妹の違和感
第5話「妹の違和感」
一ヶ月が過ぎた。
大輝の「残業」は、もう日常になっていた。
週に一度だった遅い帰宅は、二度になり、三度になり、やがてほとんど毎晩になった。
「今日も遅くなる」
「残業?」
「そう。給与締め関係」
「この前も言ってたよね」
梨花がそう言うと、大輝はすぐに顔をしかめた。
「何? 俺の仕事疑ってんの?」
「そういう意味じゃ……」
「じゃあ黙っといて」
その一言で、会話は終わる。
梨花は黙るしかなかった。
*
その頃、大輝は立花一絵との密会を続けていた。
一絵は、高校の同級生。
大輝がかつて密かに思いを寄せていた女性だった。
再会した日、大輝は咄嗟に嘘をついた。
まだ独身だ、と。
一絵はそれを信じていた。
だから、一絵にとって大輝との時間は、不倫ではなかった。
久しぶりに再会した独身の同級生との恋。
少し懐かしくて、少しときめく、自然な恋愛の始まり。
そう思っていた。
*
京都駅近くの店。
一絵は楽しそうに笑った。
「大輝って、昔より落ち着いたね」
「そうか?」
「うん。仕事もちゃんとしてるし」
「まあ、総務やしな。給与計算とか勤怠管理とか、ミスできへん仕事やから」
「そういうきっちりしてるところ、昔からあったよね」
大輝は少し得意げに笑った。
梨花には見せない顔だった。
一絵は知らない。
その男が家で妻を見下し、傷つけていることを。
妻がいることすら、知らない。
*
会う回数が増えるほど、一絵の気持ちは深まっていった。
「大輝、ほんまに彼女いないん?」
ある夜、一絵は少し照れたように聞いた。
大輝は平然と答えた。
「いない」
「ほんまに?」
「ほんま」
「じゃあ、私が好きになっても大丈夫?」
その言葉に、大輝の心は強く揺れた。
梨花の顔が一瞬浮かぶ。
けれど、すぐに消した。
梨花とはもう、うまくいっていない。
家にいても疲れるだけ。
あいつは何もできない。
自分を分かってくれるのは、一絵の方だ。
そう考えることで、大輝は自分の嘘を正当化した。
「大丈夫やで」
大輝は言った。
一絵は安心したように笑った。
*
そして、ある夜。
食事のあと、二人は駅へ向かって歩いていた。
もう終電までは少し余裕がある。
夜風が冷たかった。
一絵は立ち止まり、大輝の腕にそっと触れた。
「今日、帰りたくない」
大輝は黙った。
一絵は顔を赤らめながら、それでもはっきり言った。
「私を抱いてほしい」
その言葉で、大輝の中の最後のためらいが崩れた。
超えてはいけない線。
戻れなくなる線。
そこに、梨花の姿はあった。
だが、大輝は見ないふりをした。
*
ホテルの部屋。
大輝は、一線を越えた。
それは一絵にとっては、好きになった独身男性と結ばれた夜だった。
だが、大輝にとっては違う。
妻を裏切った夜だった。
梨花との結婚生活を、自分の手で壊した夜だった。
終わったあと、一絵は大輝の胸に寄り添った。
「大輝、好き」
大輝は天井を見つめていた。
そして、内心で思った。
梨花と結婚するんじゃなかった。
罪悪感より先に、その身勝手な後悔が浮かんだ。
*
その頃。
梨花は大津のアパートで待っていた。
冷めた味噌汁。
手をつけられないままの焼き魚。
二人分の箸。
時計は二十三時を過ぎていた。
梨花はスマホのメモを開く。
《今日も残業》
《夕飯いらない》
《帰宅時間不明》
文字を打つ指が重かった。
信じたい。
けれど、信じられない。
疑いたいわけではない。
でも、疑う材料ばかりが増えていく。
*
深夜。
玄関の鍵が開いた。
大輝が帰ってきた。
「ただいまー」
声が妙に明るい。
酒の匂いがした。
梨花は立ち上がった。
「おかえり。飲んでたの?」
「ちょっとな」
「残業じゃなかったの?」
「残業のあと、付き合いや」
大輝はふらつきながら靴を脱いだ。
かなり酔っている。
梨花はその姿を見て、胸の奥がざわついた。
何か口走るかもしれない。
そう思った。
女の勘と言うには、あまりにも嫌な予感だった。
梨花は静かにスマホを手に取り、録画を始めた。
画面は伏せた。
声だけでも残ればいい。
*
大輝はソファに倒れ込んだ。
「疲れたわー」
「水、飲む?」
「んー……」
大輝は目を閉じた。
そして、眠りに落ちかけた声でつぶやいた。
「一絵ちゃーん……」
梨花の呼吸が止まりかけた。
大輝は続ける。
「今日は気持ちよかったよ〜……また行こうねぇ……」
部屋の空気が凍った。
梨花はスマホを握りしめた。
録画は続いている。
聞き間違いではない。
一絵。
気持ちよかった。
また行こうね。
その一言一言が、梨花の胸をえぐった。
*
大輝はそのまま寝落ちした。
床には、大輝のスマホが落ちていた。
梨花は、それを見つめた。
触れてはいけない。
そう思った。
でも、もう自分の人生が嘘で塗りつぶされている気がした。
知らないままでは、前に進めない。
大輝のスマホに通知が出る。
《立花一絵:今日はありがとう。大輝のこと、もっと好きになった》
梨花は震える手でスマホを拾った。
大輝は泥酔している。
画面ロックは、顔認証で開いた。
*
そこには、一絵とのやり取りが大量に残っていた。
《今日も会えて嬉しかった》
《大輝、ほんまに彼女いないんだよね?》
《いないよ》
《じゃあ、私が好きになってもいい?》
《もちろん》
《大輝といると安心する》
《俺も一絵といる方が楽》
《今度はもっと一緒にいたい》
《泊まろうか》
《うん。大輝に抱かれたい》
梨花の手が震えた。
一絵は、知らない。
大輝が既婚者だと知らない。
梨花という妻がいることを知らない。
大輝が独身だと信じている。
その事実が、梨花の胸をさらに複雑にした。
怒りの矛先が、一絵だけに向かない。
一番悪いのは、大輝だった。
*
さらに画面を追う。
《今日、残業ってことにして出るわ》
《仕事大変なんやね》
《まあな》
《無理しないでね》
《一絵に会えるなら平気》
梨花は息をのんだ。
一絵は本当に信じている。
残業で忙しい大輝。
独身の大輝。
自分だけを見てくれる大輝。
その全部が、大輝の作った嘘だった。
*
梨花は必要な画面をスクリーンショットした。
自分のスマホに送る。
クラウドにも保存する。
録画データも保存する。
そして麻里子に送った。
《証拠、見つけた》
スクリーンショット。
録画。
通知の画像。
すべて送信した。
送った瞬間、梨花の手が震え始めた。
*
数分後。
麻里子から電話が来た。
梨花は出た。
「お姉ちゃん」
麻里子の声は、これまで聞いたことがないほど低かった。
「これ、本物?」
「うん」
「大輝さん、今どこ?」
「ソファで寝てる」
「一絵って人、大輝さんが独身やと思ってるんやな」
「うん」
「……最低やな」
麻里子は吐き捨てるように言った。
「お姉ちゃんにも、一絵さんにも嘘ついてる」
梨花は涙をこぼした。
「私、ずっと待ってた」
「うん」
「帰ってくるの、ずっと待ってた」
「うん」
「でも大輝は、私のこと何も考えてなかった」
麻里子は少し黙った。
そして言った。
「お姉ちゃんは悪くない」
「でも、私がつまらないから?」
「違う」
「私が何もできないから?」
「違う」
麻里子の声が強くなる。
「大輝さんが嘘つきなだけや」
*
梨花は床に座り込んだ。
ソファでは、大輝が眠っている。
何も知らない顔で。
自分がどれだけ人を傷つけたかも分からずに。
梨花は、初めて声を出して泣いた。
「私、妻やのに」
「うん」
「妻やのに、独身って言われてた」
「うん」
「私、いないことにされてた」
その言葉に、麻里子も息をのんだ。
梨花が一番傷ついたのは、そこだった。
裏切られたこと。
嘘をつかれたこと。
そして、自分の存在を消されたこと。
*
麻里子は言った。
「今すぐ問い詰めたらあかん」
「でも……」
「分かってる。私も今すぐ怒鳴り込みたい」
「……」
「でも、ここからは証拠を守る。感情で動いたら、向こうに逃げ道作られる」
梨花は涙を拭った。
「どうしたらいい?」
「明日、実家に来て」
「お父さんとお母さんに?」
「うん。全部話す」
梨花は怖かった。
けれど、もう一人では抱えられなかった。
「分かった」
*
翌朝。
大輝は頭を押さえながら起きた。
「頭痛い」
梨花はキッチンに立っていた。
「水、置いてる」
「昨日、俺なんか変なこと言ってた?」
梨花の手が止まった。
「寝てたよ」
「ふうん」
大輝は安心したように水を飲んだ。
梨花は振り返らなかった。
今問い詰めたら、証拠を消される。
逆上される。
また梨花が悪者にされる。
だから黙った。
*
出勤前。
大輝はいつものように言った。
「今日も遅くなる」
梨花は静かに答えた。
「分かった」
「夕飯いらん」
「分かった」
大輝は梨花を見た。
「何か怒ってる?」
「別に」
「感じ悪」
その言葉も、梨花はスマホに記録した。
*
その夜。
京都の旅館。
奥の部屋に、梨花、麻里子、光博、七海が集まった。
梨花は録画を再生した。
「一絵ちゃーん……今日は気持ちよかったよ〜……また行こうねぇ……」
七海は目を閉じた。
光博は拳を握った。
麻里子は唇を噛んだ。
次に、スクリーンショットを見せた。
大輝が一絵に独身だと嘘をついていたこと。
残業だと偽って会っていたこと。
一絵がそれを信じていたこと。
すべてが画面に残っていた。
*
光博が低く言った。
「これは、もう夫婦喧嘩やない」
七海も静かに言う。
「梨花、よう一人で耐えてきたな」
その言葉で、梨花は崩れた。
「私、ずっと待ってた」
「うん」
「信じようとしてた」
「うん」
「でも、私、いないことにされてた」
七海は梨花を抱きしめた。
「いないことになんか、なってへん」
梨花は泣いた。
七海は続けた。
「梨花はここにおる。私たちの大事な娘や」
麻里子も隣に座る。
「大輝さんが消そうとしても、私はお姉ちゃんの味方や」
光博は静かに言った。
「弁護士に相談しよう」
*
梨花は涙の中でうなずいた。
まだ心は砕けている。
悔しい。
苦しい。
惨めだと思ってしまう。
けれど、その夜、梨花は初めて家族の前で全部を見せた。
大丈夫と言わなかった。
隠さなかった。
泣いた。
その涙は、負けではなかった。
壊されっぱなしでは終わらないための、最初の涙だった。
*
次回予告
第6話「琵琶湖の風」
大輝の裏切りを知った梨花。
怒りより先に押し寄せたのは、自分の存在を消されたような深い痛みだった。
一方、一絵はまだ何も知らない。
大輝を独身男性だと信じ、恋をしている。
光博、七海、麻里子は、梨花を守るために動き出す。
次回、
第6話「琵琶湖の風」
泣くことは、負けることではない。




