第11話 放課後の教室で、青春は少しだけ本音になる
放課後の教室という場所には、昼間とは違う種類の静けさがある。
授業中には教師の声が響き、休み時間になれば生徒たちの笑い声で満たされていた空間も、下校時刻が近づけば徐々に人の気配を失っていく。窓から差し込む夕日は机や椅子の輪郭を長く伸ばし、黒板に残された白い文字さえ、どこか名残惜しそうに見えた。
俺はそんな教室の最後列で、一人、配布物の仕分けをしていた。
担任に頼まれた単純な仕事ではあるが、学年ごとに枚数を分けなければならず、思ったよりも手間がかかる。断るほどの理由もなかったため引き受けたものの、廊下から聞こえる運動部の掛け声を聞いていると、俺だけが青春から少し取り残されているような気分になった。
「先輩、まだ終わらないんですか?」
教室の入り口から、玲奈が顔を覗かせた。
委員会の仕事を終えたばかりなのだろう。鞄を胸元で抱え、こちらの様子を窺っている。以前の彼女なら、俺が何をしていようと興味のないふりをして通り過ぎていたはずだが、今は俺が教室に残っていると知れば、迷うことなく待ちに来るようになった。
「もう少しかかる。先に帰っててもいいぞ」
「嫌です」
間髪を入れない返答だった。
「先輩を一人で残して帰ったら、その間に千堂さんが来るかもしれません」
「基準が全部千堂なんだな」
「現在、校内でもっとも警戒すべき人物ですから」
玲奈は当然のように教室へ入り、俺の隣の席へ座った。
窓から差す夕日が彼女の黒髪を淡く透かしている。学校中から清純派アイドルと呼ばれるだけあって、何もせずそこにいるだけでも絵になる少女だった。
けれど俺が見ていたのは、そんな整った横顔だけではない。
鞄を抱える指先が何度も動いていること。何かを言いたそうにこちらを見ながら、そのたびに言葉を飲み込んでいること。俺の仕事が終わるのを待っているというより、二人きりになれたこの時間をどう過ごせばいいのか迷っていること。
以前なら、俺も気づかないふりをしていたかもしれない。
だが今は違う。
「何か話したいことがあるのか?」
俺が尋ねると、玲奈の肩が僅かに揺れた。
「どうして分かったんですか?」
「さっきから落ち着かないから」
「……先輩は、やはり私のことをよく見ていますね」
玲奈は嬉しそうに微笑んだものの、その笑顔はすぐに薄くなった。
「最近、少し怖いんです」
「千堂が?」
「それもあります」
「あるのか」
否定してほしかったが、玲奈は真剣に頷いた。
「ですが、それだけではありません。今は先輩が私を見てくださって、朝も一緒に登校して、お昼も食べて、放課後もこうして待たせてもらえています」
「待たせてるのは俺だけどな」
「私が望んで待っています」
玲奈は机の上へ視線を落とした。
「幸せになればなるほど、また失うのが怖くなるんです」
夕暮れの教室に、彼女の静かな声が落ちる。
「前よりも大切にしてもらえていると分かります。先輩が言葉にしてくださることも、私の気持ちを否定しないでいてくださることも、全部嬉しいです。だからこそ、もしこれがなくなったら、今度は立ち直れない気がして……」
玲奈は以前より素直になった。
けれど、素直になれば不安そのものが消えるわけではない。むしろ一度失った経験があるからこそ、手に戻った温もりへ強く縋りたくなるのだろう。
俺は配布物を机へ置いた。
「玲奈」
「はい」
「先のことを絶対に保証するのは無理だ」
玲奈の表情が曇った。
それでも俺は、耳触りのいい言葉だけを選ぶつもりはなかった。
「俺たちがこれから一度も喧嘩しないとか、何も間違えないとか、そういう約束はできない。人間同士なら、またすれ違うこともあると思う」
「……はい」
「でも、次は黙って他人になったりしない」
玲奈が顔を上げた。
「玲奈も、冷たくして試したりしない。俺も、一人で結論を出して離れたりしない。何かあったら話す。嫌なら嫌だと言うし、大切なら大切だと言う。それなら約束できる」
彼女の瞳が揺れる。
派手な言葉ではない。
永遠に離れないと誓ったわけでも、何があっても守ると大仰に宣言したわけでもない。それでも、俺にできることを誤魔化さずに伝える方が、今の玲奈には必要だと思った。
「先輩は、将来の幸せではなく、今の私との向き合い方を約束してくださるんですね」
「未来は今の積み重ねだからな」
「……格好いいことを、平然と言いますね」
「普通のことだろ」
「普通の人は、そんなふうに人を安心させられません」
玲奈はそう言って、小さく笑った。
その笑顔は、誰かに見せるために整えたものではない。弱さを見せたあとに、俺の言葉を受け取って自然に浮かんだものだった。
俺はその表情を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
玲奈が俺を好きだということは分かっている。
そして俺も、彼女をただの後輩として見ているだけではない。
以前はその感情に名前をつけることを避けていた。傷ついた直後に恋愛として受け入れれば、互いの寂しさを埋めるだけの関係になるような気がしたからだ。
けれど、今こうして玲奈の不安に向き合い、彼女が笑うだけで安心している自分を見ると、答えはすでに近くにあるように思えた。
「玲奈」
「はい」
「俺も、玲奈がいなくなるのは嫌だ」
彼女の目が大きく見開かれる。
「だから一方的に守ってやるとか、玲奈だけに変われとかは言わない。俺も変わるし、玲奈にも付き合ってもらう」
「……それは、告白ですか?」
「まだ違う」
「まだ、なんですね」
玲奈は残念そうにしながらも、どこか嬉しそうだった。
「でも、期待してもいいんですか?」
「期待させるようなことを言ってる自覚はある」
「本当に鈍感ではないんですね」
「分かってて言ってる」
俺が答えると、玲奈は両手で頬を押さえた。
耳まで赤く染まり、机へ突っ伏しそうになるのを必死に耐えている。これまで俺へ向けてきた激しい愛情とは違い、真正面から好意を返されたことで、今度は本人がどう反応すればいいのか分からなくなったらしい。
そんな空気を破壊するように、教室の扉が勢いよく開いた。
「青春の匂いがしたから来たわ!」
千堂だった。
「嗅覚で人の会話を探すな」
「比喩よ!」
千堂は堂々と教室へ入り、俺たちの間にある机へ鞄を置いた。
「二人きりで良い雰囲気になるなんて不公平でしょう。私も混ぜなさい」
「帰ってください」
玲奈は即答した。
「嫌よ。青春は人数が多い方が盛り上がるもの」
「あなたが入ると騒動になるだけです」
「それを青春って呼ぶのよ!」
「呼びません」
二人が睨み合う中、俺は千堂の鞄から覗いている紙に気づいた。
「それ、何だ?」
「これ?」
千堂は一枚の用紙を取り出し、誇らしげに広げた。
そこには大きく、『三人で放課後青春計画』と書かれている。
「映画を見る。ファミレスで恋愛相談をする。河川敷で将来を語る。学校帰りに寄り道をする。青春らしいことを全部やるための予定表よ!」
「予定を組んだ時点で青春から遠ざかってないか?」
「無計画な若さは事故の元よ!」
「破天荒なのか堅実なのか、どっちなんだ」
千堂は胸を張った。
「来週、校内で美化活動があるでしょう? クラスも学年も関係なく組めるらしいから、三人で参加するわよ」
「どうして俺たちまで」
「放課後の共同作業。汗。夕日。飲み物の回し飲み。恋が動く条件は揃ってるわ」
「最後の一つは絶対にやりません」
玲奈が俺の腕を確保する。
「先輩と回し飲みをするのは私だけです」
「そこは否定しないんだな」
「当然です」
くだらない言い争いが教室に響く。
それでも俺は、不思議と嫌ではなかった。
静かな放課後に玲奈の本音を聞き、千堂が勝手に騒動を持ち込み、三人でどうでもいいことを言い合う。少し前までの俺なら、こういう時間を面倒だと思って避けていたかもしれない。
けれど今は、これも悪くないと思える。
青春というものが、特別な才能や輝かしい出来事だけでできているのではなく、誰かと本音を交わし、ときに面倒な関係へ巻き込まれながらも、その時間を捨てたくないと思うことなのだとしたら。
俺たちはまだ何者でもない関係のまま、しかし確かに互いを選び始めている。その事実だけが、夕暮れの教室に静かに残っていた。
そしてその先に続く日々が、ただの延長線ではなく、もう一度名前をつけ直すための時間になるのだとしたら——その始まりは、きっと今この瞬間だった。
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