第13話 選ばれない痛みを、二人はまだ知らない
美化活動の翌日、校内には一枚の写真が出回っていた。
雨に濡れた体操服のまま、軒下で身を寄せ合う俺と玲奈と千堂。三人とも写真に撮られる準備などできておらず、玲奈は千堂を警戒するように頬を膨らませ、千堂は押し返されたことで体勢を崩し、中央にいる俺は二人の騒がしさに呆れた顔をしている。
整った構図でもなければ、美男美女が青春らしい笑顔を浮かべた写真でもない。
それでも、飾らない距離感がかえって目を引いたらしく、千堂がクラスの友人へ見せたことをきっかけに、瞬く間に別の学年まで広まってしまった。
『学校一の美少女二人に挟まれる謎の先輩』
『清純派アイドルと千堂千鶴の本命』
『地味な先輩を巡る校内頂上決戦』
昼休みには、そんな言葉が俺の耳へも届くようになっていた。
好き勝手な噂に付き合うつもりはない。だが、俺だけでなく玲奈や千堂まで面白半分に扱われる状況は、決して気分のいいものではなかった。
「玲奈、大丈夫か?」
昼休み、中庭の隅にあるベンチで尋ねると、玲奈は弁当箱の蓋を開けながら穏やかに微笑んだ。
「私は平気です。先輩との仲を噂されること自体は、むしろ喜ばしいので」
「俺だけならともかく、千堂まで一緒だぞ」
「そこだけは、写真を消し去りたいほど不本意です」
「全然平気じゃないな」
玲奈は冗談めかして答えたものの、箸を持つ指先は僅かに硬い。
噂そのものよりも、俺と千堂が同列に並べられていることが苦しいのだろう。玲奈は俺から一度離れられた経験を持っている。今は関係を作り直せているとしても、自分より魅力的な相手が現れれば、また選ばれなくなるのではないかという恐怖は簡単には消えない。
「先輩」
「何だ?」
「写真の中で、千堂さんとの距離が近すぎます」
「あれは千堂が勝手に寄ってきただけだ」
「分かっています。先輩に非がないことも理解しています」
玲奈は箸を置き、膝の上で両手を重ねた。
「それでも、胸が痛いんです」
責める口調ではなかった。
以前の玲奈なら、嫉妬を隠して冷たく振る舞い、俺が自分から理由を尋ねるまで待っていただろう。今は痛みを痛みとして言葉にし、俺へ差し出している。
だから俺も、面倒だと笑って流すわけにはいかなかった。
「千堂が俺に好意を持ち始めてることは、俺も分かってる」
「……はい」
「だからって、その感情に流されるつもりはない。今の俺が一番向き合いたい相手は玲奈だ」
玲奈の瞳が微かに揺れた。
「一番、ですか?」
「ああ」
「今だけではなく?」
「未来のことを軽々しく断言はできない。でも、少なくとも千堂が近づいてきたから玲奈を後回しにするようなことはしない」
永遠という言葉で縛るのではなく、今の意思を明確に示す。
玲奈が欲しがっているのは、都合のいい慰めではない。自分が俺の中でどこにいるのかを、曖昧にされないことなのだ。
「ありがとうございます」
玲奈は小さく頭を下げた。
その表情には安堵が浮かんでいたが、不安が完全に消えたわけではない。むしろ安心したことで、瞳の縁には堪えていた涙が滲み始めている。
「私、醜いですね」
「何が?」
「千堂さんが傷つけばいいとは思いません。でも、先輩への気持ちを諦めてくれたらいいのにとは、何度も思っています」
玲奈は自分の胸元を押さえた。
「先輩に選ばれない苦しさを知っているのに、千堂さんにはその苦しみを味わってでも退いてほしいと思ってしまうんです」
「それは醜いんじゃなくて、俺を譲りたくないだけだろ」
「そんなふうに肯定されたら、私はもっと欲深くなります」
「欲しいものを欲しいと言うこと自体は悪くない。ただ、そのために千堂を傷つけるなら止める」
「はい。先輩に止めていただけるなら、間違えずに済みます」
玲奈は俺の肩へ額を預けた。
人目のある中庭でありながら、その行動に迷いはなかった。俺へ触れていることで、今ここにいるのだと確かめているのだろう。
だが、その日の放課後、曇っていたのは玲奈だけではなかった。
教室を出たところで、俺は階段の踊り場に座り込む千堂を見つけた。
普段なら誰よりも堂々と歩き、周囲の視線さえ自分を飾る舞台装置として楽しんでいる少女が、膝の上にスマートフォンを置き、暗くなった画面を見つめている。
「どうした?」
「……別に」
珍しく、声に覇気がなかった。
隣へ座ると、千堂は逃げるでもなく、かといってこちらを見ることもなかった。
「写真のことか?」
「私が見せたのが悪いのよ。友達一人だけのつもりだったのに、そこから勝手に広がって……」
「責めるつもりはない。ただ、消してほしいって言われたら協力しろよ」
「分かってるわ」
素直な返答に違和感を覚える。
千堂はしばらく黙ったあと、スマートフォンの画面をこちらへ向けた。そこには写真とともに、匿名で書き込まれた短い言葉が並んでいた。
『千堂はどうせ玲奈に勝てない』
『横から奪おうとしてるだけ』
『顔は可愛いけど性格で負けてる』
普段の千堂なら笑い飛ばしそうな内容だった。
けれど、どれほど自信家でも、何を言われても傷つかないわけではない。
「私ね、神楽坂に勝ちたいってずっと言ってきたでしょう?」
「ああ」
「可愛さなら負けてないって証明したかった。あの子が何もしなくても愛される横で、私がどれだけ努力しても二番目にされるのが嫌だった」
千堂は笑おうとした。
しかし、その笑みは力なく崩れた。
「でも最近は、学校一なんてどうでもよくなってきたの」
夕暮れの光が、彼女の横顔を赤く染めている。
「先輩に見てほしい。神楽坂に勝ったからじゃなくて、私だから選んでほしいって思うようになった」
その言葉が冗談でないことくらい分かる。
千堂はもう、玲奈への対抗心だけで俺に近づいているわけではない。
「でも先輩は、神楽坂が一番なんでしょう?」
「ああ。今はそうだ」
ここで誤魔化すことは、千堂への優しさではない。
俺が答えると、彼女の睫毛が僅かに伏せられた。
「そういうところ、本当に嫌い」
「悪い」
「謝らないで。嘘を吐かれるよりましだから」
千堂は膝を抱え、額を押しつけた。
「私、負けるのが嫌いなの。努力したのに選ばれないのが、一番嫌い。でも恋愛って、努力した方が勝つわけじゃないのね」
「そうだな」
「そこは少しくらい否定しなさいよ」
「俺が期待させることを言ったら、余計につらくなるだろ」
千堂は顔を上げた。
瞳は僅かに潤んでいたが、涙を零すことだけは意地でも拒んでいるようだった。
「それでも、追いかけていい?」
「俺は止めない。ただし、玲奈を傷つけるためなら拒絶する」
「分かってる。あの子を泣かせて奪ったって、先輩は私を見てくれないもの」
千堂は自嘲するように笑った。
「難しいわね。本気で好きになるって」
「やめたくなったか?」
「まさか」
その瞬間だけ、いつもの強気な光が瞳へ戻った。
「選ばれないかもしれないからって、好きになったことまでなかったことにはしないわ。ただ、今日くらいは落ち込ませて」
「ああ」
「慰めるために抱き締めたりは?」
「しない」
「即答されると腹立つわね!」
ようやく千堂らしい声が戻り、俺は少しだけ安心した。
階段の上には、いつからいたのか玲奈が立っていた。
俺たちの会話を聞いていたらしい。千堂を見る瞳には警戒と嫉妬が残っている。それでも、勝ち誇るような笑みは浮かべていなかった。
「千堂さん」
「何よ。哀れな敗北者を笑いに来たの?」
「いいえ」
玲奈はゆっくり階段を下りると、俺を挟まず、千堂の正面へ立った。
「私は先輩を譲りません」
「知ってるわ」
「ですが、あなたの気持ちを偽物だとも思いません」
千堂が驚いたように顔を上げる。
「私は、先輩に選ばれないことがどれほど苦しいか知っています。だから同情はしません。同情できるほど、あなたに先輩を近づけたくありませんから」
「正直ね」
「はい。あなたには諦めてほしいです」
玲奈は真っ直ぐに告げた。
「それでも諦めないと言うなら、私も逃げません。先輩を縛って勝つのではなく、先輩に私を選び続けてもらえるように向き合います」
それは恋敵への宣戦布告であり、かつての自分自身への決別でもあった。
千堂は数秒間黙ったあと、目元を拭いながら立ち上がった。
「いいじゃない。ようやく対等に喧嘩できそうね」
「恋愛は喧嘩ではありません」
「私にとっては戦争よ」
「先輩に迷惑をかけない範囲にしてください」
「それは努力するわ」
「断言してください」
二人の間に、以前とは少し違う緊張が生まれる。
互いに傷つき、互いに選ばれない怖さを知りながら、それでも自分の感情から逃げない。
青春とは、きっと綺麗な思い出ばかりではない。
誰かを好きになれば、選ばれる喜びと同時に、選ばれない痛みも生まれる。その痛みを知らずに、都合よく全員が笑うことなどできない。
それでも俺たちは、関係そのものを投げ出さなかった。
玲奈は俺の右隣へ立ち、千堂は少し迷ったあと左隣へ並ぶ。
三人で歩き出した廊下には、夕暮れの長い影が伸びていた。
その影は途中で重なり、また離れながら、まだ答えのない未来へ続いていた。
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