琵琶湖の風
第6話「琵琶湖の風」
京都の老舗旅館。
奥の部屋には、重い沈黙が落ちていた。
梨花は泣き疲れた顔で座っていた。
隣には母・七海。
向かいには父・光博。
そして妹の麻里子。
スマホには、大輝の寝言の録画。
立花一絵とのやり取り。
「独身」と嘘をついていた証拠。
梨花が消されたような言葉の数々。
それはもう、ただの疑いではなかった。
*
光博が静かに言った。
「弁護士に相談しよう」
七海もうなずく。
「このまま梨花一人で抱える話やない」
梨花は涙を拭いた。
「でも……私、どうしたらいいか分からへん」
その時だった。
麻里子が顔を上げた。
「待って」
三人が麻里子を見る。
麻里子の目は、はっきりしていた。
「弁護士に相談する前に、探偵を使おう」
梨花は驚いた。
「探偵?」
「うん」
麻里子はスマホを指さした。
「今ある証拠でも十分ひどい。でも、大輝さんは絶対言い逃れする」
光博が眉を寄せる。
「酔って変なこと言っただけ、とかか」
「そう。LINEも、冗談やとか、勢いやとか言うかもしれへん」
麻里子は拳を握った。
「もっと証拠を集めな、逃げられる」
*
梨花はうつむいた。
「でも、探偵ってお金かかるんちゃう?」
「お金なら私が出す」
麻里子は即答した。
梨花が顔を上げる。
「何言ってるん。麻里子にそんな負担かけられへん」
「私はお姉ちゃんを助けたい」
「でも……」
その時、光博が口を開いた。
「いやいや、麻里子一人に重い負担はかけられへん」
七海もうなずいた。
「そうや。これは家族で出す」
「お父さん、お母さん……」
光博は静かに言った。
「梨花を守るためのお金や。惜しむ理由がない」
七海も梨花の手を握る。
「今は遠慮せんでええ」
梨花の目に、また涙が浮かんだ。
でもその涙は、さっきとは少し違っていた。
孤独の涙ではなかった。
*
翌日。
梨花は仕事を休んだ。
体調不良と伝えた。
嘘ではなかった。
心も体も、もう限界に近かった。
昼過ぎ。
梨花、麻里子、光博、七海は大津市内へ向かった。
琵琶湖沿いの道路を車が走る。
水面は穏やかだった。
空は薄く曇っている。
風が湖から町へ流れていた。
梨花は窓の外を見ていた。
ここで大輝と暮らしていた。
ここで待ち続けた。
ここで傷つけられた。
同じ町なのに、昨日までとは違って見えた。
*
探偵事務所は、大津市内の雑居ビルの三階にあった。
派手な看板はない。
小さな表札に、調査事務所の名前が書かれているだけだった。
梨花は入口の前で足が止まった。
「怖い?」
麻里子が聞く。
梨花は小さくうなずいた。
「うん」
「怖くてええ」
麻里子は静かに言った。
「でも、一人やない」
光博が背中を押すように言う。
「行こう」
*
中に入ると、落ち着いた雰囲気の応接室に通された。
対応したのは、四十代後半ほどの男性調査員だった。
無理に親しげな態度は取らない。
淡々としているが、冷たくはなかった。
「本日は、配偶者の不貞調査ということでよろしいですか」
その言葉に、梨花の胸が痛んだ。
配偶者。
不貞。
自分の結婚が、そういう言葉で説明される現実。
梨花は小さくうなずいた。
「はい」
*
梨花は、これまでの経緯を話した。
帰宅が遅くなったこと。
残業だと言っていたこと。
立花一絵という女性の通知。
大輝が独身だと嘘をついていたこと。
寝言の録画。
LINEのスクリーンショット。
スマホのメモに残した暴言の記録。
話している途中、声が震えた。
けれど、麻里子が隣で手を握ってくれていた。
*
調査員は資料を確認しながら言った。
「現時点でも、かなり重要な情報はあります」
梨花は顔を上げた。
「でも、これだけでは足りませんか」
「相手が認めれば話は早いです。ただ、否認された場合、第三者が客観的に確認した証拠が強くなります」
光博が聞いた。
「具体的には?」
「二人が一緒にホテルへ出入りする写真。宿泊や滞在が分かる記録。複数回の接触状況。日時、場所、行動の記録です」
七海は静かに息を吐いた。
梨花は手を握りしめた。
分かっていたことなのに、実際に言葉にされると苦しかった。
*
麻里子が尋ねた。
「大輝は金曜に遅くなることが多いです」
「その曜日を重点的に調査するのが現実的ですね」
「次の金曜も遅くなるって言う可能性が高いです」
調査員はうなずいた。
「では、勤務先付近、または京都駅周辺を中心に動きを確認します」
梨花は思わず言った。
「一絵さんは、大輝が独身だと信じています」
調査員は梨花を見る。
「その可能性が高いと」
「はい。LINEを見る限り、本当に知らないみたいでした」
「分かりました。そこは今後の対応で重要になるかもしれません」
梨花は唇を噛んだ。
一絵を憎みきれない。
でも、傷ついているのは自分だ。
そのねじれが、梨花の心をさらに苦しめていた。
*
契約の説明を受ける。
費用の話になると、梨花はまた顔を曇らせた。
「やっぱり高い……」
麻里子が即座に言った。
「出す」
光博が止める。
「だから一人で背負うな」
七海も続けた。
「家族で分ける」
梨花は小さく言う。
「ごめん」
光博は首を振った。
「謝るな」
梨花は父を見る。
光博は、はっきり言った。
「悪いのは梨花やない」
その一言に、梨花はまた泣きそうになった。
*
事務所を出る頃には、夕方になっていた。
ビルの外へ出ると、琵琶湖からの風が吹いていた。
梨花は少しだけ立ち止まった。
遠くに水面が見える。
穏やかで、広くて、何もかも飲み込んでしまいそうな湖。
梨花は、涙をこらえながら言った。
「私、まだ大輝のこと、信じたかったんやと思う」
七海が隣に立つ。
「うん」
「一絵さんのことも、憎みたいのに……知らんかったんやと思うと、憎みきれへん」
「うん」
「でも、私が一番傷ついたんやよな」
麻里子が言った。
「当たり前や」
梨花は小さくうなずいた。
「私、自分が傷ついたって、ちゃんと思ってええんやな」
光博が静かに答えた。
「思ってええ。怒ってええ。泣いてええ」
*
その夜。
梨花は大津のアパートへ戻った。
大輝はまだ帰っていない。
いつものように、残業だと言っていた。
梨花は部屋を見回した。
テーブル。
ソファ。
キッチン。
冷蔵庫。
結婚生活のために揃えたものばかりだった。
でも今は、どれも少し遠く感じた。
*
スマホが震えた。
大輝からだった。
《今日も遅い。夕飯いらん》
梨花は画面を見つめた。
以前なら、胸が沈んだ。
今も苦しい。
けれど、梨花はすぐにメモを開いた。
《大輝より連絡》
《今日も遅い》
《夕飯いらん》
《理由説明なし》
記録する。
残す。
自分の感覚をなかったことにしない。
それが今の梨花にできる、最初の抵抗だった。
*
深夜。
大輝が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「飯は?」
「いらないって言ったから、作ってない」
大輝は眉をひそめた。
「普通、何か置いとくやろ」
梨花は胸が痛んだ。
でも、静かに答えた。
「いらないって言ったから」
「ほんま気が利かんな」
梨花はそれ以上言わなかった。
代わりに、心の中で覚えた。
あとで記録する。
*
大輝はスマホを持ったまま風呂場へ向かった。
その背中を見ながら、梨花は静かに息を吸った。
もう、ただ待つだけではない。
もう、ただ泣くだけではない。
探偵が動き出す。
家族が動き出す。
そして梨花自身も、少しずつ立ち上がろうとしていた。
*
次回予告
第7話「休日出勤の嘘」
大輝は、次の土曜日に休日出勤だと言い出す。
梨花は何も知らないふりをして送り出す。
その裏で、探偵の調査が始まっていた。
京都駅。
待ち合わせ場所。
そして、立花一絵と笑い合う大輝。
梨花が信じようとした「仕事」は、別の顔を持っていた。
次回、
第7話「休日出勤の嘘」
真実は、優しくはない。




