五話目 山羊の亡霊
日が傾いているのが、高い建物に囲まれた中庭でも分かった。
どこに行っていたのか、女生徒の三人組が廊下の向こうから戻ってくる。
日暮れまでに教室に戻ること。部屋から出る前に神部が約束事として提案した。
太陽が隠れた後、謎の影から身を守ってくれるのはパソコンの画面に映された紋章しかない。話しながら歩いているにもかかわらず、その速度は普段では見られないものだ。
紋章の効果と言えばもう一つ変身の件だが、日中ずっと中庭にいたにもかかわらず、上向の獅子姿も阿戸鳴の半人半馬も元に戻る気配はない。
コンピュータ教室に通じる扉を開くと、一人で留守番をしていた雁瀬先生がそのままの姿で奥に座っていた。違うところと言えば本の重なり方とメモ用紙が増えていることぐらいだ。
「もう日暮れかい?」
本に語るように声がかけられた。顔を上げずとも一同が戻ってきたことに気付いたらしい。
時計を見ると、十八時を表示していた。
「まだ傾いている程度です」
上向が返事をすると、神部が首をかしげる。
「これ、先生だったのか?」
四つん這いになった上向の遙か頭上から指を指す。そういえば女子には朝から会っていない。
しかし、予兆も情報もあったわけだから、予想は付くだろう。無量が驚いた声を上げる。
「かんちゃん鈍すぎない?」
同じ女子でも無量も一応場木も気付いていたようだ。しかし、気付いていなかったとは……突然現れた得体の知れない獣と一緒にいられるなんて神部の神経はさぞ図太いものだろう。不用心とも言うが。
教室内に入り、扉を閉める。
例の影にとって壁という概念が無くとも、閉め切られた明るい部屋には安心感があった。
雁瀬先生の前と教卓、阿戸鳴の前。いくつかのパソコンが件のページを表示している。
あいかわらず場木と蟹座の無量は近づかない。
彼女たちの席から一席空けて神部はパソコンをつけた。彼女は変身に抵抗を見せていない。
「神部さんは自分の星座が怖くないのですね」
まあなと腕を組み、椅子に体を預ける。
「双子座だからな。安佛が何ともないし、それに、なんか体が軽くなった気がするしな」
へへっと右口角をつり上げて笑った。
対して安佛の方は口角を下げて口を半開きにする。
「神部とさ、同じとか」
やーい双子族とからかう阿戸鳴に制裁を与えると安佛の不満顔は治った。
「今日のかんちゃん絶好調だったよね。生えてる木を拳で真っ二つだもん」
遠くで無量が冷めた目で返す。それを聞いた教室内が声もなくざわつく。どんな木を相手にしたのかは分からないが、生木を割るとなると尋常ではない力がいる。一女子が軽々やって良い所行のはずがない。いくらメスゴリラと揶揄されるような神部でもだ。
「双子座って人じゃないから。凄い人になれるのかな」
うらやましげにぼそぼそと場木が続けた。
殻にこもるように昨日渡したスーツの上着を頭にかぶって机に突っ伏す。その体勢が気に入っているらしい。襟の奥からうっすら覗く顔はご満悦だ。
出来れば人間に戻りたい上向は、教卓のパソコンから少し距離を置いて視界に入らないようにしていた。
ちょうど生徒達が挟んでいる机の正面なので、それぞれの行動がよく見えている。
がうんがうんと繰り返す音が響いた。緩い扉のせいか音が反響したので、人間のするノックの音だと気付けず、緊張の糸が目に見える程教室内の空気は張り詰めた。
少しの間の後、安佛が扉に向かい叫んだ。
「誰なのさ」
その言葉に、扉を挟んだ向こうにいるのが人間らしいとやっと気付いた生徒達はいつの間にやら止めていた息をゆっくり吐いた。
しかし返事が返ってこない。
またも重い沈黙に支配され始めた頃、しとやかな女性の声が聞こえた。
「開けていただけませんか」
全員が顔を見合わせる。しかし、見合わせた事自体が承認と受け取ったかのように阿戸鳴は扉に近づき、ゆっくり開いた。
外はすでに暗くなっていた。
細身の女性が立っていた。肉付きが薄い割に一重で眠たそうな目をした女だ。彼女の纏う土色のワンピースは足を隠すように丈が長く、細身に沿って絞られている。
どことなく寒気を纏っているのは、頭に付いた螺旋状の角だけではなさそうだ。
「ああ、面と向かい、人にお会いしたのは久しぶりです」
嬉しそうに口元をほころばせる角付きの女に対し、どう対応を取るべきかすぐ判断できる人材は居なかった。
長い裾が動きを遮るのか、女は腰から下をほんの少しずつ動かしながら阿戸鳴の正面まで来る。
「あなたは、人間ですね」
優しい動作で挙げた右手を阿戸鳴の腹に当てかけて、直前で止めた。
「眩しいですね、あふれる太陽の力」
清楚な手を自分の胸の上で重ね、うっとりと阿戸鳴を見上げた。
「あんたさ、誰なのさ?」
彼女の動作に横やりを入れたのは目前で動けなくなっている阿戸鳴ではなく、安佛だった。
たおやかな動きで首を回し、安佛のほうへ目線をやったが、すぐに視線を落としてしまう。
「突然失礼をいたしました。昨日急に皆様が現れたとお聞きしましたので、つい興奮してしまいました」
私ったらと両手でほんのり色づいた頬を押さえる。
「私は……マレフィキにございます」
外国の人か。変わった名前だなぐらいの認識だった。その中で一人だけ、尋常ではない反応をする。
「扉を閉めるんだ!!」
青ざめた形相で叫んだのは奥にいた雁瀬先生だった。
大声にひるんでか、我に返った阿戸鳴は命令を無視して雁瀬先生の方を向く。
「ゴーストの元締めだよ」
いつものとらえどころのない先生とは全く違う、焦った叫びの中に含まれた単語は場を凍らせるのに十分な力があった。
「ああ、軽率でした。名前をお伝えするのは間違いでしたか」
敵意を受け取ったのか、おろおろと憂いの表情をみせる。
それと同時に、目の色に影が差した。
「けれど、目的を果たさずに帰るわけには参りませんの」
たんと地を踏む音がして、マレフィキと名乗った角女のスカートがほどける。
残酷な光を宿した目が標的を捕らえた。
低くかがんだと思った次の瞬間には、姿を消した。
「せめて、一人だけでも」
声に気付いたときには、無量のすぐ後ろに角の生えた獣が二本足と尾びれで構えていた。
「お前になんか、指一本触らせてたまるか」
三席分と離れた席からだったが、一足で近寄った神部がこぶしを振りかぶる。
「ごめんなさい、あなたに触れるわけにはいきませんの」
軽やかな動作で、身をかわす。
「今は、でございますけど」
ぴょんぴょんと教室内を跳ね回る。
部屋の隅に積んであった書籍を踏んで蹴飛ばす。勢いの付いた技術書達はまっすぐ神部へと飛んでいく。
「こんなもんでどうするつもりだよ。時間稼ぎか?」
狭い空間のせいで避ける事はせず、こぶしで払う。痛みは今のところ感じていない。
「勘はよろしいようですが、おつむはあんまりでございますね」
薄い本を挟んで蹄で蹴りを仕掛けてきた。触れたくないという言葉を鵜呑みにするなら、紙をクッション材にしたのだろう。
本だけを別方向に飛ばそうと腕を振ったが、目測を誤り空振りする。
その無防備な肩に本が当たり、蹄が食い込み、踏み切ったのかマレフィキはまた宙に返る。
蹴飛ばされた神部の方は、その威力で床に倒れた。その背中に獣がまた降りかかる。
触れたくないと言っていたはずなのに、前足が背骨の上に容赦なく降りる。服の上から踏みつけられ神部は悶絶した。
先ほどの本を挟んだ蹴りの時とはその衝撃に天と地ほどの差があることが傍から見ていても分かる。
神部はすでに意識を失っていた。
「選んでいられませんね。それでは」
肩に右前足を置き、徐々に体重をかけていく。
それだけで気を失っているはずの神部の顔色がみるみる血の気を失っていく。
見ていられなくなって、無量はノートを手に取り丸めると虫と戦うときのように振りかぶった。
「何をなさるおつもりで?」
冷酷な目に捕らえられ、動きが止まった。
終わりかと思いきや、無量はぎゅっと目をつぶり、なぎ払った。
「アタシの友達を渡すもんですか」
ノートは空振りしたものの、開いた目には決心が宿る。
そんな無量と獣の間に教卓を飛び越え、颯爽と黒い姿が割り込む。
神部から角獣を遠ざけようと獅子は前足を振る。
「こちらのお方も、人間」
後ろに跳びずさったマレフィキはなにやら悩んだ様子で上向を見つめ返す。
「お溜めになった力にしては、随分とお変わりですね」
神部にしたように、本などのそこそこ軽量なものを蹴飛ばしてぶつけに来る。
結局、日中に受けた運動の誘いを拒否した上向は体が上手く動かないのでされるがままに飛んでくる物をぽこぽこ全身に浴びた。
「いい加減にしてもらえませんか」
繰り返される地味に痛い攻撃に怒りがこみ上げた上向は前足を上げる。いくらか動きやすい。二足歩行で近寄り、体をひねると体重をかけて殴った。
それでも動作が遅いせいで軽々避けられてしまう。
ぴょんと狭い教室を器用に飛び跳ねる。
しかし、行き当たりばったりの行動は策に填められた。その獣に付いた魚のような尾ひれを雁瀬先生の両腕が捕まえた。
「焼ける、ああ。放して」
なまめかしい様にも聞こえる悲鳴を上げる。
「山羊の亡者。君には試したいことができたね」
みるみる女性の姿へと変貌する角有り半獣半魚。どちらが悪役か分からないような絵面にまでなってしまった。
「あなたの企みは承諾しかねます」
完全に元の土色ワンピースを纏う女性に変貌してしまったマレフィキは俯きながら足をよじった。
抜け出そうとしているが、雁瀬先生の方も逃すまいと力を入れる。
ばちんと平手打ちの音が響いた。頬を叩かれたというたったそれだけの事なのに、ひるんだ雁瀬先生は手をゆるめてしまった。
「知らぬまま、消えてしまえば良ろしかったのに」
するりと拘束を抜け、女はひとっ飛びに扉まで向かった。
そしてそのまま、闇夜に姿を消した。




