九話目 女生徒の妥協点
山羊の女に気をつけろ。
忠告を残し、老婆の声は聞こえなくなった。
「おばあさん、消え……たよ」
蓮村が長い首を後ろに回す。
小刻みな揺れは治まりつつあったが、それでもまだ彼女の肩においた手には振動を感じている。
蓮村が一歩踏み出した。
すると、また快活とした笑い声が響き始める。再放送だ。
「行こう、蓮村さん。同じ事しか話せないみたい」
名残惜しそうに老婆が座るという椅子を見つめ、それから体を返した。
歩いていると、安佛が駆けてくる。あの男子生徒はいつ見ても走っている。
「先生。どこ行っていたんですか?」
特に慌てた様子はなく、ただ単に見かけたから走ってきたようだ。
蓮村がいてもたってもいられないようで、先ほど見た老婆について冷静を装うにも上手くいかず、まくし立てる。
太陽光が当たらない場所を歩き回ったせいか、今朝に比べだいぶ人型に近くなってきた。
上向に至っては皮膚を取り戻し始め、立派なたてがみは立派なもみあげ位まで規模が小さくなった。
蓮村は肌色になってきた上向の顔を見て、
「本物だ」
などとうわごとのように呟いていた。
身に溜めた太陽の力を失えば放出が止まり人間の姿に戻ることができる。
けれど、それは同時に影から身を守る手段を手放すことになる疑いがある。
実際の所詳しい事は全て推測でしかない。早いとこ本当の仕組みを見極め、効率よく快適に過ごしたいと上向が考えたところで、頼りになる情報源のあてがない。
あて、あて。完全にないわけでもなかった。
「山羊の女か。そういやさ、昨晩来たよ」
あごひげのような毛皮の感覚に夢中になっていた上向に同意を求めた。
慌ててそうですねと応答する。
「蓮村さんが見つかる前になるけど、襲ってきたんです。山羊の女」
変な長さの毛に違和感を持ちながらクセになった上向はあごを撫で続ける。
思わず蓮村は立ち上がる。そろそろ二足歩行が出来そうなほど戻っていた。
「山羊って……本当?」
「だってさ、角がさ」
こんな風にと額の隣でぐるぐる人差し指を回す。
「雁瀬先生が彼女のこと山羊と呼んでいましたよ」
「呼び方はさ山羊の亡者だったけどさ」
細かいことを指摘してくる。
「その人、どうなったの?」
「神部とけんかしてさ、雁瀬先生に捕まった後、外にさ、逃げた」
そう、安佛の言うとおり、一度捕まりかけて逃げた。
誰でも良いから人間をさらうつもりだった様子だが、先生が撃退に成功した結果、逃げたと言っていい。
明らかに友好的な人物ではなかった。
けれど、老婆の話では山羊の女は不思議な術を使えるらしい。影と違い言葉で意思疎通が出来たこともある。もし、その女を上手く捕まえることが出来れば、この不思議な現状についてもっと分かる可能性がある。
「夜になったらまた襲ってくるかもしれません」
影も亡者も、太陽の影響下には現れない。
昨日の今日で現れるとも考えにくいが、もしかしたら来るかも知れない。
早々に相談して手を打とう。
そう持ちかけると、安佛は走り出した。止めようにも足が非常に速い。追いかけるのがおっくうなので後をゆっくり歩いた。
「マレフィキを捕まえるう?」
神部は顔を引きつらせた。日光浴のかいあってか、随分調子が戻っている。それでも、一番ダメージを受けていたのは彼女だ。
コテンパンにやられたことを根に持っているらしく、無理無理次来たら死ぬなどと、弱気な発言を繰り返す。
そうは言っても、来るかどうかは相手次第。こちらとしては今晩をどう過ごすか考えることだけがだけが少ない抵抗手段。
日没までにはまだ時間はある。
「とりあえず全員変身しとくべきだろ」
学習しない阿戸鳴は女子の眼力に竦む。けれど今回は折れない。
「けど、マレフィキは変身している奴に触らなかった。触れないんだよ。それに、一番に狙われたのは変身していない奴だ。無量、お前だって分かるだろ」
言い返せないのか、無量はあごを引いた。
「守ればいい」
神部が庇う。苦い顔をしているのはそれでは通用しない事が分かっているから。
「よくない。俺らがどうこうしたところであいつは簡単に襲ってくる。変身だって一時しのぎにしかならなかったじゃないか」
神部は言葉を失った。手が自然に蹴られた場所を庇う。
そうだな、と安佛が加勢する。
「一時しのぎにしかならないけどさ。それでもさ、何もないより明らかにマシだ」
返す言葉の見つからない神部はおそるおそる無量達を見た。
「……わかった。アタシはいいよ」
ちらりと蓮村を見た後、うつむいたまま、完全な同意ではないと訴えかけるようにぼそぼそと返事をした。
一方、場木は手で胸を掴んだまま、いやいやと首を横に振る。
「場木、わかってくれよ。痛い目に遭ってほしくない」
それでもかたくなに拒絶する。
「どうしてそこまでイヤなのか、話してくれる?」
蓮村は未だほとんど牛のままだ。優しげに聞き出す。さすがに子ども扱いしすぎだろうといったところだが、ムッとした様子の後、小刻みの動きを止めて場木は顔を上げずに返事をした。
「水槽を用意してくれますか」
水槽? と聞き返すと顔を上げる。
「魚座なんです。もしかすると水が必要だと思って」
それが心配で変身を拒否していたらしい。
「それならそうと早く言えよ」
申し訳なさそうに阿戸鳴は頭を掻いた。
水槽を用意するとなると、入れ物もそうだが水を確保する必要がある。そういえば誰も今のところ水を欲していなかった。
それに、入れ物を用意すると言っても大きさが分からない。手のひらサイズなら何とでも成りそうだが場木と同じぐらいの大きさとなると、いくら彼女が小柄とはいえ子供用プールぐらいは用意することになるだろう。教室内にはとてもじゃないが置くことは出来ない。
第一、ここはパソコン教室だ。湿気は厳禁である。
「水槽に入るったってさ、そうなると一カ所から動けなくなるだろ。場木はさ、やめておいた方がいいよ」
狭い部屋に籠城が夜の基本スタイルなので、逃げ回ることはそうないだろうが安佛の指摘にも一理ある。
良いこと思いついたと、阿戸鳴は人差し指を天に向けた。
「じゃあさ、半分変身状態になれば?」
その指で首回りが毛深い人になった上向を示す。
上向の場合、三十分そこらで手の形が変わった。部分変身なら人として振る舞える。
どこから変身するか分からないという問題もあるが妥協点として、場木は同意した。
「簡単に人に戻れる呪文とか有ればいいのに」
ぶつぶつ文句をたれながら無量は目前の画面を見る。彼女も甲殻類は嫌らしく、部分変身にとどめるつもりだと言っている。
確かにそんな呪文が有れば気軽に変身が出来そうだ。ぜひとも欲しいので、山羊女を捕まえたらまず最初に問いただしても良いと上向も考える。
「はいはい、上向先生も浴びる」
理想に浸っている隙に、頭を上から蹄で押さえられた。
目前に輝くモニタがあることに気付き、嘆く。
「せっかくここまで戻ったのに」
文句を言っても彼女は聞かない。先生と敬称をつけて呼ぶのもイヤミのつもりらしい、多分朝の仕返しだろう。
その節は悪かったと反省している。
女生徒達にみるみる変化が現れてくる。
場木は鱗に覆われ始め、無量は赤焦げ茶に変色する。
やはり顕著に見えるのは手の変化で、硬質化しているのがよく分かった。痛みなどは訴えていない。
はっきり言えば、クリーチャーである。傷つけたくないので言葉には出せない。
魚座などは上手くいけば人魚姫とかわくわく変身が待っていそうなのに、現実は優しくない。
いや、足下に画面を置いたら足から変化して半人半漁が出来るのではないか。あまりの発想に自分自身が怖くなりながら牛に頭を押さえつけられ机に突っ伏し続けた。