う俺が存在している。そのどれもが嘘ではなく、俺自身が築いてきた関係の形なのだろう。
「楽しそうね」
突然、教室の入り口から声が響いた。
千堂が弁当箱を片手に立っていた。
いつものように堂々とした姿だが、俺たち四人が机を囲んでいる光景を見た瞬間、その瞳に僅かな寂しさが浮かんだことを、俺は見逃さなかった。
「千堂も食べるか?」
俺が尋ねると、玲奈の身体が小さく強張った。
一方、千堂は驚いたように俺を見つめたあと、すぐに強気な笑みを作る。
「当然よ。最初からそのつもりで来たんだから」
「今、少し寂しそうだっただろ」
「はあ!?」
教室中へ響くほど大きな声が返ってきた。
「べ、別に寂しくなんてないわ! 神楽坂だけ当然みたいに先輩の友人と仲良くなっているのが、少し不公平だと思っただけよ!」
「それを寂しいって言うんじゃないか」
「違う! 戦略上の焦りよ!」
千堂は顔を赤くしながら、空いている椅子を引き寄せた。
玲奈は俺の隣に座ったまま、千堂を静かに見つめている。少し前なら、俺が誘ったことへ不安を露わにしていただろう。
しかし今回は、袖を掴むことも、千堂を追い返すこともしなかった。
「千堂さん」
「何よ」
「ここは先輩のご友人との時間です。騒ぎを起こさないでください」
「分かってるわよ。私だって空気くらい読めるもの」
「初耳ですね」
「喧嘩を売ってる!?」
結局、いつもの言い合いが始まった。
武久は目を輝かせ、康介は弁当を食べながら二人を冷静に観察している。
「秀」
武久が小声で俺へ話しかける。
「お前の青春、登場人物が増えすぎじゃないか?」
「俺に言うな」
「でも悪くないだろ?」
目の前では、玲奈が千堂へ俺の好みの味付けを自慢し、千堂が次は自分の弁当で勝負すると宣言している。
騒がしく、落ち着かない。
誰かの感情が大きくなれば、別の誰かが傷つく可能性もある。玲奈も千堂も、俺との距離を望めば望むほど、相手の存在を無視できなくなっていく。
それでも、俺はこの時間を嫌いではなかった。
「悪くない」
俺が答えると、武久は満足そうに笑った。
玲奈は俺の日常へ入りたいと願い、千堂は自分だけが取り残されることを嫌がった。
そして俺もまた、いつの間にか欲張りになっている。
玲奈を大切にしたい。
千堂の気持ちを軽んじたくない。
武久や康介との関係も失いたくない。
すべてを傷つけずに守れるほど、恋愛も青春も都合よくはできていない。
それでも、最初から諦めて誰かを遠ざけるのではなく、今度はできる限り向き合いたいと思っていた。
選ぶべきときが来るまで、曖昧に逃げるのではない。
それぞれの気持ちを知り、自分の意思を確かめながら進む。
その先で誰かが泣くとしても、せめて自分の言葉で答えを伝えられる人間でありたかった。
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