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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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消された通知

 第4話「消された通知」


 大輝の帰りが遅くなって、二週間が過ぎた。


 最初は週に二日。


 それが三日になり、四日になり、やがてほとんど毎日になった。


「今日も残業」


「給与締め?」


「そう」


「でも、先週も締め前って言ってなかった?」


 梨花がそう聞いた瞬間、大輝の表情が変わった。


「何? 俺の仕事に文句あるん?」


「そういう意味じゃなくて」


「総務の仕事、分かってへんくせに口出すなよ」


 梨花は黙った。


 大輝はスマホをポケットに入れ、玄関へ向かう。


「夕飯いらん」


 ドアが閉まった。


 部屋に残った梨花は、しばらく動けなかった。


 *


 その日の夕方。


 梨花は仕事帰りに、京都の実家へ向かった。


 老舗旅館。


 夕食前の時間帯で、厨房は慌ただしかった。


 父・篠田光博は料理長として、黙々と包丁を動かしていた。


 母・七海は女将として、帳場で宿泊客の確認をしていた。


 梨花の顔を見るなり、七海はすぐに気づいた。


「梨花、どうしたん」


「……ちょっと話したくて」


 七海は帳場の仕事を従業員に任せ、梨花を奥の部屋へ連れていった。


 *


 梨花は、少しずつ話した。


 大輝の帰りが遅いこと。


 給与締め前だと言い続けていること。


 スマホを手放さなくなったこと。


 聞くと怒ること。


 そして、ノートに言葉を記録していること。


 七海は黙って聞いていた。


 途中で遮らなかった。


 ただ、梨花の手を見ていた。


 指先が震えていた。


 *


「梨花」


 七海が静かに言った。


「お母さんな、嫁ぐ前、大輝さんの会社で働いてたんよ」


 梨花は顔を上げた。


「え?」


「同じ会社。総務部におった」


「そうなん?」


「うん。今は旅館の女将やけど、結婚前は会社員やった」


 七海は少し遠い目をした。


「給与計算も勤怠管理も、やってた」


 梨花は息をのんだ。


 七海は続けた。


「もちろん締め前は忙しい。間違えたらあかん仕事やし、集中もいる。でもな」


 七海の声が少し硬くなった。


「夜十一時まで毎日かかるようなことは、普通ありえへん」


 梨花の胸がどきりとした。


「ありえへん……?」


「少なくとも、お母さんがいた頃はそうやった。遅くても十九時ごろには終わってた」


「でも、今は時代も変わってるし」


「それでも毎日はおかしい」


 七海は、はっきり言った。


「給与締めを理由にしてるだけかもしれん」


 *


 梨花は黙った。


 薄々感じていたことを、母の口から言われると、急に現実味を帯びた。


 信じたい。


 信じたいのに、信じる材料が減っていく。


 七海は梨花の手を握った。


「あと、そのノート」


「うん」


「見つかったら危ないかもしれへん」


 梨花ははっとした。


「昨日、見せろって言われた」


「やっぱり」


 七海の顔が厳しくなる。


「紙のノートは隠してても見つかる。これからはスマホのメモ機能に残しなさい」


「スマホ?」


「ロックかけて、分かりにくいタイトルにして。例えば買い物メモとか、勤務メモとか」


 梨花は小さくうなずいた。


「でも、スマホ見られたら」


「パスコードを変えなさい。大輝さんに分からんものに」


 七海の声は、女将の声ではなかった。


 母の声だった。


 娘を守ろうとする声だった。


 *


 そこへ、光博が入ってきた。


 白い調理服の袖をまくり、梨花を見る。


「話は聞いた」


「お父さん……」


 光博はしばらく黙っていた。


 怒っている。


 梨花には分かった。


 けれど、その怒りは静かだった。


「梨花」


「うん」


「夫婦のことやから、すぐに親が口出すもんやないとは思ってる」


「……」


「でもな、相手が娘の心を壊しにきてるなら話は別や」


 梨花の目に涙が浮かぶ。


 光博は低く言った。


「帰ってきたかったら、いつでも帰ってこい」


 梨花はうつむいた。


 その一言で、張りつめていたものが少し緩んだ。


 *


 その夜。


 梨花は大津のアパートへ戻った。


 大輝はまだ帰っていない。


 時計は二十二時半を過ぎていた。


 梨花は母に言われた通り、スマホのメモアプリを開いた。


 新しいメモを作る。


 タイトルは、


 《勤務メモ》


 そこに記録を移した。


 《段取り悪い》

 《空気読めない》

 《お前は何もできない》

 《監視してんの?》

 《気持ち悪いな》

 《心配してるふりして詮索すんな》


 さらに今日の分を加える。


 《総務の仕事、分かってへんくせに口出すなよ》

 《夕飯いらん》


 打ちながら、梨花は自分の手が震えていないことに気づいた。


 怖い。


 でも、少しだけ冷静になっていた。


 *


 その頃、大輝は京都駅近くの居酒屋にいた。


 向かいには立花一絵。


「大輝、ほんま変わってへんな」


「そうか?」


「うん。話しやすい」


 大輝は笑った。


 家ではほとんど見せない笑顔だった。


 一絵は大輝が独身だと思っている。


 だから距離が近い。


 大輝も、それを訂正しなかった。


「仕事忙しいん?」


「まあな。総務は大変やで」


「ちゃんとしてる男ってええやん」


 大輝は満足そうに笑った。


 梨花の前では得られない種類の称賛だった。


 *


 深夜。


 大輝が帰宅した。


 玄関の鍵が開く音。


 梨花はソファで待っていた。


「おかえり」


「起きてたん」


「うん」


「寝てたらええのに」


 大輝はそう言いながら、スマホを手に持っていた。


 画面が光る。


 一瞬、通知が見えた。


 《立花一絵:今日は楽しかった。また会いたい》


 梨花の目が、その名前を捕らえた。


 立花一絵。


 知らない名前だった。


「大輝」


「何」


「今の人、誰?」


 大輝の表情が固まった。


 次の瞬間、画面を消した。


「何が」


「通知。立花一絵って」


「見たん?」


「見えた」


「人のスマホ覗くなよ」


 声が低くなる。


「覗いたんじゃない。通知が出て」


「同じやろ」


「誰なの?」


 梨花は震えながらも聞いた。


 大輝は舌打ちした。


「高校の同級生」


「今日会ってたの?」


「たまたま連絡来ただけ」


「でも、今日は楽しかったって」


「しつこいな」


 大輝は梨花をにらんだ。


「俺が誰と連絡取ろうが勝手やろ」


「残業って言ってた」


「残業のあとに少し会っただけや」


 梨花は息をのんだ。


 初めて、大輝の言葉に矛盾が見えた。


 *


「なんで言わなかったの」


「言う必要ある?」


「私は妻やよ」


 その一言に、大輝の顔が歪んだ。


「妻やから何?」


 梨花は固まった。


「束縛する権利あると思ってんの?」


「そうじゃなくて」


「そうやろ。自分に自信ないから疑うんやろ」


「違う」


「違わへん」


 大輝は一歩近づいた。


「梨花ってほんま面倒くさい」


 梨花の喉が詰まる。


「私、ただ聞いただけ」


「ただ聞いただけって言い方するやつほど、相手を責めてるんや」


 大輝はスマホをポケットに入れた。


「ほんま、帰ってきてまで疲れるわ」


 *


 梨花は立ち尽くした。


 聞いた自分が悪いのか。


 通知を見た自分が悪いのか。


 でも、大輝は残業だと言った。


 それなのに、誰かと会っていた。


 しかも、女の人。


 立花一絵。


 その名前が頭から離れなかった。


 *


 大輝は寝室へ行った。


 梨花はリビングに残る。


 すぐにスマホを開いた。


 メモアプリ。


 《勤務メモ》


 梨花は打った。


 《23時過ぎ帰宅》

 《通知:立花一絵》

 《今日は楽しかった。また会いたい》

 《問いかけると画面を消す》

 《人のスマホ覗くなよ》

 《妻やから何?》

 《面倒くさい》

 《帰ってきてまで疲れる》


 打ち終えたあと、梨花はスマホを胸に抱いた。


 紙のノートなら、見つかっていたかもしれない。


 母の言葉が、梨花を守った。


 *


 翌朝。


 梨花は京都の病院へ向かう電車の中で、麻里子にメッセージを送った。


 《立花一絵って人の通知を見た》


 すぐ返信が来た。


 《誰?》


 《高校の同級生らしい》


 《残業ちゃうかったん?》


 《残業のあと少し会っただけって》


 数秒後。


 《お姉ちゃん、それ絶対メモして》


 《した》


 麻里子から、短く返ってきた。


 《よし》


 その一文字に、梨花は少しだけ呼吸が楽になった。


 *


 その日の昼。


 麻里子は長岡京市の観光案内所でパンフレットを整理していた。


 観光客に笑顔で道案内をする。


 けれど頭の中では、梨花のことばかり考えていた。


 姉は、まだ大輝を信じたいのだろう。


 まだ自分の結婚生活を終わらせる覚悟まではできていない。


 でも、麻里子には分かった。


 これはもう、ただの夫婦喧嘩ではない。


 大輝は隠している。


 そして、梨花が気づこうとすると、梨花を悪者にする。


 麻里子は観光案内所の窓の外を見た。


「お姉ちゃん、負けたらあかんで」


 小さく、そう呟いた。


 *


 夜。


 大輝はまたスマホを風呂場へ持ち込んだ。


 梨花はそれを黙って見ていた。


 以前なら、怖くて目をそらしていた。


 今も怖い。


 でも、目をそらしてはいけない気がした。


 隠す人間ほど、疑う側を悪者にする。


 その言葉が、梨花の中で形を持ち始めていた。


 *


 次回予告

 第5話「妹の違和感」


 麻里子は、梨花の変化をさらに強く感じ取る。


 笑い方。


 声の細さ。


 謝る癖。


 そして、スマホに残された記録。


 一方、大輝は立花一絵との距離を急速に縮めていく。


 まだ不倫ではない。


 だが、嘘はもう夫婦の真ん中に置かれていた。


 次回、


 第5話「妹の違和感」


 壊れていく人ほど、大丈夫と言う。

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