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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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休日出勤の嘘

第7話「休日出勤の嘘」


 土曜日の朝。


 大輝はいつもより少し丁寧に髪を整えていた。


 洗面所の鏡の前で、ワックスをつける。


 シャツを選ぶ。


 腕時計をつける。


 梨花はキッチンから、その背中を見ていた。


「今日、休日出勤なんやね」


「そう」


 大輝は短く答えた。


「何時ごろ帰る?」


「分からん。終わり次第」


「お昼は?」


「外で食べる」


「分かった」


 梨花はそれ以上聞かなかった。


 聞けば、また責められる。


 でも今回は、ただ黙っているわけではなかった。


     *


 大輝が家を出る。


「行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 ドアが閉まった。


 梨花はしばらく玄関を見つめていた。


 そして、スマホを手に取った。


 麻里子へ送る。


《出た》


 すぐに返信が来た。


《分かった。探偵さんにも共有済み》


 梨花は深く息を吸った。


 心臓が強く鳴っている。


 真実を知りたい。


 でも、知るのが怖い。


 その二つの感情が、胸の中でぶつかっていた。


     *


 大輝は会社へ向かわなかった。


 京都駅へ向かった。


 休日出勤なら、本来は滋賀県内の会社へ行くはずだった。


 だが大輝は電車を乗り継ぎ、京都駅の中央改札付近で足を止めた。


 少しして、立花一絵が現れた。


「大輝!」


 一絵は手を振った。


 大輝は笑った。


 梨花には見せなくなった、柔らかな笑顔だった。


 一絵は大輝を独身だと信じている。


 疑っていない。


 休日に会えることを、ただ嬉しそうにしていた。


「仕事、大丈夫やったん?」


「うん。今日は空けた」


「無理してない?」


「一絵に会うためなら平気」


 一絵は照れたように笑った。


     *


 その少し離れた場所。


 人混みに紛れて、探偵が二人の姿を確認していた。


 時刻。


 場所。


 服装。


 接触状況。


 写真。


 動画。


 すべて記録されていく。


 大輝は知らない。


 自分の嘘が、第三者の目によって一つずつ形にされていることを。


 一絵も知らない。


 自分が独身だと思って恋をしている相手の後ろで、既に調査が始まっていることを。


     *


 二人は京都駅近くのカフェに入った。


 窓際の席。


 一絵は楽しそうに話している。


 大輝は何度も笑う。


 その後、二人は店を出て、街を歩いた。


 買い物をする。


 昼食を取る。


 夕方には、手をつなぐ。


 大輝は、もう隠す気もないように見えた。


 ただし、梨花に対してだけは隠している。


 社会に対してではない。


 一絵に対してでもない。


 妻に対してだけ、嘘を重ねていた。


     *


 夕方。


 探偵事務所から、梨花ではなく麻里子に連絡が入った。


 事前に、梨花の精神的負担を考えて、まず家族側で受けることにしていた。


 麻里子は長岡京市の観光案内所の休憩室で電話を受けた。


「はい」


 調査員の声は淡々としていた。


「対象者は会社には向かっていません。京都駅で女性と合流しました」


 麻里子は唇を噛んだ。


「やっぱり」


「現在、二人で行動中です。写真と動画は確保しています」


「ホテルは?」


「まだ確認していません。引き続き追跡します」


「お願いします」


 電話を切った麻里子は、しばらく動けなかった。


 怒りで手が震えた。


 だが、観光案内所の制服を着たまま、感情を爆発させるわけにはいかない。


 麻里子は小さく息を吐いた。


「お姉ちゃん……」


     *


 同じ頃。


 梨花は実家の旅館にいた。


 七海がそばにいる。


 光博も厨房の合間を見て様子を見に来ていた。


 梨花はスマホを握りしめていた。


「まだ連絡ない?」


 七海が聞く。


「うん」


「怖い?」


「怖い」


 梨花は正直に答えた。


「でも、知らないままの方がもっと怖い」


 七海は梨花の背中をさすった。


「そうやな」


 光博は黙っていた。


 父として、大輝への怒りは燃えている。


 けれど今は、怒鳴ることより娘を支えることが先だった。


     *


 夜。


 探偵から再び連絡が入った。


 今度は光博が受けた。


 内容を聞いた光博の顔が険しくなる。


「……分かりました。引き続きお願いします」


 電話を切る。


 梨花が震える声で聞いた。


「どうやった?」


 光博はすぐには答えなかった。


 だが、隠しても意味はない。


「二人でホテルに入った」


 梨花の顔から血の気が引いた。


 分かっていた。


 予想していた。


 証拠もあった。


 それでも、第三者から明確に告げられると、胸が裂けるようだった。


 七海が梨花を支えた。


「梨花」


「……やっぱり」


 梨花は小さく笑った。


 笑うしかなかった。


「やっぱり、そうやったんや」


 その声は壊れそうだった。


     *


 数時間後。


 大輝と一絵はホテルを出た。


 一絵は大輝の腕に寄り添っていた。


 幸せそうだった。


 その姿も、写真に残された。


 大輝は一絵の髪に触れ、何かを言って笑わせた。


 その一つ一つが記録される。


 入室時間。


 退出時間。


 二人の様子。


 ホテル名。


 周辺状況。


 逃げられない証拠が積み上がっていく。


     *


 大輝が帰宅したのは、夜遅くだった。


 梨花はその日、実家に泊まることにした。


 大輝には体調が悪いから実家にいると伝えた。


 大輝からは短く返事が来た。


《ふうん》


 それだけだった。


 心配の言葉はなかった。


 梨花は画面を見つめて、静かにスマホを伏せた。


     *


 それから数週間。


 大輝と一絵の密会は続いた。


 休日出勤。


 残業。


 飲み会。


 取引先対応。


 理由は毎回違った。


 だが行き先は、いつも一絵のもとだった。


 一絵は何も知らない。


 大輝が独身だと信じている。


 だから、疑うこともない。


「大輝、ほんまに忙しいね」


「まあな」


「でも、会ってくれて嬉しい」


「俺も」


 大輝は笑う。


 その笑顔の裏で、探偵は記録を続けていた。


 写真。


 動画。


 行動報告書。


 日時。


 場所。


 滞在時間。


 ホテルへの出入り。


 食事の様子。


 手をつなぐ姿。


 梨花の家族には、調査の進捗が伝えられていった。


     *


 梨花は報告を聞くたびに傷ついた。


 だが同時に、現実から目をそらさなくなっていった。


 七海は言った。


「今日は聞かなくてもええよ」


 梨花は首を振る。


「聞く」


「つらいやろ」


「つらい。でも、知らないふりして待ってた頃よりは、まだまし」


 その言葉に、七海は何も言えなかった。


 梨花は泣きながらも、少しずつ立ち上がろうとしていた。


     *


 そして、ある夜。


 大輝のスマホに、一絵から電話が入った。


 大輝は風呂場にスマホを持ち込もうとしていたが、梨花が近くにいたため一度外に出た。


 玄関の外。


 声を潜める。


「どうした?」


 電話の向こうで、一絵の声が震えていた。


「大輝……」


「何?」


「私、妊娠したかもしれない」


 大輝の顔から血の気が引いた。


「え?」


「まだ検査薬だけやけど……陽性やった」


 大輝は言葉を失った。


 一絵は泣きそうな声で続ける。


「どうしよう。私、大輝の子やと思う」


 大輝は壁にもたれた。


 梨花のこと。


 一絵に独身だと嘘をついたこと。


 ホテルに通ったこと。


 探偵の存在など、もちろん知らない。


 ただ、この瞬間初めて、自分の嘘が現実の重さを持って迫ってきた。


     *


 部屋の中。


 梨花は玄関の方を見ていた。


 大輝の声ははっきり聞こえない。


 けれど、ただならぬ様子だけは分かった。


 何かが起きた。


 そう感じた。


 梨花はスマホを手に取った。


 メモを開く。


《大輝、電話を受けて外へ》

《表情が明らかに動揺》

《相手は不明》


 梨花は打ちながら、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


     *


 外では、大輝がようやく声を出した。


「ちょっと待って。ほんまに?」


「うん……」


「病院は?」


「まだ」


「とりあえず、ちゃんと確認して」


「大輝、私たち結婚できるよね?」


 その言葉に、大輝は凍りついた。


 一絵は、独身の大輝を信じている。


 だから当然、そう言う。


 妊娠したかもしれない。


 なら結婚を考える。


 一絵にとっては自然な流れだった。


 だが大輝には、妻がいる。


 梨花がいる。


 消したつもりでも、法律上も現実にも、妻がいる。


     *


「大輝?」


 一絵の声が不安になる。


「……今は、落ち着こう」


「え?」


「まず病院行って、はっきりしてから」


「うん。でも、大輝はそばにいてくれるよね?」


 大輝は答えられなかった。


「大輝?」


「……もちろん」


 その返事は、あまりにも弱かった。


     *


 電話を切った大輝は、しばらく玄関の外に立っていた。


 自分は何をしたのか。


 何を壊したのか。


 ようやく少しだけ、その重みが見え始めた。


 しかし大輝が最初に考えたのは、梨花への謝罪ではなかった。


 どう隠すか。


 どうごまかすか。


 どうすれば自分が責められずに済むか。


 そのことだった。


     *


 部屋に戻った大輝の顔は青ざめていた。


 梨花は静かに聞いた。


「大丈夫?」


「別に」


「顔色悪いよ」


「うるさいな」


 その声は荒かった。


 梨花は黙った。


 そして、大輝が寝室へ行ったあと、すぐに記録した。


《電話後、顔色悪い》

《大丈夫か聞くと、うるさいな》


 梨花はスマホを閉じた。


 何が起きたのかはまだ分からない。


 けれど、何かが大きく動き始めている。


 それだけは確かだった。


     *


次回予告


第8話「問い詰めた夜」


 一絵から告げられた妊娠の可能性。


 大輝は初めて、自分の嘘が逃げ切れない現実になったことを知る。


 一方、梨花は大輝の異様な動揺に気づく。


 探偵の報告。


 スマホの記録。


 そして、大輝の不自然な態度。


 梨花はついに、問いかける。


 次回、


第8話「問い詰めた夜」


 嘘は、守るほど大きく崩れる。

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