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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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遅すぎる帰宅

第3話「遅すぎる帰宅」


 給与締め前。


 大輝はそう言うようになった。


「今週、帰り遅くなるわ」


 夕食の支度をしていた梨花は、振り返った。


「毎日?」


「総務は月末忙しいねん。給与計算あるし、勤怠の確認もある」


「そっか。大変やね」


「分かってへんやろ」


 大輝はネクタイを直しながら、軽く笑った。


「梨花には分からん仕事やし」


 その一言に、梨花の胸が小さく痛んだ。


 けれど、もう言い返さなかった。


 言い返せば、また始まる。


 お前は何もできない。


 その言葉が、まだ耳の奥に残っていた。


     *


 梨花はノートを開いた。


 麻里子に言われてから、少しずつ記録をつけていた。


 日付。


 時間。


 場所。


 言われた言葉。


 その時の状況。


 書くたびに、自分の結婚生活を客観的に見せつけられるようで苦しかった。


 けれど同時に、少しだけ救われてもいた。


 自分の感じた痛みは、気のせいではない。


 ノートは、それを証明してくれていた。


     *


 その週末。


 大輝は一人で郊外の大型店へ買い物に出かけた。


「一緒に行こうか?」


 梨花が言うと、大輝はすぐに首を振った。


「ええわ。一人の方が早い」


「買うもの多いなら手伝うよ」


「手伝うって、余計時間かかるやん」


 梨花は黙った。


「じゃあ、お願い」


「最初からそう言えばええねん」


 大輝は財布とスマホを持ち、出ていった。


     *


 郊外のショッピングモール。


 休日の店内は家族連れで混んでいた。


 大輝は生活用品をカートに入れながら、退屈そうにスマホを見ていた。


 梨花といる時のような重さはない。


 一人でいる方が気が楽だった。


 その時だった。


「あれ? 大輝じゃない?」


 聞き覚えのある声。


 大輝は顔を上げた。


 そこに立っていたのは、立花一絵だった。


     *


 高校の同級生。


 大輝が、密かに思いを寄せていた相手だった。


 明るく、よく笑い、男女問わず人気があった。


 当時の大輝は、結局告白できなかった。


 卒業後は連絡も途絶えた。


 その一絵が、目の前にいる。


「一絵?」


「やっぱり大輝やん。久しぶり」


「ほんま久しぶりやな」


「何年ぶり? 高校卒業以来?」


「たぶんそうやな」


 一絵は昔と変わらない笑顔で笑った。


 大輝の心が、少し浮いた。


     *


 二人は店内のカフェスペースに移動した。


 ほんの少し話すだけ。


 大輝はそう思っていた。


 けれど、話は止まらなかった。


「覚えてる? 文化祭で大輝、音響係やってたやん」


「あったな」


「あの時、先生にめっちゃ怒られてたやん」


「いや、あれ俺だけ悪くないし」


「出た、言い訳」


 一絵は笑った。


 大輝も笑った。


 久しぶりだった。


 何も気を遣わず、楽しく話せる感じ。


 梨花と話す時には、最近感じなくなっていた軽さだった。


     *


 一絵はコーヒーを飲みながら言った。


「大輝、今何してるん?」


「精密機械メーカーの総務」


「へえ、すごいやん」


「まあ、給与計算とか勤怠管理とか」


「ちゃんとしてそう。大輝、昔から細かかったもんな」


 大輝は少し得意になった。


「まあな」


「私、そういうきっちりした人、結構好きやで」


 何気ない一言。


 けれど大輝の心は、明らかに揺れた。


     *


 別れ際。


 一絵がふと思い出したように聞いた。


「そう言えば大輝、まだ独身なん?」


 その瞬間、梨花の顔が一瞬だけ頭をよぎった。


 朝、弁当を作る梨花。


 すぐ謝る梨花。


 泣きそうな顔をする梨花。


 何を言っても黙り込む梨花。


 大輝の中で、その姿は「妻」ではなく、いつの間にか「不満の対象」になっていた。


 結婚している。


 そう言えば終わる。


 一絵は笑って「そうなんや」と言って去っていくだろう。


 大輝は、それが惜しくなった。


 そして、言ってしまった。


「まだ独身やで」


 一絵の顔がぱっと明るくなった。


「ほんまに?」


「うん」


「なんや、意外。大輝、もう結婚してると思ってた」


「まあ、縁がなくてな」


 嘘が、するりと口から出た。


 自分でも驚くほど自然だった。


     *


 一絵は少し照れたように笑った。


「じゃあ、私が彼女に立候補しようかな」


 大輝の心臓が跳ねた。


「え?」


「冗談半分、本気半分」


 一絵はスマホを取り出した。


「連絡先交換しよ。今度ご飯行こうよ」


 大輝は迷わなかった。


 スマホを出した。


 二人は連絡先を交換した。


「また連絡する」


「うん、待ってる」


 一絵は手を振って去っていった。


 大輝はしばらくその場に立っていた。


 罪悪感がなかったわけではない。


 けれどそれ以上に、胸が高鳴っていた。


     *


 帰宅した大輝は、いつもより機嫌がよかった。


「ただいま」


「あ、おかえり」


 梨花は夕食の準備をしていた。


「買い物ありがとう」


「ん」


 大輝は荷物を置くと、すぐにスマホを確認した。


 一絵からメッセージが来ていた。


《今日は会えて嬉しかった。懐かしかったね》


 大輝は思わず笑った。


 梨花は、その顔を見た。


 最近、自分には向けられない笑顔だった。


「誰かから?」


「会社」


「日曜やのに?」


「総務は色々あるねん」


「あ、そっか」


 梨花はそれ以上聞かなかった。


 聞けなかった。


     *


 その夜から、大輝の行動は少しずつ変わっていった。


 スマホを伏せて置く。


 通知が来るとすぐ見る。


 風呂場にまでスマホを持っていく。


 寝室でも画面を隠すように操作する。


 梨花が近づくと、すぐ画面を閉じる。


「最近、スマホよく見てるね」


 梨花が言うと、大輝は露骨に顔をしかめた。


「監視してんの?」


「そんなつもりじゃ……」


「気持ち悪いな」


 梨花は息をのんだ。


「ごめん」


「ほんま、そういうとこやで」


 大輝はスマホを持って寝室へ行った。


     *


 梨花はリビングに残り、ノートを開いた。


 日付。


 時間。


 場所。


《監視してんの?》

《気持ち悪いな》


 書いている途中で、手が止まった。


 疑っているわけではない。


 そう思いたかった。


 でも、胸の奥がざわついていた。


 大輝は誰と笑っているのだろう。


 誰に、あんな顔を向けているのだろう。


     *


 数日後。


 大輝の帰宅はさらに遅くなった。


「今日も残業」


「昨日も遅かったよね」


「給与締め前やって言ってるやろ」


「体、大丈夫?」


「心配してるふりして詮索すんな」


 梨花は黙った。


 心配。


 不安。


 疑い。


 その全部を、大輝は一言で押しつぶす。


 梨花はまたノートに書いた。


     *


 週の半ば。


 麻里子が梨花の家に来た。


 大輝は残業だと言って、まだ帰っていなかった。


 麻里子はテーブルの上のノートを見た。


「見てもいい?」


 梨花は少し迷い、うなずいた。


 麻里子はページをめくった。


 そこには、大輝の言葉が並んでいた。


《段取り悪い》

《空気読めない》

《お前は何もできない》

《監視してんの?》

《気持ち悪いな》

《心配してるふりして詮索すんな》


 麻里子の表情が、少しずつ硬くなった。


「お姉ちゃん」


「うん」


「これは記録して終わりやない」


 梨花は顔を上げた。


「え?」


「このまま積もったら、お姉ちゃんの心が先に壊れる」


「でも、まだ……」


「まだって言うてる間に、壊されるんやで」


 麻里子の声は低かった。


 怒っていた。


 でもそれは、梨花に対する怒りではなかった。


     *


 麻里子は続けた。


「大輝さん、最近帰り遅いんやろ」


「うん。給与締め前やって」


「スマホは?」


「ずっと見てる」


「風呂場にも持っていく?」


 梨花は驚いた。


「なんで分かるん?」


「分かるわ」


 麻里子は苦い顔をした。


「怪しい人の定番やん」


「でも、仕事かもしれへんし」


「仕事なら堂々とする」


 梨花は何も言えなかった。


     *


 その時、玄関の鍵が開いた。


 大輝が帰ってきた。


 時計は夜十一時を過ぎていた。


「ただいま」


 大輝はリビングに入って、麻里子を見るなり一瞬表情を変えた。


 しかしすぐに外向きの笑顔を作った。


「あれ、麻里子ちゃん来てたん」


「こんばんは」


「遅くまですみません」


「いやいや、全然」


 大輝は笑っている。


 けれど梨花には分かった。


 機嫌が悪い。


 麻里子も分かっていた。


     *


 麻里子が帰った後。


 大輝は低い声で言った。


「何しに来てたん」


「普通に話してただけ」


「俺の悪口?」


「違う」


「ノート見せた?」


 梨花の体が固まった。


 大輝の目が細くなる。


「何のノート?」


「……仕事のメモ」


「ふうん」


 大輝は近づいてきた。


「見せて」


「嫌」


 梨花は初めて、はっきりそう言った。


 大輝の顔が変わった。


「何やその言い方」


「私のノートやから」


「夫婦やろ」


「でも、私のもの」


 大輝はしばらく梨花を見下ろした。


 そして鼻で笑った。


「麻里子ちゃんに入れ知恵されたんか」


「違う」


「ほんま一人じゃ何もできへんな」


 梨花の心がまた痛んだ。


 でも、その夜は泣かなかった。


     *


 寝室に入った大輝は、布団の中でスマホを開いた。


 一絵からメッセージが届いていた。


《今度の金曜、仕事終わり空いてる?》


 大輝はすぐに返信した。


《空いてる》


《じゃあご飯行こ。久しぶりにゆっくり話したい》


 大輝は口元を緩めた。


《楽しみにしてる》


 横で梨花は眠ったふりをしていた。


 画面の明かり。


 小さな笑い声。


 指先の動き。


 全部、感じていた。


     *


 翌朝。


 大輝は言った。


「金曜、残業で遅くなる」


 梨花は味噌汁をよそいながら、静かに聞いた。


「何時くらい?」


「分からん」


「夕飯は?」


「いらん」


「分かった」


 梨花はそれ以上聞かなかった。


 聞けば怒られる。


 でも、何も聞かなければ、自分の心だけが沈んでいく。


     *


 大輝が出勤した後、梨花は麻里子に連絡した。


《金曜、また遅くなるって》


 すぐに返信が来た。


《残業?》


《そう言ってた》


 少し間があって、麻里子から返ってきた。


《お姉ちゃん、今は責めんでいい。見るだけ。記録するだけ》


 梨花はスマホを握りしめた。


 疑いはまだ小さい。


 証拠もない。


 でも、何かが違う。


 その感覚だけは、もう消せなかった。


     *


 金曜日の夜。


 大輝は京都駅近くの店で、一絵と向かい合っていた。


「ほんま久しぶりやな」


「ね。なんか高校に戻ったみたい」


 一絵は笑った。


 大輝も笑った。


 その頃、梨花は大津のアパートで一人、冷めていく味噌汁を見つめていた。


 夫は残業だと言った。


 信じたい。


 でも、信じきれない。


 梨花はノートを開いた。


 日付。


 時間。


 内容。


《金曜、残業で遅くなる。夕飯はいらない》


 そこまで書いて、ペンを止めた。


 窓の外は暗い。


 琵琶湖の水面は見えない。


 けれど、静かな夜の底で、何かが確実に濁り始めていた。


     *


次回予告


第4話「消された通知」


 残業のはずの夜。


 大輝のスマホに届いた一通の通知。


 そこに表示された名前。


 立花一絵。


 梨花は初めて、その名前を見る。


 問いかけた瞬間、大輝は画面を消す。


 そして、いつものように梨花を責め始める。


 次回、


第4話「消された通知」


 隠す人間ほど、疑う側を悪者にする。

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