二十二話目 天使の息吹
長い間教室内は平和だった。それが太陽の紋に守られていたせいだと憶えている者はいない。
そして、陽幸に近づけない影の存在を憶えている者もいなかった。
知らぬうちに拠り所となっているこの教室は、絶対の砦であった……
そんな砦は負傷兵の休養所。
中には戦えぬ者ばかり。
突然ドアを連打する音が響いた。
「また雨っすか」
安佛は上を見ながら呟いた。
戸を叩く音は昼間の豪雨を思い出させる。あれも酷かったが、それにまして乱暴な音がする。
「雨戸とか無いから。怖い」
場木も心配そうに戸を見つめた。
どどどどと豪快な音は初め扉の下を叩き、だんだん上へと上がってくる。はめ込まれたすりガラスに黒い固まりが横殴りの雨のようにたたきつけてきた。
「雨じゃねえぞ、ドアから離れろ!」
一番扉に近かった阿戸鳴と安佛は危険をいち早く察知しドアから逃げるように教室の奥へと走った。
ドアに視線が集まり、誰かがつばを飲んだ音が聞こえるほど教室内は静まった。
そして、皆に見守られながら重みに耐えきれなかった扉が一枚内側へと倒れ込んできた。
なだれ込んでくる真っ黒の固まり。粘度の強い液体のような動きをする。
よく見ると、外部から順に溶けている。外側が溶けても、内側が侵入してくる。そうしてどろりとした影は動けなかった上向と付き添いの蓮村と場木の足下へ徐々に迫ってくる。
「先生!場木!」
飛び出しかけた神部を蟹が長い足を使って引き留める。
「ダメ、かんちゃん。今陽幸無いんでしょ」
神部は悲痛な顔で助けの必要な実習生と目の前の赤土色の足と、それから自分の足を見つめてあまりの悔しさに歯を食いしばった。
「あ……安佛!」
うつむいて悔しさのあまり頭を振りながら、頼るべきただ一人を指名した。
指名された方は驚いた様子で、神部と実習生を交互に見る。足がすくんでしまっている。
「安佛。蹴散らせ!」
再度号令がかかった。
隣で阿戸鳴が不安そうな顔をしている。
歩けない場木は影に対し尾びれで応戦している。
叫び声を上げながら机をまたぎ、安佛は突進した。
単調な叫び声は教室中の注目を集める。
「黄金の鎧っすー」
腕を広げながら意味不明な単語を口に出して、影の固まりに突っ込んでいった。
影は分断された。安佛は雪崩のような影の流れに立ち向かっている。
上向の寝台に近づく、取り漏らしの小さな固まりは場木が尾びれで払う。
それでも影はとどまることを知らない。安佛が消し漏らす影は増えていき、場木だけでは払えない。
蓮村も応援に入る。
応援では足りない。蓮村は生徒達に危害を及ばせないと決意を固めた。
一つ一つこの小さな蹄で踏むのではきりがない。壁を作るのだ。
大きな壁を。扉の穴をふさいでしまえるほどの壁を。
蓮村は頭を低く下げた。
水を飲むような動作。実際には床に鼻を押し付けた。
すると水面に波紋が広がるように、侵入してきた影が消し飛んだ。
場木は綺麗になった足下に驚き、全身の前面が影に埋もれていた安佛も姿を現した。
教室の外にいる分には効果がない。だらだらと再度教室内に流れ込んできた影は二度、三度と同心円状に消し飛んだ。
牛は姿を変えていた。
真っ白な毛皮は装飾品で飾られ、瞳は虚空を写していた。
鼻を床から放すと、そっと足を一歩踏み出す。その足取りは羽より軽く、浮いているようにも見えた。
それがまた一歩踏み出す。姿勢がよくなる。二足歩行。人の姿を取り始めた。
蓮村だったはずの神々しい女性はスーツなど着ておらず、装飾品で飾られた優雅な姿で手を伸ばした。
「先、生?」
隣の場木など視界に入っていない。
そのうつろな目は、何も写していない。それでもその手はまっすぐ、意識の戻らない上向に伸ばされている。
優しく頬を撫でるように包む。女性はゆっくり息を吸った。
その息を上向の額に吹き掛ける。初めは耐えていた彼の剛毛も神々しい息吹に負けた。
ふわりと前髪が後ろに流され、上向は顔をさらす。
けれどその顔はみるみる黒い毛に覆われる。鼻口が出っ張りはじめ、あごがたくましくなる。
変身。
上向は陽幸を取り戻した。
「あーらあらあら、天使化なさいましたのですね? 見上げたものでいらっしゃいますこと」
高音域の少し疲れた声が聞こえた。
あそこだと安佛は空を指さす。
我も我もと生徒達は入り口に集まった。
天女のごとき影を落とす女性が明かりの少ない空に浮いていた。
「負傷兵を囲う砦に現れたのが白衣の天使。夜伽話のようでワタクシは好きですわ」
宙を舞うその姿は非常に穏やかで、けれど、言葉の端々にトゲがあった。
「ほおら、早く傷を治してもらいなさい。敵はいつでも攻めてきますのよ」
月を背負った影が人差し指を立ててにこりと笑ったような気がした。
言い得ぬ悪寒に、まず神部が行動を起こしていた。
「蓮村先生、その息吹やってくれ」
うつろな目は神部を映さないが、それでもゆっくり息を吸う。
その抜け駆けを見た阿戸鳴が雁瀬先生の腕を引っ張りながら割り込んだ。
「いやいや、雁瀬先生が先だろ」
息吹は頭上を優しく駆け抜けていく。
「阿戸鳴お前」
馬に蹴飛ばされた神部は怒りを燃やす。
「悪かったよ、そんなつもりはなかった」
変身した際、阿戸鳴のすぐ後ろに立っていた神部は伸びた馬の胴にはね飛ばされた。
蹴られた訳じゃないが、蹴られたようなものだ。
いっぽうずっと寝ぼけていたような雁瀬先生がしっかり自立していた。
阿戸鳴の提案はあながち間違ってはいなかった。
「ほう。人間に留まらず天使化することで直接的な影への対抗手段が生まれたのか」
にやりと不審な笑みを浮かべる。マッドティーチャーの再来だ。
「それより先生、あの女の人、空に浮いてる」
神部から逃げるように、阿戸鳴は雁瀬先生に話を振った。
「乙女の亡者、空の軍勢。先ほどの空から降ってきた影はあの亡者の差し金だ」




