四話目 完全変態
すでにパソコンの隅に表示されている時刻は二十時をとうに過ぎていた。
かつて教職は聖職と呼ばれ、朝起きてから眠るまで、指導者として模範的であるように求められていた。しかし、現代は労働組合との闘いがあり、先生だって人間になった……全国統一でその通りとは言い切れない節もあるが。
そういえば、先週もこのくらい普通に居残りして指導案とか授業準備とかやってたなあと思い返す。雁瀬先生も何も言わず遅くまで付き合ってくれていたというか、他の雑用もこなしていて、上向よりも帰る時間は遅かった。
湧き上がる眠気を我慢しつつ、上向は明日の授業の準備をしていた。
明日になれば何事もなかったかのように日常が始まるかも知れない、その時用意していませんでしたでは生徒達に申し訳が立たない。というのは建前で、その実、現実逃避だった。
雁瀬の実験を丁重にお断りしたときの後付け理由でもある。
何が悲しくて獣になんかならなきゃいけないのか。
当の雁瀬先生は図書室から持ってきた大型本をゆっくり読んでいる。あまりページを繰る様子がないのは一ページ辺りの文字量が多いせいだ。英文をすらすら読む姿はうらやましい。
生徒達は暇そうに話し続けたり、パソコンをいじったり。
そろそろ眠いのか、神部がうつらうつらと眠そうな目をこすっている。
「ダメ、眠い。いつも九時には寝てるんだ」
話の輪から離脱して、キーボードをどけると机に突っ伏した。
「かんちゃん朝早いもんね」
「電気、切った方が良いかな」
場木の一言で場が凍る。
「い、いや、いいよ。明るくても騒がしくても眠れるから」
わざわざ体を起こし、神部が否定した。
引きつった作り笑顔には去ったはずの恐怖が表れている。
「でも、私、明るいと眠れないの。できたら、切って欲しいなって」
尻すぼみになりながら、うつむいた声が響く。
弱々しい姿に負けてなのか、言い返すことが出来る人はいなかった。
「……僕の上着で良ければ、目隠しに貸しますよ」
汗が臭わないか心配で声をかける前にさりげなく確認した。大丈夫。朝に念入りにかけた爽やかシトラスな制汗剤のにおいしかしない。多分。
対して場木はあわあわと両手をふるう。
冬服の間なら他に貸してくれる人がいただろう。それ以前に、自分のブレザーを使えばいい。しかし、今は衣替え後だ。上着を着ているのはやせ我慢していた上向しか居ない。
「……りがと、ござます」
虚空の何かと戦っていた場木は細い声を上げながら、やっとの事で受け取った。
その目はまだ眠くないんだけどなと語っていた。
翌朝、上向が目覚めた時にはすでに眼前のパソコンは十一時を告げていた。
昨日眠りについた時刻は憶えていないのだが明らかに眠りすぎだった。
しかし、なぜこのパソコンに電源が入っているのか、授業準備は基本的に手書きで行っていた上向には昨晩このパソコンを使った憶えはない。
画面全体を見回すと、悪意を感じた。
枕代わりにしていた両手を見る。真っ黒な毛に覆われた太くて短い獣の腕だ。こんなふかふかが枕だったんだから寝過ごすほどの快眠にも納得できる。
いや、そうじゃない。
「誰だ、パソコン使って変身仕掛けてきたのは」
両手をついてがうと吠える。
「わっしだよ」
注意しようと意気ったのに、無関心をそのまま表したような姿で本のページを繰りながら手を挙げる雁瀬先生に出鼻をくじかれた。
「勘弁してくださいよ」
くだんのページを表示する画面から離れる。相変わらず体は歪んでいた。足で立つと前後にふらふらする。
「今、日が照ってるから、ブラウザ閉じても大丈夫」
留守中の停電騒ぎのことを指しているのだろう。
得意げに昨夜の実験成果を語り出す。
「ゴーストって単語、注意書きにあったでしょ? それと同じ単語がこの本に載ってたんだよ」
こんこんと中指で大型本の表紙を叩く。
「多分みんなが見た濃い影のことだと思うんだけど、本によるとゴーストは太陽に弱いらしいよ」
ありふれた弱点を茶化すことなく至ってまじめな顔で語る。
「太陽に弱いんだけど、太陽の力を求めるって。人間は太陽の力を内に隠している状態だから、ゴーストにとって人間は栄養剤のカプセルみたいなかんじかな」
お食事代わりになり得るんだよとため息をついた。
「生徒達が言ってた、場木さんの足が消えたって言うのは」
「本格的に襲われていたみたいだね」
得体の知れないものがこの身を飲み込むかもしれない。一瞬、影にとらわれる姿が脳裏
をよぎった。
「画面の隅に映っているマークとこの本に載ってた太陽の紋とがおなじだったんだ。この紋は太陽の代理品らしいよ」
ぺらりとページをめくる。上向にその紋を見せてくれるわけではなさそうだ。
「実際、朝にパソコン全部電源落としてみたけど、停電も変な影もなく平和そのもの。そうそう、今日は快晴だよ」
人が寝ている間に何て危険な実験をしてくれたんだ。
文句をたれる前に、教室内の人口があまりに少ないことに気付いた。
「生徒のみんなはどうしました?」
「今日は快晴だからね。外ではしゃいでたよ」
非常に自由な人だ。いつまでも寝ていた身でいえるものでもないが。
「ふむ、完全に獣になったね。獅子座だっけ。二足歩行が辛そうだが」
やっと顔を上げて上向を見た。
本をたたみ、机の上に置く。
「画面の前で君を四時間放置したわけだが。どれくらいで戻るのかな」
寝ていないのかいつもより血の気の無い顔で、うっすら笑うので、雁瀬先生がすでにゴーストに飲み込まれたのではと不安になる。
「阿戸鳴はどうなんですか」
「全然戻らないね。今も外でギャロップしてる。ほら、足音が聞こえてる」
黙って耳を澄ませると確かに地を蹴る音がする。
「結局、阿戸鳴は一晩中あの画面の前で寝ていたからね。何時間になるんだっけ」
面倒臭そうに指折り数え始めた雁瀬先生に付き合いきれなくなって、上向は外に出た。
相変わらずふらふらする姿勢に四つん這いになろうか、人の尊厳を保とうかと悩みながら廊下から中庭を覗いた。低い石壁に前足をかけるとちょうど良い姿勢になったので少しこのままでいよう。
教室で聞こえていた音はすぐそこで発せられていた。
中庭で阿戸鳴がカーブを描いて軽く走っている。
「うわ、先生っすよね」
驚いて壁に張り付いていたのは安佛だった。
「そうですよ」
声をかけると意思疎通が出来てほっとしたようだが、それでも警戒の色は強い。
「……噛みついたりさ、そのさ、しないよな」
ため息が出た。
「しませんよ」
何が悲しくて人なんぞ食べにかかるのか。そういえばおなかは空かないな。
「驚いた。ここまでライオンになるんすね」
お手、と右手を差し出してくるので無視することにした。
「肉球とかさ、出したりさ、してくれませんか」
「しません」
やはりこいつの目的は手のひららしい。
猫科は爪が伸縮自在と聞く。今は出来ないが上手に出来るようになったら是非安佛をひっかこうと思う。
「阿戸鳴、随分上手くなったな」
「体の使い方すか?」
拒否されたのが寂しいのか悲しげに阿戸鳴の方を見やる。
「結構スピード出るみたいでさ、スリルーって叫びながら全力疾走してましたよ、さっき」
自分で走っておきながら、ばかげた絶叫だなと聞き流す。
上向に気付いたのか、機嫌良く走っていた阿戸鳴が一度、急停止するとゆっくり歩いてきた。
「センセーなのか」
獅子がこくりと鼻を上下させると、慌ただしげに振り向いて叫ぶ。
「俺、おいしくないよ。馬刺しとかおいしそうだけど」
「食べませんし噛みません」
外見のせいだとは分かるが、こいつらはなにを考えているのか周期的に心配になる。
「おう、センセーおこんないで」
へへへと笑って上向の頭をなでてくる。
「もふもふじゃん。ちょっと硬いけどすげーいいな」
まじでと安佛も参戦。横からヘッドロックを仕掛けるように撫でてくる。
止めろと前足で払おうとするが、体を支えるのに神経を使っているのであまり効果はない。第一、体が上手く動かせない。
「センセーまだ慣れて無いっぽいな」
俺と走ろうぜと陽気に誘ってくる。
動かしている内に体に慣れてくるってと手本に駆け足を見せてきた。
正直、運動は嫌いだ。上向は面倒臭そうに引っかけた前足へあごを乗せた。
「僕は良いですよ、この姿勢が楽みたいなので」
「四足歩行難しいっしょ。でも、俺の足とはまた別もんか」
ふむと上体の前で腕組みをする。
「僕のこれは手と同じような感覚ですよ」
ライオンは右手を挙げて見せた。握ったり開いたりしてみると、短い指がすこしだけ反応する。
「俺、腹にもう二本腕が生えたかんじ」
足じゃなくて腕なのは器用に動かせるからだと片足を曲げて見せた。
「上向先生もさ、阿戸鳴もさ、いいよな。俺さいまいち変身の実感とかさわかないんだよ」
腕の話をしていたからか、安佛は手を握ったり開いたり繰り返す。
「人型のくせに何をうらやましいことをほざくんですか」
「だってさ、せっかくならさ。何か、普段の自分とは違うものがいい」
心底どうでも良い悩みに、贅沢なと心の中で毒づく。
「妥協点だ、阿戸鳴。背中に乗せてさ、走ってくれよ」
「え、なんの話」
廊下にいた安佛が低い石壁をよじ登り中庭側へ飛び降りる。
「隣に立つとさ、高いな」
馬の胴に手を当てる。さてどう登ろうかと思案中だ。
胴に両手をかけ、地面を蹴った勢いでよじ登ろうとするが、上手くいかなかった。
ずるずると引っかかりのない手が体を滑る。
仕方なく阿戸鳴が足を折り身を屈めた。
「こんな馬さ、そういないよな」
「返事してくれる馬なんていねえよ」
今度は軽々とまたがった。
何か楽しそうだなと目を伏せていた上向も気になってきたのか片目を開ける。
「上下の振動が激しいから、座んなよ。肩に手え置いて、ひざを締めるようにして」
阿戸鳴の指示通り、安佛は姿勢を合わせ始める。
「立つぞ、いいな」
返事を聞く前に立ち上がる辺り、阿戸鳴らしい。
「おっけーたっけー。落とすなよ」
「落とされたくなかったら落ちんなよ」
意味の分からないやりとりをしつつ、歩き始めた。安佛の体がぐらんぐらんしている。見ていて怖い。しかし、みるみるうちに安定感を得て、阿戸鳴の肩に体を乗り出すような体勢に落ち着く。
「おっけー走れ!」
「いっくぜ」
安佛の安定を感じ取ったのか、阿戸鳴も嬉しそうにステップを踏み出した。
最高潮といった様子で、調子に乗りまくっているのは遠目に分かる。
「くらえ、全力疾走!!」
「スーリールうう」
あほうがいる。
「あー面白かった」
人馬が止まったことを確認すると、胴の上に足をそろえ、ぴょんと飛び降りた。
着地の衝撃を上手くひざで緩和させ、格好いいポーズを取る。
完璧と言いたげに安佛自身が鼻で笑った。
なかなかの高さのはずだが、ずば抜けた身体能力だ。格好いいポーズのセンスはもう少し磨いた方が良いだろう。




