第18話 まだ恋人ではない二人と、始まりかけた青春
玲奈と過ごす時間が増えてから、俺の日常には説明の難しい変化が生まれていた。
朝は待ち合わせ場所で合流し、並んで登校する。昼休みになれば、玲奈が俺の教室まで迎えに来て、武久や康介を交えて弁当を食べる。放課後には委員会の仕事が終わるのを待ち、特別な予定がなければ一緒に帰る。
それだけを並べれば、交際している男女の日常と大差はない。
けれど、俺たちはまだ恋人ではなかった。
玲奈が俺を好きだということは知っている。俺も玲奈を異性として意識し、大切に思っていることを隠してはいない。それでも、あと一歩だけを踏み出さず、互いの距離を確かめるように日々を重ねていた。
傍から見れば、ひどくもどかしい関係なのだろう。
「秀。率直に聞いていいか?」
昼休み、玲奈が弁当箱を取りに一度教室を出たところで、康介が静かに口を開いた。
「何だ?」
「お前たちは、まだ付き合っていないんだよな」
「ああ」
「おかしいだろぉぉぉ!」
隣で聞いていた武久が、机へ額を打ちつける勢いで叫んだ。
赤いバンダナがずれ、周囲のクラスメイトが驚いてこちらを見る。それでも武久は構わず、俺の肩を両手で掴んだ。
「毎朝一緒に登校! 昼は手作り弁当! 放課後は待ち合わせて一緒に帰宅! 昨日なんて神楽坂さんがお前の制服の襟を直してただろ!?」
「曲がってたからな」
「それを許す距離感が恋人なんだよ!」
「友人や家族でも直すだろ」
「その返しだけ切り取ると鈍感系主人公みたいだからやめろ! お前は分かっててやってる分、さらに質が悪い!」
武久の指摘に、俺は反論できなかった。
玲奈の一つ一つの行動に好意が込められていることは理解している。朝、俺を見つけた瞬間に表情を綻ばせることも、昼食を残さず食べれば嬉しそうにすることも、別れ際に何度も振り返ることも。
全部、分かっている。
「だからこそ、急ぎたくないんだ」
俺が答えると、武久の勢いが少しだけ弱まった。
「玲奈が俺を好きなのは本心だと思う。でも、俺を一度失った恐怖もまだ残ってる。今すぐ告白すれば付き合えるかもしれないけど、それだけで全部が解決するとは思わない」
「お前らしい慎重さだな」
康介が腕を組む。
「ただし、待つことと、決めないことは違う。神楽坂さんを安心させるつもりで恋人同然に接し続けながら、肝心な答えだけを先送りにすれば、それも彼女を傷つける可能性がある」
「分かってる」
俺は逃げたいわけではない。
玲奈を選ぶ気持ちは、少しずつ確かなものになっている。ただ、失うことを恐れて縋る玲奈ではなく、自分の意思で笑いながら俺の隣を選ぶ玲奈へ、きちんと気持ちを伝えたい。
そして俺自身も、守るべき後輩だからではなく、一人の女の子として好きなのだと、胸を張って言える状態で告白したかった。
「じゃあ期限を決めよう!」
武久が突然、黒板へ向かって立ち上がった。
「何の期限だ」
「告白期限だ! 一か月以内に告白しなければ、俺たちが二人を体育倉庫へ閉じ込める!」
「犯罪予告をするな」
「では、ロマンチックな場所へ誘導する!」
「余計な演出も必要ない」
康介が武久のバンダナを後ろから引っ張り、強制的に席へ戻す。
「守若が自分で決めることだ。ただ、我々が呆れるほど進展が遅いのは事実だな」
「康介にまで言われるのか」
「客観的な評価だ」
そのとき、教室の扉が開いた。
玲奈が布に包まれた弁当箱を両手で抱え、こちらへ戻ってくる。俺を見つけた途端に浮かんだ柔らかな笑顔は、教室中の視線を集めるほど綺麗だった。
「お待たせしました、先輩」
「今来たところだ」
「ずっと教室にいただろ!」
武久の突っ込みを無視し、玲奈は俺の隣へ椅子を置いた。
距離は近い。肩が触れそうで触れない程度だったが、玲奈は弁当を広げる際、当然のように俺の制服の袖へ指先を添えている。
「今日は先輩がお好きな卵焼きを多めにしました」
「一段全部じゃないだろうな」
「止められましたので、全体の四割です」
「まだ多いな」
「愛情の最低量です」
玲奈は真顔で答えた。
武久が机へ突っ伏し、康介が小さく息を吐く。
「これで付き合ってないのか……」
「その確認、先ほどもしていたんですか?」
玲奈が首を傾げる。
武久は勢いよく顔を上げた。
「神楽坂さん! 率直に聞くけど、秀から今ここで告白されたらどうする!?」
「武久!」
止めるより早く、問いは玲奈へ届いてしまった。
玲奈は一瞬だけ目を見開き、次いで頬を朱色に染める。俺の袖へ添えていた指先が僅かに震えたものの、逃げることなく俺の顔を見上げた。
「……先輩からでしたら、お断りする理由はありません」
教室の空気が止まった。
周囲で聞き耳を立てていた生徒たちまで沈黙し、俺と玲奈の間だけが切り取られたように感じる。
「ですが」
玲奈は恥じらいながらも、はっきりと言葉を続けた。
「先輩が私を安心させるためだけに告白してくださるなら、少しだけ待っていただきたいです」
「玲奈……」
「私は先輩に選ばれたいです。見捨てたことへの罪悪感でも、かわいそうな後輩への責任感でもなく、神楽坂玲奈という女の子を好きだから、一緒にいたいと言っていただきたいんです」
俺が考えていたことを、玲奈も同じように考えていた。
すぐに恋人になりたい気持ちはある。それでも、不安を埋めるためだけの言葉ではなく、互いの心が同じ場所へ辿り着いたときに関係を結びたい。
玲奈は俺の返事を求めるように見つめている。
「分かった」
俺は彼女から目を逸らさなかった。
「そのときは、曖昧な言い方はしない」
「……はい」
「玲奈も覚悟しておけ」
意識して告げると、玲奈は息を呑み、顔を両手で覆った。
「先輩……今ので、しばらく生きていけます」
「告白前の言葉で寿命を繋ぐな」
「尊い! 尊すぎる!」
武久が立ち上がり、額のバンダナを涙で濡らし始める。
「今の会話、恋愛映画の最終盤だろ! なんでまだ始まってないんだよ!」
「始まってはいるだろう。ただ、名前がついていないだけだ」
康介は冷静に答えながらも、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
「二人とも、自分の気持ちを理解した上で待っている。それなら外野が急かす必要はない」
「でも早く付き合ってほしい!」
「それについては同意する」
「康介もじゃないか!」
二人のやり取りに、教室へ笑いが広がった。
玲奈も恥ずかしそうにしながら、俺の隣で小さく笑う。
その穏やかな時間を破壊するように、扉が勢いよく開いた。
「まだ付き合っていないなら、私にも勝機があるわ!」
千堂だった。
なぜか片手には巨大な花束、もう片方には拡声器を持っている。
「どうして拡声器を持ってるんだ」
「私の愛を校舎全体へ届けるためよ!」
「没収します」
玲奈が席を立ち、迷いなく拡声器を奪った。
「ちょっと! まだ一言も叫んでないわ!」
「だからこそ未遂のうちに止めました」
「花束は受け取ってくれるわよね、先輩?」
「どこから持ってきた」
「校門前の花屋さんに『恋敵へ敗北しそうな美少女を救ってください』って頼んだら、三割引きにしてくれたわ」
「店員に何を説明してるんだ」
千堂は大きな花束を俺へ差し出したが、あまりの大きさに前が見えていない。案の定、机の脚へ躓き、そのまま俺の方へ倒れ込んできた。
咄嗟に受け止めると、花びらが教室中へ舞う。
「……計画どおりね」
「絶対に違うだろ」
「先輩から離れてください」
玲奈が笑顔のまま、千堂の制服の襟を掴んで引き離す。
「苦しい! 清純派が人を絞めてる!」
「先輩への接触時間が規定値を超えました」
「そんな規則、誰が作ったのよ!」
「私です」
武久は腹を抱えて笑い、康介は舞い散った花びらを拾い始めていた。
恋人ではない俺と玲奈。
諦めるつもりのない千堂。
騒ぎを楽しみながらも、最後には俺たちの背中を押してくれる武久と康介。
誰かの気持ちが綺麗に整理されたわけではなく、恋の答えもまだ出ていない。それでも、以前のように言葉を飲み込み、互いに傷つけるだけの関係ではなくなっていた。
俺たちは迷いながら、少しずつ前へ進んでいる。
きっと青春とは、答えが出た瞬間だけを指すものではない。
告白する前の鼓動も、触れそうで触れない指先も、誰かの言葉に一喜一憂しながら過ごす放課後も、いつか振り返れば何にも代えがたい時間になる。
「先輩」
玲奈が俺の袖を引いた。
「どうした」
「いつか言ってくださる言葉を、楽しみにしています」
「ああ」
「ですが、それまでも恋人のようにおそばにいてよろしいでしょうか」
「周囲からは、もうそう見えてるけどな」
「先輩から許可をいただきたいんです」
俺は少しだけ考えるふりをした。
玲奈の表情が不安に揺れたところで、その手をそっと握る。
「俺も、玲奈にそばにいてほしい」
玲奈の瞳が幸福そうに細められた。
正式な告白は、まだ先だ。
それでも、俺たちの関係はもう始まっている。
恋人という名前だけが追いついていない、甘く、もどかしく、騒がしい青春が。




